2022年7月10日日曜日

主にある結婚観(中)

『それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。・・・』家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。(マルコ10・8、10)

 弟子たちは結婚に対するイエスの厳格な態度に驚いたらしい。マタイ伝の方を見ると『弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」』(マタイ19・10)とまで言っている。イエスは結婚なさらなかった。真実にイエスの半身となり得る婦人があったであろうか。

 また思う、イエスは他の人間において自分の半身を見出さねばならぬほどに自分自身に貧弱さを感じたお方であったろうか。イエスの人格は完全であった。男として完全であったのみでなく、人間として完全であった。男性的に見ても女性的に見ても、イエスは立派な人間であった。だから別に半身を要しない。本当の結婚は二人で一つの人間となることだ。二人が一体となってイエスのような人格を造り出すことだ。もしこの理想が実現されるならばその子孫にはイエスに似た者が多くなり、天国が地上に現われてくるであろう。

祈祷

神よ、願わくはすべての家庭を浄め給え。二人一体となってイエスのような人格を創造すべく努力するホームを私たちの中に多く起こし給え。願わくは、あなたを信じるずべての家庭にこの大なる事業を進捗(しんちょく)せしめ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著191頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、引き続き、クレッツマンの『聖書の黙想』からの引用文である。

 これに対して、パリサイ人がどんな反応を示したかは明らかではないが、弟子たちは家に入って、イエスと対座した時、自分たちがこれまでの指導者の教えから、どんなに深く影響を受けているかを悟らない訳にゆかなかった。彼らは、いまだに、もし男が、好ましくない妻を出すことができなかったら、それは男にとって、不利益なことだという気がしたのである。しかるに、主は、男でも、女でもーーマタイの福音書19・9から学ぶようにーーどちらか一方が姦淫の罪を犯したというのでなかったら、その配偶者を出して、他の者と結婚してはならない、ということが神の御旨であり、御心であると主張されたのである

 かくばかり、道徳が退廃し、手軽に離婚が行われている今日、主のこの御言葉を考えることは、神聖な結合に至る以前でも、意味深いことではないだろうか。

※アンダーラインを施した部分は、マルコの福音書を読むばかりでは出て来ない要点である。むしろマタイ19・9〜10を併せて読むことによりこの論旨が理解されると思う。)

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