2022年7月31日日曜日

「先の者」「あとの者」(下)

『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)

 マタイ伝にはこの御言葉の後にぶどう園に働く人を雇う譬えが載せてある(20章)。弟子らの心にはまだ『誰か大ならんか』との高ぶりが刈り取られずに残っていたのでこの喩えを語られたように思われる。

 十二のお弟子の中でもヨハネとヤコブはことに野心の強い人で弟子らの中で第一位を占めたいと願ったことは明らかに示されている(マルコ伝10章36節)。彼らがそう考える理由はあった。一つは彼らの母サロメはイエスの母マリヤと親戚の間柄であったようであるし、二つには、彼らは最初にイエスのお弟子になった者である。すなわち『先の者』であった。

 人間の心の敵で最も恐ろしく、最も執着の強いのはこの高ぶりである。多くの人は自分の標準を周囲の人々に置く。そして先とならんことを学ぶ。この心が善く用いられて自己の修養となっている間はさほど醜くもないがひとたびドングリの背比べとなり、さらに一転して自分より優れた人を妬むようになってくると、そこには悪魔の姿が現れてくる。

祈祷
主イエス様、願わくは私たちの心よりこの醜い我執を取り除き給え。人を己に優れりとしつつ、まさにその美点に倣い、報いを求めずして、ただあなたの足跡を慕いて進む者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著212頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のA.B.ブルースの3「先の者があとに、あとの者が先に」と題する文章の後半部分である。

 さて、たとえから、それを説明しようとしていたことばに戻ろう。私たちは、能力、熱心、奉仕の長さにおいて先に立つような人々が報酬に関して最後の地位に落とされることがしばしば起こりやすいことである、と言われているのに気づく。「先の者があとになることが多いのです。」この言明は、うぬぼれが十二弟子のような立場にある人々、すなわち、神の国のために犠牲を払った人々を襲いやすい罪である、と言うことを暗示している。今や、観察によって、これが事実であることがわかる。それはさらに、自分を捨てて労する人々が特に自己義認の罪に陥りやすい状況にある、ということを教えてくれる。これらの状況が何であるかをここで指摘すれば、その深い、そして、多くの人に一見不明瞭なイエスのことばを説明するのに役立つであろう。

 一、キリストのために犠牲を払う人々が自己義認の心情に陥る危険があるのは、自己否定の精神が習慣となっている時ではなく、非常にまれな行為にそれが発揮される時である。このような場合、キリスト者は非常時に臨んでいつもの精神状態をはるかに越える霊的な高みに引き上げられる。それで、犠牲を払った時にはキリスト者にふさわしく振舞ったかもしれないが、老兵が彼の戦いを振り返るように、後になって自分たちの立派な行為に自己陶酔しがちである。そして、ペテロのようにすべてを捨てたことを誇らしげに意識して、「私たちは何がいただけるでしょうか」と問いがちである。それは寒心にたえない心の状態である。霊的高慢と自己陶酔が蔓延する社会は不健全である。万物の道徳律に預言者的洞察を有する方は、将来起こることを予告することができる。自分を先と考える宗教社会は、賜物と恵みにおいて次第に遅れをとるようになる。その人々から見くびられている他の宗教社会が次第に成長して、ついに誰の目にも明らかに両者の地位が逆転するまでになる。

 二、神の国のために犠牲を払う人々の精神に大きな堕落の危険が臨むのは、ある特定の種類の奉仕が非常に需要度が高く、それゆえ特別に高い評価を受けるような時である。一例として、迫害の時代に激しい肉体的苦痛と死を忍耐することを取り上げよう。苦難を受けた初期の数世紀の教会において、殉教者や迫害に屈しなかった信仰者がどれほど熱狂的讃美の対象となったかはよく知られているところである。殉教を遂げた人々は、熱狂した民衆によって神のように祭り上げられた。彼らの死の記念日ーーそれは永遠の世界への彼らの生誕日と呼ばれたーーは厳かに祝われた。そこでは、この世における彼らの行為と苦難が途方もない称賛の調べのうちに熱烈な賛美を持って語られた。

 キリストのために死ぬことはなかったが苦しみを受けた信仰者たちも、試練に遭わない一般のキリスト者たちとははっきり区別されて、上に位する者として尊敬された。彼らは聖人であり、その頭上には栄光の光輪が輝いていた。彼らは神に並ぶ権能を有し、正規の教会指導者たちよりも大きな権威を持って、つないだり解いたりできると信じられていた。堕落した人々は、彼らからの赦免を熱心に求めた。この聖人たちが司式する聖餐式に列席を許されることは、罪人たちが教会の交わりに復帰してもよい門戸開放と見なされた。彼らが罪を犯した者たちに「安らかに行け」と言っただけで、司教たちもその罪人たちを受け入れなければならなかった。司教たちも一般民衆と一緒になって、キリストのために苦しみを受けた人々に偶像崇拝的な忠誠を誓った。司教たちがその信仰者たちを敬愛しほめそやしたのは、ある程度は正真な称賛からであったが、ある程度は政策的なものでもあった。つまり、ほかの人々を彼らの模範に倣うように勧め、苦難の時代に必要とされる剛毅の徳を養うためであった。

 教会におけるこうした心理状態が、真理のために苦難に耐えた人々の魂を、熱狂、虚栄、霊的な高慢、鉄面皮に誘い込む大きな危険をはらんでいたことは明白である。彼らはみな決して誘惑を卒業していたのではない。多くの人は、彼らが受ける称賛を彼らにふさわしい者と考え、彼らを特別に偉大な人物と見なした。その勇敢な行為を将軍から称賛された兵士たちは、まるで自分が主人であるかのように振舞い始めた。例えば、特別な犯罪者だった人に、彼を過大にたたえてこんな手紙を書くまでになった。「すべての篤信者から司教キプリアヌスへ。このことを知ってほしい。われわれは、あなたがその行為についてーーすなわち、彼らが罪を犯してからどのように振舞ったかーー報告したすべての人々に平安を授けた。われわれは、これらの賜物があなたから他の司教たちにも伝えられるように願っている。われわれは聖なる殉教者とともに、あなたが平安を保ち続けられるように祈る。」

 こうして、「先の者があとになることが多いのです」ということばは、この篤信者たちにおいて成就した。彼らは真理のために苦しむことや神聖なることの名声では先に立っていたが、人の心を探られる方〔神〕の審判ではあとになった。彼らはその体を打たれ、不具にされ、焼かれるために明け渡した。しかし、それはほとんど無益に等しかったのである。

 三、先の者があとになる危険は、自己否定が手段化され、キリストのためではなく、自分自身のために禁欲的になされる時である。自己否定の量に関しては、厳格な禁欲主義者に第一位の座が与えられることを誰も否定しないだろう。しかし、彼が真の霊的価値において、それゆえ神の国において第一位を占める資格があるかどうかは、さらに議論の余地がある。

 自我を捨てるという根本的な事柄に関しても、彼は多分、先ではなくあとになろう。禁欲主義者の自己否定は、巧妙な方法での強烈な自己主張である。真のキリスト者の自己犠牲は、自分自身のためではなく、キリストのために、また、犠牲なしに真理を守ることができない時には真理のために受ける苦難や喪失を意味する。ところが、禁欲主義者の自己否定はそのようなものではない。それは、すべて自分のため、彼自身の霊的利益と信用のために耐えた苦行である。彼が自己否定を実践するのは、お金をためたい一心であらゆる贅沢をやめ、生活必需品までケチケチする守銭奴に似ている。その守銭奴のように、彼は自分が富んでいると考えている。だが、二人とも同じように貧しいのである。守銭奴は、多くの富がありながら、楽しむべき日々の必需品と引き換えに貨幣を手放すことができず、禁欲主義者の場合は、いわゆる難行苦行なる「善行」という彼らの貨幣が偽物で、天の御国において通用しないからである。自分の魂を救うべくなされた彼の労苦は、ガラクタが焼き尽くされる時、その正しさが判明するだろう。もし彼が救われるとしても、それは火の中をくぐるようにしてであろう。

 さて、先の者があとになる危険性のある三種類の場合をちょっと思い返すと、「多いのです」ということばがおおげさでないことがわかる。というのも、信仰を告白するキリスト者によってなされるわざのいかに多くが、これらの危険性のいずれかに属していることか考えてみよ。時たまの突発的な努力、宗教界でもてはやされて尊敬されている慈善行為、さらにまた、働きへの関心より、行為者者自身の宗教上の利益に関係してなされる善行、多くの者が神のぶどう園の働きに招かれる。また、多くの者がその働きに従事する。しかし、選ばれる者は少ない。選り抜きの働き人は少ない。イエスの教えの精神によって神のために働く者は少ない。

 そのような働き人が少ないと言っても、幾らかはいる。イエスは、先の者がすべてあとになり、あとの者がすべて先になる、とは言われていない。イエスが言われたのは、そういう場合が多い、ということである。どちらにも多数の例外がある。一日中労苦と暑さを辛抱した者全部が、金銭ずくで、自己義認的であるのではない。否、主はいつもご自分のぶどう園に立派な働き人の一団を持っておられる。彼らは、もし誇る機会があったならいつでも、その奉仕の長さ、精励、効率を誇ることができたであろうが、いささかも自己満足な思いを抱くことはなく、他の連中よりどれだけ多くもらえるだろうかという打算にふけることもない。

 異教の地へ赴いた献身的な宣教師たち、ルターやカルヴァンやノックスやラティマーのような偉大な改革者たち、最近は減っているが、私たちの時代の優れた人々のことを考えてみるがよい。このような人々が、先にぶどう園に来た労務者のように語ると考えられようか。まさに思いもよらない。生涯を通じて、彼らの思いと奉仕はまことにへりくだっていた。そして、その生涯を閉じる時、彼らには、日中の働きは永遠のいのちという大きな報酬には全く値しない、大変貧しいものに見えたのである。彼らのような先の者が、あとになることはない。

 先の者であとにならない人々がいるなら、もちろん、あとの者で先にならない人々もいるはずである。もしそうでなければーーもし、奉仕の長さ、熱心、献身であとであるのに、ある人には便宜が図られるならーー神の国に混乱をもたらすことになろう。事実、そうなれば怠惰にプレミアムをつけるようなことになり、一日中何もせずに立っていたり、五時ごろまでは悪魔に仕えたりすることを奨励することになりかねない。また、老年になってぶどう園に行き、手足が思うように動かず、体が弱ってふらつく中で、主のために気の抜けた一時間の仕事をすることを奨励するようなものである。そのような士気をくじくような規定は神の国では通用しない。他の事柄が同等なら、より長く、より熱心に仕え、より早く仕事に着手し、より勤勉に働く人ほど、来るべき世でより豊かなものを与えられる。遅れて働き出す人々が恵みのうちに扱われるなら、それは彼らの遅れにもかかわらずであって、遅れたためではない。彼らが長い間怠けてきたことはほめられることではなく、明らかに罪である。またそれは自分は運が良かったと満悦することではなく、深くへりくだるべきことである。自分たちの奉仕の素晴らしさを誇るために多く主に仕えた人々が間違っているとするなら、自分の小さな奉仕を自慢する人はなおさらけしからねことであり、愚かでさえある。先の者でも、誇ったり、自らを義とする正当な理由を持っていないとすれば、あとの者はなおさらである。)

2022年7月30日土曜日

「先の者」「あとの者」(上)

『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)

 ペテロは浅はかにも『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』と言って献身の方面はすでに済んでこれからは報酬を受ける一方あるのみだと思った。焉んぞ知らん彼は今やっと『何もかも捨てる』道の第一歩についただけであったのである。イエスはそこに注意を与え給うた。

 ペテロよ一切を捨てたのはよい。必ず報酬がある。けれども油断するな。お前より後の者の中により多く一切万事を献げるものが生ずる時に、お前はかえってあとになるかも知れない。否、報酬を第一として目の前に置いている者は必ずあとになる。左様な心を捨てるのが一切を捨てる心の眼目ではないか。

 だから、ただ『わたしのために、また福音のために』一生懸命になるがよい、と。これがペテロ及び私どもに与え給う主の慈悲深いみことばであると思われる。

祈祷
イエス様、あなたの御愛は実に高く深く、私どもをご自身の姿にまで引き上げんとして下さることを感謝致します。どうかあなたが何をも求めずして十字架について下さったように私をもただあなたを愛するが故に一切を献げたいという心を持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著211頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。  A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に とすでに述べたように、三つに分けて詳述している。その三番目に該当する文章の前半部分を紹介する。

3、先の者があとに、あとの者が先に

 自己犠牲の報酬について述べた後、イエスは、献身的な行為の動機のようなものであっても、すでになされたような行為に見られる自己満足的考えのようなものであっても、恥ずべき思いにふけることから生じる報酬の没収また部分的喪失の危険を示していかれた。イエスはあたかも指を差し上げるようにして、警告的に「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われた。それから、その奥深い意味を説明するために、マタイの福音書だけがその直後に収録しているたとえを話された。

 その説明は、ある点で説明されるべき事柄よりも難しく、多くの異なる解釈がなされてきた。それでも、このたとえが主に意図するところは充分明らかなように思われる。これは、ある人々が考えているように、誰もが永遠の御国において同じ分け前にあずかることを教えようとしているのではない。そういうことは前後の思想のつながりと合わないだけでなく、真実ではない。また、このたとえは、救いは恵みによるのであって行いによるのではないという偉大な福音的真理を明らかにしようとしているのでもない。説教において、その基本的教理を論じるのは大変結構なことだが。そこに述べられている顕著な思想は次のようなものと思われる。つまり、働きの価値を評価するに当たって、すべての人が仕える神である主は、量ばかりでなく質をも、すなわち、その働きを行なった精神〔霊的状態〕をも考慮に入れられる。

 神の国における働きと報酬という重要な主題に関するイエスの教えの全体を概観すると、この見方の正しいことがわかる。そのことから、両者の関係は公正な法則によって定められていて、気まぐれは完全に排除されているように見える。そのため、もし働きにおいて先の者が報酬においてあとであるなら、どんな場合も、それは相当の理由があってのことである。

 福音書には、この主題に関して全部で三つのたとえがあり、それぞれ異なる考えを述べている。そして、特別に今考察中のたとえの私たちの解釈が正しければ、これら三つのたとえが組み合わさって、それらが関係している主題の完全な見方を提示してくれる。それらはタラントのたとえ、ミナのたとえ、そして私たちがいま扱っている「ぶどう園の労務者」〈別の呼び方もある〉のたとえである。

 これら三つのたとえが異なると同時に相互に補足しあっていることを知るために、働きの価値が決定されるべき原則を心に留めておく必要がある。人々の行いを正しく評価するために、三つのことが考慮されなければならない。すなわち、働いた仕事の量、働く者の能力、そして動機、動機のことは差し当たって考慮に入れないことにしよう。そうすると、能力が等しい時は仕事の量が相対的な価値を決定する。能力が異なる時は、価値を決定すべきものは絶対量ではなく、量と能力の関係である。

 ミナのたとえとタラントのたとえの意図は、それぞれこの二つの命題〔能力が等しい時、及び能力が異なる時の価値決定〕を例証することである。ミナのたとえでは、能力においてはすべて平等で、十人のしもべは一ミナずつ受けている。しかし、仕事の量は異なり、あるしもべは一ミナで十ミナをもうけたのに、別のしもべは一ミナで五ミナをもうけただけである。さて、前述の規定によって、第二のしもべは第一のしもべと同じ報酬を受けるわけにはいかない。なぜなら、彼はやれたかもしれないことをやらなかったからである。したがって、このたとえでは、二人のしもべに与えられる報酬においても、彼らの主人のそれぞれに対する話しかけ方においても、差別が設けられている。第一のしもべは十の町を与えられて、それらを治めるようになる。そして次のような賛辞が添えられる。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」

 一方、第二のしもべは五つの町しか与えられず、さらに注目すべきことに称賛の言葉が省かれている。主人は彼にあっさり、「あなたも五つの町を治めなさい」と言うだけである。彼は幾らかのこと、怠け者に比べればかなりのことをした。それで、彼の奉仕は認められ、それに応じて報いられる。しかし、彼は良い忠実なしもべとは言われていない。称賛が差し控えられたのは、それに値しなかったからである。彼は自分にできることを精一杯にやらなかった。第一のしもべの働きを可能性の基準にすれば、彼は可能なことの半分しかしなかったのである。

 タラントのたとえでは状況が違っている。働いた量〔もうけた額〕が異なるのはミナのたとえと同じである。ただしこの場合は、能力もそれぞれの仕事量に比例して異なっている。それで二人のしもべの間のもうけの割合は、それぞれに与えられたタラントの額と同じである。あるしもべは五タラントを受けて五タラントもうける。別のしもべは二タラントを受けて二タラントもうける。前述の規定によるなら、この二人の働きの価値は等しい。そのように、彼らはこのたとえで描写されている。同じ報酬が二人にそれぞれあてがわれ、二人とも全く同じことばで称賛を受ける。どちらの場合も、主人のことばはこうである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 このように働く能力と働いた量の二つの要素を考慮に入れる時、正当な論拠が得られる。また、この二つの要素を一つにすると、熱心の要素となる。しかし、少なくとも神の国においては、熱心以上のものが考慮されなければならない。この世において、人々はしばしばその動機にかかわりなく、勤勉さのゆえに称賛される。世間の喝采を博すためには、熱心であることさえいつも必要とは限らない。ある人が大きなことや気前よく見えることをすると、人々は、それが彼にとって真に素晴らしいことなのかどうかーー自己犠牲を伴う利他的な行為か、それとも、必ずしも真面目さや献身を示すものでない単なる立派な行為かーーを問うことなく、彼をほめそやすであろう。

 しかし、神がご覧になると、多くの大きいものが非常に小さいものであり、多くの小さいものが非常に大きいものである。なぜなら、神は行為の隠れた源泉である心を見通し、その泉によって流れを判断されるからである。そこに熱心がないなら、量は神にとって無に等しい。また、それがあらゆる虚栄心や利己心からきよめられていないならーー正しい動機という純粋な泉でなければーー熱心も神にとって無に等しい。その熱心はあらゆる肉欲の煙が払いのけられた、天来の献身の純粋な炎でなければならない。卑しい動機はすべてを無効にしてしまう。

 この真理を強調すること、すなわち、行いや犠牲と関連して正しい動機と心情の必要性を説くことこそ、ペレヤでイエスが語られたこのたとえの意図にほかならない。それが教えているのは、正しい精神によってなされた少量の仕事は、どれほど熱心に遂行されたとしても間違った精神でなされた大量の仕事よりも価値がある、ということである。駆引きのない人々によってなされた一時間の仕事は、一日中暑さと苦しみに耐えながらも、その行為がひとりよがりとしか見えない人々によってなされた十二時間の仕事より価値がある。

 訓戒的に言うと、このたとえの教えはこうなる。雇い人のように卑しく計算ずくで働くな。また、パリサイ人のように、報酬を当然の権利と考えて尊大に要求する態度で働くな。せいぜい自分は役に立たないしもべであると考えて、謙遜に働け。利己的な打算に動かされない人々のように惜しみなく働け。物惜しみしない偉大な雇い主〔神〕を信頼する人々のように、あらかじめしっかり契約が結ばれているので、それからあなたが自分を守る必要のない方と彼をみなして、誠実に働け。

 この解釈においては、ぶどう園に最初に来た人々の精神と最後に来た人々の精神とは、それぞれ指摘されてきたようなものであったと考えられている。そして、この仮定は、それぞれの仲間の描かれ方によって正当と認められる。最後に来た人々がどんな精神で働いたかは、彼らが何の契約も取り交わさなかったことから推論できよう。最初に来た人々の気質は、その日の終わりに彼らが口にしたことばから明らかである。彼らは、「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」と言った。このことばには、ねたみや嫉妬やうぬぼれが感じられる。そのことばは、この労務者たちがその日の仕事の初めにとった行動と合致している。彼らは決められた報酬額で働くことに同意して、契約を結び、ぶどう園に雇われて来たのである。

 最初に来た人々〔先の者〕と最後に来た人々〔あとの者〕とは、神のしもべであることを告白する者たちの間の二種類の人々を表している。先の者は打算的で、ひとりよがりな人々である。あとの者は謙遜な人々、無私無欲な人々、寛大な人々、誠実な人々である。先の者はヤコブのような人々で、「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」と自分で言えるほどに、コツコツと律儀に働くが、自分の利益に敏感で、その信仰においても自分たちに安全な契約をするように取り計らい、偉大なる主の自由な恵みと開放的な気前の良さに信頼しようとしない。あとの者は、彼らの奉仕の遅いことにおいてではなく、その信仰の広く大きいことにおいてアブラハムのような人々である。アブラハムが行き先を知らずに、ただ神が「わたしが示す地へ行きなさい」と言われたことだけを頼りに、父の家を離れたように、彼らは何の契約もせずにぶどう園に入って行く。

 先の者はシモンのような人々で、正義感が強く、尊敬すべきで、模範的であるが、気難しく、単調で、愛情に欠けている。あとの者は石膏のつぼを持った女のようである。彼女たちは長い間、怠惰に、無目的に、罪にまみれて人生を浪費してきたが、ついに、その無益な過去を悔いて激しい涙にくれながら、真面目に生活を始める。そして、身も心もささげて主なる救い主に仕えることによって、失われた時を取り戻そうと努める。

 さらに、先の者は父の家にとどまっている兄のような人々である。彼らは父の戒めに背くことはないが、そむく者たちに冷淡である。あとの者は放蕩息子のようである。彼らは父の家を出て、自分の財産を奔放な生活に使い果たす。しかし、ついに我に返ると、「立って、父のところに行こう」と決心し、父に会うや「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりのようにしてください」と絶叫するのである。

 このように特色を異にする二種類の人々は、このたとえにおいて、まさに彼らがそうあるべきように取り扱われている。あとの者が先になり、先の者があとになっている。あとの者は、そうすることが主人の喜びであることを示すように、先に支払いを受ける。しかも彼らはかなり歩のいい賃金をもらっている。なぜなら、一時間の仕事に対して十二時間働いた人々と同じ額の賃金を受け取るのであれば、彼らは一日で十二日分の賃金をもらうことになるからである。彼らが受けた扱いは、まさに、父に祝宴をもって迎えられた放蕩息子のようであった。「先の者」は、その奉仕が認められていたにもかかわらず、友だちと楽しむために子山羊一匹もくれなかったと父に不平を言った兄のように扱われている。自分を雇い人の一人にしか値しないと考える人々は、息子として遇せられる。自分を最も価値ある者と考える人々は、雇い人として冷遇される。※実に類稀なるメッセージである、明日は後半の紹介である。)

2022年7月29日金曜日

自己犠牲の報酬(3)

その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け(マルコ10・30)

 キリストは来世を説かれた。これは動かすことが出来ぬ。最高の理想の実現を確実に握られたのである。同時に『今のこの時代に』大きな祝福がくることを断言した。キリストを信じキリストに従うことは私たちの現在の所有を百倍にすることになるのだと言うのである。こんな良い商売が他にあるだろうか。一躍百倍の所有となる。

 だがイエスは真面目で言っているのである。物の価値にはその外面的価値と内面的価値とがある。家にも畑にもこの二様の価値があるか、ことに父母、妻子、兄弟に至ってはその外面的価値よりもその内面的価値の方が重いのである。キリストに一切を献げることによって、これらすべてのものがその所有者に対して本当の価値を生じてくる。

 キリストを信ずることによって、逆境に立たされ、月給が一割ほど減ぜられたけれども家計はかえって楽になったと言っている人がある。一旦父母に捨てられたけれども、ついに父母を信仰に導いて百倍の喜びにいる人もある。『『モーセは、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富』であることを経験した(ヘブル11章26節)。

祈祷
主イエス様、あなたは奪われます。あなたの愛はたびたび私の所有を奪われます。しかしあなたが奪われるときは必ず百倍のものを与えんがためであることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』中の昨日の文章の続きである。 

 ではいったい、そのあるものとは何か。それは自己犠牲の報酬として十二弟子に贈られる、神の国における神の栄光、誉れ、力である。それは部分的にはこの世において、完全には来るべき世において贈られる。この世でのことに関する限り、それは、彼らがキリスト教会の使徒及び創設者として、イエスの仲間としての法的権限を行使したことによって証明された。その目的のために主に訓練を受けた最初の福音の宣教者である十二使徒は、彼ら以後誰も務め得なかった教会における重要な地位を占めた。天の御国の鍵が彼らの手に渡された。彼らは、その上に教会が打ち立てられるべき土台石であった。いわば彼らは、キリストを信じる信仰を告白したすべての人々を受け入れる聖なる国、真の神のイスラエルの十二部族を裁き、導き、治める監督の座に着いたのである。

 十二使徒は、彼らの生きている間、そのような最高の影響力を及ぼした。いや、今なお及ぼし続けている。彼らのことばはかつてそうであったばかりでなく、今も法〔神の命令〕である。彼らの例に倣うことは、すべての時代にわたって義務づけられると見なされてきた。主の深いことばの霊感された解説である彼らの手紙から、教会はその信条の中に取り入れられた教理体系を引き出した。現存する彼らの文書はすべて聖なる正典〔聖書〕の一部となり、その記されたすべてのことばは信者たちによって「神のことば」と見なされている。確かにここには、充分に王の尊厳を持った力と権威がある。世間の目を引くような王者の装いには欠けているが、ここには至高の実体がある。イエスの使徒たちは王子の服は着ていなかったが、本当に王子たちであった。そして彼らは、一つの部隊を治めることは愚か、イスラエルの王国を割り当てられるよりもはるかに広範な支配を行うように定められていたのである。

 十二弟子への約束は、地上の教会に置けるだけでなく、天の教会における彼らの地位にも関係していることは疑いない。彼らが永遠の御国でどうなるかは、私たち自身がどうなるかわからないと同様よくわからない。概して天についての私たちの知識は大変ぼんやりとしている。しかしながら、私たちは明らかな聖書の主張のゆえに、人々は地上においてと同じように天においても死んだ状態にはないということを信じる。急進主義は、この世の安定した社会の法則でないように、天の御国の法則ではない。栄光の御国は、完成された恵みの国、地上で開始された新生が最終の完全な発達段階に至った国にほかならない。しかし、不完全な状態での新生には、人々を霊的生活の支配にある社会に組み入れようとするもくろみがある。御国に入れられる者は、すべてキリスト・イエスにあって新しく造られた者である。そして、霊的な人として最高の背丈に達した者たちには、最高の地位が割り当てられる。

 この理想は、完全に実現されるには至っていない。その実現を目指して生まれた「見える教会」は、外見上、理想の神の都からは期待外れで終わっている。常にそうだった。キリストのために何も捨てたことのない偽使徒たちが、栄光の座を獲得するために、野心、利己心、世的な知恵、へつらいなどをほしいままにすることがしばしばあった。それゆえ、私たちはなお、見える教会が到底及ばない、私たちの思いをはるかに越える真の神の都を、あこがれの眼で待ち望んでいるのである。その理想の国では、完全な道徳秩序が保たれているであろう。そこでは、各人がそれぞれにふさわしい本当の地位を与えられる。つまらない人物が高い地位に着くことはなく、優れた人物が妨害を受けたり、低い身分や無名のままでいることはない。最も優れた人は、たといいま最低の扱いを受けていたとしても、最も高くされる。「誰も誤って称賛されたり、へつらいで祭り上げられたりすることのない所には、真の栄光がある。そこには、それを受けるにふさわしい者が誰も拒まれず、ふさわしくない者には誰にも与えられない、真の名誉がある。ふさわしくない者が幾ら熱望してもそれが得られず、そこには、ふさわしいものだけしか入ることが許されない。」

 その神の国における最も優れた人々の中に、人の子〔イエス〕と運命を共にし、彼の放浪と試みに同行した十二人も含まれている。おそらく天には、知性やその他の点で彼らに勝る者が大勢いるだろう。しかし、最高の地位の人々もその誉れある地位を喜んで彼らに譲るであろう。彼らはイエスを信じた最初の人々また悲しみの子〔イエス〕の親しい友として、その御名を諸国民に伝える喜びの器であり、ある意味で、すべての信じる者に天の御国を開放したのである。

 キリストのために苦しみを受ける白衣の殉教者、信仰者たちの指導者として、使徒たちに与えられた約束の意味はこのようなものであると考える。次に、すべての忠実なキリスト者に差別なく与えられた約束に注目したい。マルコの福音書には次のように書かれている。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

 この約束も、十二弟子への特別な約束と同じく二重の意味がある。神を第一にすることは、この世でも来るべき世でも有益であると言われている。キリストのために犠牲を払う人々は、来るべき世には永遠のいのちを受ける。この世にあっては、彼らは迫害と共に犠牲となった分の百倍を受ける。前者の永遠のいのちについては、輝かしい来世において保証された最低の報酬と理解すべきである。すべての信仰者は最低限それを得る。その最低のものとは何と最高のものであろう。どうあっても永遠のいのちのようなものを得られることが、キリストのことばに保証されているとは何と幸いなことであろうか。私たちは真理と良心のために生きる者らしく振舞い、信仰の戦いを立派に戦いたい。そうすることによって、私たちはそのような栄冠を手にすることができる。「素晴らしい天来の希望は、どんな試練にも耐えさせてくれる。」

 至福の朽ちないいのちの栄冠を得るのであれば、私たちは、死に至るまで忠実であるということを主の側の不当な要求と考えるべきではない。このようなことのために犠牲となった生命は、大洋に注ぐ川のようであり、真昼のさんさんと輝く光の中で消えてしまった明けの明星のようである。私たちに約束されたこの幸いな希望をしっかりと掴み、その不思議な力によって信仰の勇者に造り変えられたいものである。

 今の私たちは、来るべきいのちをかすかに信じているだけである。私たちの目はかすんでいて、はるかかなたの国を見ることができない。ある人々は、私たちがイエスの約束された将来の報酬なしに行うことができ、無神論主義に立って英雄を演じることができると考えるほど理性的になった。そのとおりかどうかまだわからない。殉教者たちの記録は、永遠のいのちを本気に信じた人々が何をやり遂げてきたかを私たちに告げている。今日に至るまで、私たちは、不信仰者によってなされたいかなる英雄的行為も犠牲も聞いていない。懐疑主義の殉教史はまだ書かれたことがない。

 来世にに関するキリストの約束の方は、信じて受けなければならない。この世に関する方は、見て確かめることが許されている。それで、次のような質問が充分考えられる。実際のところ、犠牲がこの世で同様に百倍ーー正確には幾倍かーーのもので報いられるとは本当なのか。この質問に対して、こう答えることができよう。

 第一に、もし私たちが個人の生涯に見方を限定せず、後の世代をも含めて見るなら、その約束が変わらず有効であることがわかるだろう。摂理がその結果を見るだけの時間を与えられた時、柔和な人々は、少なくとも彼らの相続人や後継者の時代までには地を相続し、豊かな平和を楽しむことになる。迫害の理由もついに世の尊敬を博すようになり、それが与え得る豊かな報酬をそこから受けるのである。その時、預言者のことばは成就する。「あなたが子を(迫害者の手で)失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。」「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。」

 これらの預言の約束は、突飛なことのように思われるが、教会史において再三再四成就されてきたのである。初期の時代には、異教徒にあおり立てられた迫害の火の後、コンスタンディヌス帝の治世に古めかしい迷信や偶像礼拝がついに絶えた。プロテスタントの英国においては、かつてキリストのためにすべてを失う覚悟をし、事実多くのものを失った人々のいたことが知られているが、今日、英国は海の女王であり、全世界の富の継承者である。〔訳注・これは前世紀の英国のことで、現在の英国には必ずしも当てはまらない〕。大西洋を越えた新大陸には、富と力で英国に匹敵する強大国〔アメリカ〕が生まれた。それは、祖国よりも宗教的自由を愛し、未踏の大陸の荒野に専制政治からの避け所を求めた、少数の亡命のピューリタンの群れから成長した国である。

 それでも、厳密に字句通りに受け止めるなら、キリストの約束はすべての場合に有効なのではないと認めざるを得ない。多くの神のしもべたちは、世の人々が悲惨な運命と見たであろうような生涯を送った。では、彼らの場合、約束は全く無効になったのであろうか。否である。なぜなら、第二に、その約束が成就される道は一つではなく、それ以上に多くの道があるからである。例えば、祝福は、それらを全く放棄することによって、その外面的大きさは変わることはなくとも百倍に増し加えられるだろう。真理のために払われた犠牲、私たちがキリストのために喜んで放棄したことは何であれ、その瞬間から、その価値は無限に増大するようになる。父や母、またこの世の友は、私たちが「キリストが第一で、これらのものは第二でなければならない」ということを学び取った時、言いようもなく愛すべき存在となる。アブラハムがイサクを死から取り戻した時、イサクはアブラハムにとって百人の息子に値する存在となった。

 また別の面から例証するならば、獄中で、家に残してきたかわいそうな盲目の娘を思うジョン・バンヤンを考えてみよ。彼はその比類なき著書『恩寵溢る』の中で、このように彼の心情を吐露している。「不憫な子よ。おまえはこの世で何と悲しい目に遭うことだろう!私はそう思った。私は風がおまえに吹きつけるのさえがまんできないのに、おまえは打ち叩かれ、物乞いをし、飢えと寒さと裸、その他幾千の災難を受けなければならない。しかしなお、私はこう思った。おまえをとことん置き去りにしても、おまえをすべて神に任さなければならないと。ああ!私は妻子の頭上に家を取り壊そうとした〔妻子の自滅を図った〕人のようであった。しかし私は、神の箱を他国へ運ぶために子牛を残して行った二頭の乳牛のことを考えた。」

 もし、物事を楽しむ能力が本当の意味で所有の尺度だとしたら、また実際そうなのであるが、ここで考えられている事例では、妻子を捨てることはそれらを百倍に増やすことであった。そして、放棄された物の増大された価値のうちに、犠牲と迫害に対する充分な慰謝料を見出すことができるのである。

 ベッドフォードの囚人〔バンヤン〕の独白はまさに自然の情愛を吐露した詩である。乳牛への言及には何と哀感がこもっていることか。何という優しい情感の深さか。そのように感受する力が自己犠牲の報酬である。そのように愛する力が、キリストのために自分の親族を「憎む」ことの報酬である。自然の情愛を不忠実の口実にする人々の中では、そのような愛は見られない。彼らは「私は妻や家族を養わなければなりません」ということが、神の国のために不忠実なことの充分な言い訳と考えている。

 不当の霊的解釈をしなければ、「百倍」という強調表現には妥当な意味が付せられ得ることを理解できよう。そのように注意して見ると、なぜ、「迫害」ということばが障害どころかまるで利益の一部であるかのように、その記事の中に投げ込まれているかも深く察知できよう。実は、百倍になるのは、迫害にもかかわらずではなく、大部分迫害のゆえになるのである。迫害は犠牲にされたものを味つけする塩であり、それらにうま味を添える調味料である。あるいは算術的に言うと、迫害は、量においてではなく価値においては、神に明け渡された地上の祝福を百倍にする因子である。

 キリストのために犠牲を払う人々に備えられた報酬とは、そのようなものである。それらの犠牲は涙とともに蒔かれた種にすぎないが、やがてそれから喜びのうちに豊かに刈り取る。では、犠牲を払わず、戦いにおいて傷を負わなかった者たちはどうなのか。その願いがなかったからではなく、機会がなかったことに起因するのであれば、彼らも報酬の分け前にあずかるであろう。「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていたものへの分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない」というダビデのおきては、神の国においても有効である。ただし、彼らが荷物のそばにとどまったのは臆病からでも、怠惰からでも、わがままからでもないことを理解しなければならない。困難に身を任せたり、危険を冒したりするすることを避けて、あるいは神の国のために罪の欲望を捨てることもしないでこのようにする者たちは、終わりの日にそこに席を見つけることを期待できない。)


2022年7月28日木曜日

自己犠牲の報酬(2)

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父。子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。・・・後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10・29、30)

 『まことに、あなたがたに告げます』とイエスは特に真剣になって言われた。そうだ『まことに』である。これを疑っては大変なことだ。イエスの真剣を疑うことになる。『わたしのために』と大きく切り出された。こんな大きな要求を人間が正気でなし得るであろうか。最高最大の愛と奉仕とを要求したイエスは神でなければ狂人である。

 たった今いかなる場合にも妻を離縁してはならぬと言った言葉の乾かぬうちに『わたしのため』ならばこれをも捨てよと言う。父母も子も財産も捨てよと言う。実に突飛な要求とも見える。父母も兄弟も何もかも捨ててわたしと共に走れ、との要求はこの世においては愛人の要求か帝王の命令の他にはあるまい。イエスはこの心を私たちに要求される。この心があってこそ父母兄弟妻子に対して真実に尽くすことができる。

祈祷
私のために一切を捨てて下さった主イエス様、願わくは、私をしてあなたの十字架の愛に感激し、私をして一切をあなたに献げることを喜びとする者とさせて下さい。私たちは一切をあなたに献げることによって、父母兄弟妻子に対する一切の義務を真実に履行する者とならせて下さい。アーメン。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、先ず、David Smithの昨日の 12「主の答弁」に引き続く文章である。 

13 「ぶどう園で働く者の喩え」

 イエスは戒めを徐に挿入しつつ『先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです』と加えられた。而してこの警句の註解として次の喩えを語られた。すなわちある主人がある日早天市場に赴いて一日一デナリの普通の賃金でそのぶどう園に働く者を雇い入れた。また日が出て三時間を過ぎた九時ごろに、市場に空しく立つ者を発見して、彼らをまたぶどう園に送った。この時には賃金については特別に協定せず、ただ全額を払う約束であった。彼らは職を得て喜んでこれに応じた。彼はかくして十二時ごろと、また三時ごろに同じく人を雇い入れた、五時ごろすでに労作の時間は一時間を余すに過ぎないころ、彼は再び市場を訪ねて、また職のない者を雇い入れた。彼らは労働者として最も劣等な者どもで、長い日を空しく立って他人の雇われて行くのを、眺めながら順を待ったけれども誰も傭手が見えなかった彼らの憐れな有様がこの農業家の心を曳いた。『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と彼は賃金のことを眼中に置かずに言った。彼らは即刻快活にこれに従った。彼の好意に信頼していくらでも儲ける機会のあるのを喜んだからである。

 六時となって、その日の仕事を終わったとき主人は前後に雇って来た者を呼んでこれに始めのものと共に賃金を払えと会計に命じた。彼らはわずかに一時間働いたのみで、しかもその仕事も貧弱であったにかかわらずデナリ一枚を与えられた。はじめに雇われた者はさらに多く与えられることと思ったが望みは外れてやはり一デナリ与えられたのみであった。これその約束の賃金であったに相違ないのに彼らはこれを憤った。彼らはみな不平を鳴らしたが、そのうちの一人はデナリを下に置いて、傲然として傍に立つ主人に聞こえよがしに会計に向かって抗議した。『この「のちの者」の働きたるは一時間ばかりなるに終日苦しみを負い、暑さに当たる我らと等しくこれをなせり』と。主人は慰めて『友よ我れ汝に不義をせず、汝と銀一枚の約束を為したるにあらずや、汝のものを取りて往け、我れこの「のちの者」にも汝の如く与うべし、我がものをもって我が思う如くなすは良からずや、我が善によりて汝の目悪しきか』と言った。

①  使徒の雇い人根性を矯正するため

 『かくの如く後のものは先に、先のものはあとになるべし』とイエスは宣うた。この喩えは第一に使徒たちの雇い人根性を矯正せんがためであった、もし彼らが賃金のために働けば賃金は与えられる。しかし畢竟雇い人に過ぎないのである。神はその報賞の如何に関わらず、第一の雇い人らのように、ぶどう園に赴かざるうちに賃金を定むるものにあらず、その正当と認められるに任せて、ただ主人の命に服するもの、すなわち賃金を考えず、主人が彼らを雇ったことを感謝しその慈愛に信頼する『のちの者』の如きを求め給うのである。

② 彼らの傲慢を戒めんがため

 この喩えはさらに弟子たちの傲慢を砕かれる計画からであった。『我れまたこの「のちの者」にも汝の如く与うべし』との一句は『イエスと偕にありし人々』の耳に痛みとはならなかったであろうか。彼らはのちに雇われた者として、聖パウロの使徒たるを否定したのであった。また、主はかつて異邦人を蔑視せず、その事業にこれを招き彼らと、第一時に雇われたユダヤ人との間に何らの相違も認められなかったにかかわらず、これを侮蔑したユダヤ人のキリスト者はこの喩えを思い起こさなかったであろうか。これ教会が使徒の時代にこれを心に留める必要があったと共に、今なお記憶せざるべからざる教訓であって、特に侮蔑せられる者、等閑〈なおざり〉にされる者に温情を有せられる主は賃金によらず、愛情より仕えることを望み、人の事業によらず、その事業に当たる精神を嘉〈よ〉みせられるを学ぶべきである。

 一方、A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に と三つに分けて詳述している。その二番目に該当する文章を紹介する。

 富の誘惑についてのイエスの発言は、ほかの弟子たちには勇気をくじかれるようなものに思われたが、ペテロの心には違った影響を与えた。イエスの発言は彼に、自分や兄弟たちの行動を永遠のいのちを求めて来た青年の行動と比較させて、自己満足な思いを抱かせた。彼はひそかに思った。「私たちは、あの青年が出来なかったことーー主が今言われたことによるなら、金持ちには到底出来そうもないことーーをしている。私たちは一切を捨ててイエスにお従いしているのだ。そうすることがかくも困難で、まれなことであれば、非常に価値のあることに違いない」と。その率直な性格から、ペテロは思ったことを口にした。彼は得意気に、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」と言った。

 このペテロの質問に対して、イエスは、十二弟子また神のしもべと自任するすべての人にとって激励ともなり警告ともなる返答をされた。まず、ペテロの質問の内容に関して、イエスが力をこめて、彼と兄弟たちに用意されている大きな報酬について述べられた。その報酬は彼らのものだけでなく、神の国のために犠牲を払ったすべての人のものである。次にイエスは、少なくともそのような質問をした動機の一部となった自己満足ないし打算的精神に関して、一つの説明的なたとえによって道徳的非難を加えられた。それは、神の国における報酬が単に犠牲の事実あるいは量によって決定されるのではない、ということを言わんとしている。それらの点で先であった多くの人々が、実際の評価ではあとになるかもしれない。というのは、そのような報酬の算定における本質的要素となるもう一つの構成分子ーーすなわち、正しい動機ーーが欠けているためである。一方、それらの点であとであった者たちが、彼らを鼓舞した価値ある精神のゆえに先に報酬を受けるかもしれない、この連続した二つの答えを考察することにしたい。当面の主題は、神の国における自己犠牲の報酬である。

 これらの報酬に関して行き当たる第一のことは、報酬と払った犠牲との間の全くの不均衡である。十二弟子は漁船と網を捨てた。その彼らが受ける報酬は十二の栄光の座であった。それが何であろうと、誰でも神の国のために何かを捨てるならば、現世では百倍の報いを受け、来るべき世においては永遠のいのちを受けると約束されている。

 この約束は、キリスト者が仕える主の気前のよさを見事に示している。イエスは、イエスに従う者たちの犠牲を軽視し、彼らの栄光を嘲笑することすら何と容易に出来たことだろう。「あなたがたはすべてを捨てました。それで、あなたがたの全財産とは何だったのですか。もし、あの裕福な青年がわたしの勧めに従って財産を手放したのなら、そのことを多少は誇れたでしょう。が、みすぼらしい漁師のあなたがたにとって、その払った犠牲は取り立てて言うほどのものではありません。」

 しかし、そのようなことばがキリストの口から発せられるわけはなかった。キリストは、外見的に小さいものを軽蔑したり、まるでキリストの負担を軽くするようなつもりで彼に対してなされた奉仕をも決してけなすようなことはされなかった。むしろ、ご自分のしもべたちに対して彼らの良いわざを驚くほど過大評価し、そして彼らの奉仕に相応の報いとして、彼らの要求をはるかに越える報酬を約束することによって、ご自分が負い目のある者〔債務者〕になることを好まれた。この時もそのようにされた。弟子たちの捨てた「何もかも」は取るに足りないほど小さいものであったが、それでもキリストは、それが彼らのすべてであったことを覚えておられた。そして真剣に「まことに」と大変優しく感謝をこめて、あたかも彼らが正当に手にいれたかのように栄光の座を約束されたのである。

 これらの重大な高価な約束が信じられるなら、犠牲を払うことは容易だったであろう。栄光の座に着けるのに漁船を手放さない者がいるだろうか。五パーセント、いや百パーセントはおろか百倍もの利益をもたらす投資をためらう商人がいるだろうか。

 イエスの与えた約束は、よく考えると、もう一つ別の素晴らしい効力を持っている。その約束は人を謙遜にさせる。その偉大さは人の心を真面目にさせることである。どんな虚栄心の強い人も、自分の良いわざが栄光の座の報酬を受けるに値しようなどと望むことはできない。また、自分の払った犠牲が百倍の報いを受けるべきだとも望めない。こんなふうに、すべての人は神の恵みの負債者をもって甘んじなければならない。したがって、論考などは問題外である。このことは、天の御国の報酬がなぜそれほどまでに大きいかの一つの理由となる。神がその賜物を分け与えられる時、与える方〔神〕に栄光を帰すると同時に、受ける者〔人〕を謙遜にさせるのである。

 それゆえ、普通は報酬どころではない。今一度、十二弟子に特別に約束された報酬について入念に見てみると、表面的にはそれらが誤った期待を抱かせ、助勢しそうになっていることに気づく。それらが実際に何を意味していたとしても、そのとき弟子たちが理解した意味については疑いの余地がない。主が「世が改まること」と「十二の栄光の座」について語られたことは、彼らに、外国支配のくびきを脱して復興したイスラエル王国の光景を連想させた。仲たがいしていた十二部族が、イエスの支配下に和解し統一されるのである。民衆の熱狂のうちに、イエスは彼らの英雄的王とされる。そして、イエスの王としての主張を最初に信じ、その初期の活動に参与した弟子たちは、彼らの忠誠に対する報酬として「県知事」となって各部族を治めるのである。

 このような夢想は実現すべきもなかった。そこで、なぜイエスは、それと知りつつそのような根拠のない空想をかき立てそうな言い方をされたのだろうか、と自然に問いたくなる。その答えはこうである。イエスは、幻想を抱かせる危険のあることばで約束を表明する以外に、弟子たちに希望を与えるというご自分の望む目的を達することができなかったのである。あらゆる誤解の可能性を未然に防ぐ選び抜かれたことばは、何の感化も与えることができなかったに違いない。人の心をとらえる約束は、七色に輝き、見た目にもはっきりした虹のようでなくてはならない。

 そのことは、今考察中の約束だけでなく、聖書また自然界に見られるすべての神の約束に多かれ少なかれ当てはまる。人の心を鼓舞するために、すべての神の約束は、決してそのまま現実化しないが、私たちが想像し、またその時は想像せざるを得ないように約束することによって、ある程度私たちを裏切ることになろう。約束の虹は、私たちがまるで子供のようにいやおうなしに引かれるよう、七色に描かれている。そしてその目的を果たすと消えていく。こうしたことが起こると、私たちはつい「主よ、あなたは私を欺きました」と叫びがちである。しかし、私たちの予期したものと違った形でそれが実現されるのであるが、結局、自分たちは祝福をだまし取られたのではないことがわかる。神の約束は幻想を抱かせるかもしれないが、幻滅を与えることはない。

 目の眩むような栄光の座の約束と関連して十二弟子が味わった経験は以上のようなものだった。彼らは期待したものを得なかったが、類似したあるものを得た。それは、彼らが成熟した霊的判断ができれば、最初に彼らの望んだものよりはるかに素晴らしい、充分なものであった。〈※「続き」は明日以降に引き続いて掲載する〉)

2022年7月27日水曜日

自己犠牲の報酬(1)

ペテロはイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マルコ10 ・28)

 たといそれがわずかに『網と舟と』に過ぎなかったとしても一切は一切である。もちろんペテロは反省が足りなかった。自分の動機に不純なもののあることに気がつかなかった。マタイ伝には『私たちには何がいただけるでしょうか。』(19章27節)という語さえ付け加えてある。

 それにもかかわらずイエスは大なる報酬のあるべきことを約束した。現世と来世とにおいて大なる報賞のあるべきことを約束した。先刻の青年が望んだ『永遠のいのち』も約束した。そのほかこの世で受けるめぐみも約束した。

 人間はやはり人間である。弱い人間であるから報酬を求めたい心のあることをイエスは知っておられた。然り、知って同情されたのである。彼は冷たい哲学者倫理学者ではなかった。しかし現世における報酬は『迫害の中で受け』と言い給うた。これは実に興味深いお言葉である。ペテロははるか後になって解ったであろう。

祈祷
迫害と共に百倍の恵みを与え給う主よ、あなたは私たちの弱さを憐み私たちの低級なるをも受け入れて、私たちのために大なる報賞を約束し給うことを感謝申し上げます。ただ私たちをして喜んで『迫害の中で』これを受ける用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著208頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のクレッツマンの文章の続きである。極めて平易に書かれているが、含蓄のある言葉である。クレッツマンの『聖書の黙想』よりの引用は過去7/19、7/20、7/21、7/22 、7/26と5回細切れ的に紹介しているが今日の個所が最終部分である。

 いつでも遠慮のないペテロはここでも、きっと、こんな言葉を返して、主を驚かせたものに違いない。
「でも、私たちは何もかも、みんな手放して、それから、あなたに従ったのですよ」と。
 彼は自分や仲間の弟子たちがしたことの値打ちを認めてもらって、報いられるように、危うく要求しかけたのではなかっただろうか。思いやり深くも、イエスはこの点には立ち入ろうとなさらず、ただ、彼らが信仰をもって行ったことは軽んじられるものではないと語って彼らを納得させた。

 主と福音のみことばのために、すべてを投げ打つならば、主の限りない恵みによって、この世においても、来るべき世においても、百倍もの報いを得るだろう。しかし、このように主に仕える際には、迫害は当然予期しなければならないものであること、それでも、なお、忠実でなければならないこと、を主は私たちに思い起こされる。それは「多くの先のものが後になり、後のものが先になる」からだ。身を処するに高慢であることは私たちからすべてを失わせることになるだろう。が、私たちの後ろから謙虚につき従う者は、ついに先んじて、私たちの頭に立つだろう。

※以上、クレッツマンはマルコ10・17〜31をひとまとめにして「キリストにすべてを負っているわたしたち」と題して述べているが、その冒頭部で次のように述べているのでこの際補っておく。

 私たちの犯している一つの根本的な誤りは、キリストに奉仕する場合、あたかも、キリストに恩恵を施しているかのように、振舞うことである。私たちは恩恵というものが、ひとりキリストの側にしかないのだということを忘れている。キリストは私たちに恵みを賜うが、私たちが金銭であれ、時間であれ、才能であれ、何かをもって、キリストに仕えることが許されているならば、もうそれだけで、すでに十分、特権を授けられたことになるのだ。そして、私たちが仕える場合でさえ、キリストは恵みという報酬を支払わずには、私たちから何ものも受けようとはなさらないおかたである以上、私たちは永久にキリストに対して負債を負い、永遠の感謝という絆によって繋がれているのである。

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の中の38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退で前回の 11 「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」  に引き続いて次のように述べる。

12 「ペテロの質問」

 ゆえにイエスのみことばに彼らは驚駭したのであった。彼らは天国における富貴を夢見ているのに、イエスは富めるものは天国に入ること難しと仰せられる。この宣告は彼らには宛然葬式の鐘の如くに響いたのであった。彼らの犠牲も畢竟何の報賞もなかったのであろうか。彼らが信任をもって認められたその報酬はついにその手から奪取せられるのか。彼らをしてその所有を擲ち、家もなき人の子と運命を共にせしめんと彼らに慫慂したその大望も、ついに一夢に過ぎなかったであろうか。十二使徒の代言者ペテロは彼らの阻喪の声となって叫んだ。『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』と彼は若き司と使徒らとを比較して尋ねた。

 これに対するイエスの答えは如何。光栄と報酬を求むる心より神は仕える雇い人根性を弟子たちの心から粉砕し尽くす計画をもって、ある時イエスは厳格な喩えを語られた。『あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。かえって「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事の済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみなしてしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。』〈ルカ17・7〜10 〉と。

 事実神はその民に対してかくの如き取り扱いはされないのである。神は人を奴隷と呼ばず、子と称せられる。神はおびただしき報賞をもって彼らの貧弱な奉仕に報い、その愛に応ぜられるのである。しかも人間の方からはこの喩えの如き態度を取らねばならないのである。彼らは神の奴隷である。尊き価値をもって買われたものであって、その慈愛は彼らをつなぐのである。彼らは到底償却すべからざる負債を有する者で、彼らが喜んでこれを認識し、これを心に留めて、その最大極度の努力をしてもなお無益の奴隷に過ぎない。かくしてその千倍の努力をしてもなお負債者たるものである。

12 「主の答弁」

 イエスはペテロの『私たちには何がいただけるでしょうか。』との質問に対してかく答えられたのであった。しかし、その弟子たちの驚き惑うによりて受けられる苦痛を自ら戒められるためでもあった。イエスは『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』とのその使徒たちの抗議にも喜ぶことが出来なかった。他の人々には知らずイエスにはこれが愚かな自負と思われたのである。何物をイエスのために捨てたか。土地にあらず、金銭にあらず、ただ生活の苦労と貧苦と、湖辺の廬と、その網、その小舟、その漁夫の職であった。世間から見ては弟子の捨てたものは決して多いものではなかった。しかしそれは彼らの財産全部であって、イエスは彼らの犠牲としたところを軽しとはせられなかった。

 イエスは大いなる憐憫と温情とをもって答えを与え、確実な恩寵溢れる教えを授けられた。すなわち彼らは決してその報賞を失わない。彼らはその捨てたところをことごとく報いられるのみならず、これに勝る報賞は与えられるのである。彼らが夢見ている想像を藉りて、その驚くべき聖顔(御顔)に彼らを凝視しつつ『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者は全て、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます』と宣うた。而してこの約束は彼らが待望せる以外の方法を持って豊かに遂げられたのであった。彼らが教会の多数にして神聖な兄弟も交際を結ぶに及んで領土にあらず、黄金にあらず、義と平和と喜びとの聖霊の価高き財産を嗣いだのであった。)

2022年7月26日火曜日

富の誘惑に勝たしめて下さい

イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。・・・ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」・・・イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10・24、27)

 年齢ではイエスと弟子らと大した相違はなかった。しかし、イエスは彼らの無邪気と無知とを憐んで誠に小さい子供のように思われた。巨人と常人との差である。否、神の子と罪人との差である。

 主は私どもの無知と無能とを軽蔑し給うことなくいつも憐みの御心をもって『子たちよ』と呼んで下さるのである。それのみではない。私どもにはラクダの針の穴を通るほど困難なあるいは不可能なことであっても神はその全能の御手を挙げて私どもを助けて下さるというのである。だから普通人の不可能も神を信ずる者には可能となる。

 富と戦うのは天来の援助なき人間には不能である。それほど恐るべき力である。心してよくこれを用い、これに用いられぬようにすべきである。富は善きしもべであるが、悪しき主人であると言われているではないか。

祈祷
主イエス様、願わくは、私たちにあなたの力を貸してよく富の誘惑に勝たしめて下さい。富が私の主とならないで、私のしもべとしてあなたのために用いることができるようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』から以下引用する。

 イエスはその思うところを次のように、はっきりと、弟子たちに示された。
ーー富を持つことには、何も悪いことはないのだ。富も、また、神からの賜物であるから。ところが、困ったことには、私たちは神のみを信ずべきであるにもかかわらず、富を信ずる者がかくばかり多くいる。その果てには、彼らは神を失い、神の国をも失ってしまう。富は彼らが神の国へ入ることを妨げるのだ。富める者が神の国へ入ることよりは、ラクダが針の穴を通ることの方がずっと容易である、と主は強調された。

 弟子たちはますます驚き、どうしたら、こんな情況の下で救われることができるのだろうかと互いにいぶかり合った。そこで、主はこの点について、人に不可能なことでも、神には可能である、という事実を彼らに思い起こさせた。実に、神のみがそのあがないの恵みによって富める者をも、貧しい者をも救うことができる。

※以前、ルカの福音書における18・24〜27が中々理解できなかったが、具体的な証として、19・1〜10のザアカイの救いをルカはここに挿入したのではないかと思ったことがある。)

2022年7月25日月曜日

弟子たちは驚いた

イエスは言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。(マルコ10・23〜24)

 元来ユダヤ人は一般に富ある者を神に祝された者と考えていた。アブラハムからソロモンなどに至るまで富める者が信仰の手本のように扱われていた。ヨブ記はこれに対して大いなる疑問の矢を放ったが、それすら最後に二倍の富が与えられて解決している。

 イエスは在来のこの思想を転倒して『貧しい者は幸いです』と叫び、また富者の足下に置かれた乞食のラザロが天国に入り、富者自身は地獄の火に苦しむと説かれた。が、この新しい思想は容易に弟子らの心に入らなかった。彼らは今もなお在来の富者祝福説に囚われていた。だから驚いたのである。

 私たちの教えられて来た所にも、恒産なき者は恒心なし、とか衣食足って礼節を知る、とか言ったような思想が多分にある。パンを先にする思想は昔のユダヤ人も今の私たちもあまり変わらない。

祈祷
ああ主イエス様、あなたが『貧しい者』を祝し給いてより二千年にして『富』はますます暴威を振るい、今や神の位に坐せんとしつつあります。願わくは、私たちをしてその欺きに迷わされることなく『世の宝』をあなたの位の前に跪座せしむる者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著206頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)