その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け(マルコ10・30)
キリストは来世を説かれた。これは動かすことが出来ぬ。最高の理想の実現を確実に握られたのである。同時に『今のこの時代に』大きな祝福がくることを断言した。キリストを信じキリストに従うことは私たちの現在の所有を百倍にすることになるのだと言うのである。こんな良い商売が他にあるだろうか。一躍百倍の所有となる。
だがイエスは真面目で言っているのである。物の価値にはその外面的価値と内面的価値とがある。家にも畑にもこの二様の価値があるか、ことに父母、妻子、兄弟に至ってはその外面的価値よりもその内面的価値の方が重いのである。キリストに一切を献げることによって、これらすべてのものがその所有者に対して本当の価値を生じてくる。
キリストを信ずることによって、逆境に立たされ、月給が一割ほど減ぜられたけれども家計はかえって楽になったと言っている人がある。一旦父母に捨てられたけれども、ついに父母を信仰に導いて百倍の喜びにいる人もある。『『モーセは、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富』であることを経験した(ヘブル11章26節)。
祈祷
主イエス様、あなたは奪われます。あなたの愛はたびたび私の所有を奪われます。しかしあなたが奪われるときは必ず百倍のものを与えんがためであることを感謝申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』中の昨日の文章の続きである。
ではいったい、そのあるものとは何か。それは自己犠牲の報酬として十二弟子に贈られる、神の国における神の栄光、誉れ、力である。それは部分的にはこの世において、完全には来るべき世において贈られる。この世でのことに関する限り、それは、彼らがキリスト教会の使徒及び創設者として、イエスの仲間としての法的権限を行使したことによって証明された。その目的のために主に訓練を受けた最初の福音の宣教者である十二使徒は、彼ら以後誰も務め得なかった教会における重要な地位を占めた。天の御国の鍵が彼らの手に渡された。彼らは、その上に教会が打ち立てられるべき土台石であった。いわば彼らは、キリストを信じる信仰を告白したすべての人々を受け入れる聖なる国、真の神のイスラエルの十二部族を裁き、導き、治める監督の座に着いたのである。
十二使徒は、彼らの生きている間、そのような最高の影響力を及ぼした。いや、今なお及ぼし続けている。彼らのことばはかつてそうであったばかりでなく、今も法〔神の命令〕である。彼らの例に倣うことは、すべての時代にわたって義務づけられると見なされてきた。主の深いことばの霊感された解説である彼らの手紙から、教会はその信条の中に取り入れられた教理体系を引き出した。現存する彼らの文書はすべて聖なる正典〔聖書〕の一部となり、その記されたすべてのことばは信者たちによって「神のことば」と見なされている。確かにここには、充分に王の尊厳を持った力と権威がある。世間の目を引くような王者の装いには欠けているが、ここには至高の実体がある。イエスの使徒たちは王子の服は着ていなかったが、本当に王子たちであった。そして彼らは、一つの部隊を治めることは愚か、イスラエルの王国を割り当てられるよりもはるかに広範な支配を行うように定められていたのである。
十二弟子への約束は、地上の教会に置けるだけでなく、天の教会における彼らの地位にも関係していることは疑いない。彼らが永遠の御国でどうなるかは、私たち自身がどうなるかわからないと同様よくわからない。概して天についての私たちの知識は大変ぼんやりとしている。しかしながら、私たちは明らかな聖書の主張のゆえに、人々は地上においてと同じように天においても死んだ状態にはないということを信じる。急進主義は、この世の安定した社会の法則でないように、天の御国の法則ではない。栄光の御国は、完成された恵みの国、地上で開始された新生が最終の完全な発達段階に至った国にほかならない。しかし、不完全な状態での新生には、人々を霊的生活の支配にある社会に組み入れようとするもくろみがある。御国に入れられる者は、すべてキリスト・イエスにあって新しく造られた者である。そして、霊的な人として最高の背丈に達した者たちには、最高の地位が割り当てられる。
この理想は、完全に実現されるには至っていない。その実現を目指して生まれた「見える教会」は、外見上、理想の神の都からは期待外れで終わっている。常にそうだった。キリストのために何も捨てたことのない偽使徒たちが、栄光の座を獲得するために、野心、利己心、世的な知恵、へつらいなどをほしいままにすることがしばしばあった。それゆえ、私たちはなお、見える教会が到底及ばない、私たちの思いをはるかに越える真の神の都を、あこがれの眼で待ち望んでいるのである。その理想の国では、完全な道徳秩序が保たれているであろう。そこでは、各人がそれぞれにふさわしい本当の地位を与えられる。つまらない人物が高い地位に着くことはなく、優れた人物が妨害を受けたり、低い身分や無名のままでいることはない。最も優れた人は、たといいま最低の扱いを受けていたとしても、最も高くされる。「誰も誤って称賛されたり、へつらいで祭り上げられたりすることのない所には、真の栄光がある。そこには、それを受けるにふさわしい者が誰も拒まれず、ふさわしくない者には誰にも与えられない、真の名誉がある。ふさわしくない者が幾ら熱望してもそれが得られず、そこには、ふさわしいものだけしか入ることが許されない。」
その神の国における最も優れた人々の中に、人の子〔イエス〕と運命を共にし、彼の放浪と試みに同行した十二人も含まれている。おそらく天には、知性やその他の点で彼らに勝る者が大勢いるだろう。しかし、最高の地位の人々もその誉れある地位を喜んで彼らに譲るであろう。彼らはイエスを信じた最初の人々また悲しみの子〔イエス〕の親しい友として、その御名を諸国民に伝える喜びの器であり、ある意味で、すべての信じる者に天の御国を開放したのである。
キリストのために苦しみを受ける白衣の殉教者、信仰者たちの指導者として、使徒たちに与えられた約束の意味はこのようなものであると考える。次に、すべての忠実なキリスト者に差別なく与えられた約束に注目したい。マルコの福音書には次のように書かれている。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
この約束も、十二弟子への特別な約束と同じく二重の意味がある。神を第一にすることは、この世でも来るべき世でも有益であると言われている。キリストのために犠牲を払う人々は、来るべき世には永遠のいのちを受ける。この世にあっては、彼らは迫害と共に犠牲となった分の百倍を受ける。前者の永遠のいのちについては、輝かしい来世において保証された最低の報酬と理解すべきである。すべての信仰者は最低限それを得る。その最低のものとは何と最高のものであろう。どうあっても永遠のいのちのようなものを得られることが、キリストのことばに保証されているとは何と幸いなことであろうか。私たちは真理と良心のために生きる者らしく振舞い、信仰の戦いを立派に戦いたい。そうすることによって、私たちはそのような栄冠を手にすることができる。「素晴らしい天来の希望は、どんな試練にも耐えさせてくれる。」
至福の朽ちないいのちの栄冠を得るのであれば、私たちは、死に至るまで忠実であるということを主の側の不当な要求と考えるべきではない。このようなことのために犠牲となった生命は、大洋に注ぐ川のようであり、真昼のさんさんと輝く光の中で消えてしまった明けの明星のようである。私たちに約束されたこの幸いな希望をしっかりと掴み、その不思議な力によって信仰の勇者に造り変えられたいものである。
今の私たちは、来るべきいのちをかすかに信じているだけである。私たちの目はかすんでいて、はるかかなたの国を見ることができない。ある人々は、私たちがイエスの約束された将来の報酬なしに行うことができ、無神論主義に立って英雄を演じることができると考えるほど理性的になった。そのとおりかどうかまだわからない。殉教者たちの記録は、永遠のいのちを本気に信じた人々が何をやり遂げてきたかを私たちに告げている。今日に至るまで、私たちは、不信仰者によってなされたいかなる英雄的行為も犠牲も聞いていない。懐疑主義の殉教史はまだ書かれたことがない。
来世にに関するキリストの約束の方は、信じて受けなければならない。この世に関する方は、見て確かめることが許されている。それで、次のような質問が充分考えられる。実際のところ、犠牲がこの世で同様に百倍ーー正確には幾倍かーーのもので報いられるとは本当なのか。この質問に対して、こう答えることができよう。
第一に、もし私たちが個人の生涯に見方を限定せず、後の世代をも含めて見るなら、その約束が変わらず有効であることがわかるだろう。摂理がその結果を見るだけの時間を与えられた時、柔和な人々は、少なくとも彼らの相続人や後継者の時代までには地を相続し、豊かな平和を楽しむことになる。迫害の理由もついに世の尊敬を博すようになり、それが与え得る豊かな報酬をそこから受けるのである。その時、預言者のことばは成就する。「あなたが子を(迫害者の手で)失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。」「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。」
これらの預言の約束は、突飛なことのように思われるが、教会史において再三再四成就されてきたのである。初期の時代には、異教徒にあおり立てられた迫害の火の後、コンスタンディヌス帝の治世に古めかしい迷信や偶像礼拝がついに絶えた。プロテスタントの英国においては、かつてキリストのためにすべてを失う覚悟をし、事実多くのものを失った人々のいたことが知られているが、今日、英国は海の女王であり、全世界の富の継承者である。〔訳注・これは前世紀の英国のことで、現在の英国には必ずしも当てはまらない〕。大西洋を越えた新大陸には、富と力で英国に匹敵する強大国〔アメリカ〕が生まれた。それは、祖国よりも宗教的自由を愛し、未踏の大陸の荒野に専制政治からの避け所を求めた、少数の亡命のピューリタンの群れから成長した国である。
それでも、厳密に字句通りに受け止めるなら、キリストの約束はすべての場合に有効なのではないと認めざるを得ない。多くの神のしもべたちは、世の人々が悲惨な運命と見たであろうような生涯を送った。では、彼らの場合、約束は全く無効になったのであろうか。否である。なぜなら、第二に、その約束が成就される道は一つではなく、それ以上に多くの道があるからである。例えば、祝福は、それらを全く放棄することによって、その外面的大きさは変わることはなくとも百倍に増し加えられるだろう。真理のために払われた犠牲、私たちがキリストのために喜んで放棄したことは何であれ、その瞬間から、その価値は無限に増大するようになる。父や母、またこの世の友は、私たちが「キリストが第一で、これらのものは第二でなければならない」ということを学び取った時、言いようもなく愛すべき存在となる。アブラハムがイサクを死から取り戻した時、イサクはアブラハムにとって百人の息子に値する存在となった。
また別の面から例証するならば、獄中で、家に残してきたかわいそうな盲目の娘を思うジョン・バンヤンを考えてみよ。彼はその比類なき著書『恩寵溢る』の中で、このように彼の心情を吐露している。「不憫な子よ。おまえはこの世で何と悲しい目に遭うことだろう!私はそう思った。私は風がおまえに吹きつけるのさえがまんできないのに、おまえは打ち叩かれ、物乞いをし、飢えと寒さと裸、その他幾千の災難を受けなければならない。しかしなお、私はこう思った。おまえをとことん置き去りにしても、おまえをすべて神に任さなければならないと。ああ!私は妻子の頭上に家を取り壊そうとした〔妻子の自滅を図った〕人のようであった。しかし私は、神の箱を他国へ運ぶために子牛を残して行った二頭の乳牛のことを考えた。」
もし、物事を楽しむ能力が本当の意味で所有の尺度だとしたら、また実際そうなのであるが、ここで考えられている事例では、妻子を捨てることはそれらを百倍に増やすことであった。そして、放棄された物の増大された価値のうちに、犠牲と迫害に対する充分な慰謝料を見出すことができるのである。
ベッドフォードの囚人〔バンヤン〕の独白はまさに自然の情愛を吐露した詩である。乳牛への言及には何と哀感がこもっていることか。何という優しい情感の深さか。そのように感受する力が自己犠牲の報酬である。そのように愛する力が、キリストのために自分の親族を「憎む」ことの報酬である。自然の情愛を不忠実の口実にする人々の中では、そのような愛は見られない。彼らは「私は妻や家族を養わなければなりません」ということが、神の国のために不忠実なことの充分な言い訳と考えている。
不当の霊的解釈をしなければ、「百倍」という強調表現には妥当な意味が付せられ得ることを理解できよう。そのように注意して見ると、なぜ、「迫害」ということばが障害どころかまるで利益の一部であるかのように、その記事の中に投げ込まれているかも深く察知できよう。実は、百倍になるのは、迫害にもかかわらずではなく、大部分迫害のゆえになるのである。迫害は犠牲にされたものを味つけする塩であり、それらにうま味を添える調味料である。あるいは算術的に言うと、迫害は、量においてではなく価値においては、神に明け渡された地上の祝福を百倍にする因子である。
キリストのために犠牲を払う人々に備えられた報酬とは、そのようなものである。それらの犠牲は涙とともに蒔かれた種にすぎないが、やがてそれから喜びのうちに豊かに刈り取る。では、犠牲を払わず、戦いにおいて傷を負わなかった者たちはどうなのか。その願いがなかったからではなく、機会がなかったことに起因するのであれば、彼らも報酬の分け前にあずかるであろう。「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていたものへの分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない」というダビデのおきては、神の国においても有効である。ただし、彼らが荷物のそばにとどまったのは臆病からでも、怠惰からでも、わがままからでもないことを理解しなければならない。困難に身を任せたり、危険を冒したりするすることを避けて、あるいは神の国のために罪の欲望を捨てることもしないでこのようにする者たちは、終わりの日にそこに席を見つけることを期待できない。)
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