『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10・14〜15)
幼児と神の国について二つのことを言い給うた。一つは神の国はこのような者から成立するというのである。換言すれば神の国の住民の姿は幼児の姿である。さらに換言すればイエスは弟子らの中においてよりも、幼児の心の中にご自身と共通のものを、より多く見出し給うたのである。
二つは神の国を喜んで受ける態度がこれらの幼児のようであれ、と言うのである。たいていの大人は心がひねくれている。幼児の心は素直である。大人は先ず批判する。幼児は先ず信じる。世のことにおいては先ず批判することが大切かも知れないが、神に対して、すなわち天の父に対しては先ず信じる心が大切である。
互いに先ず批評する家庭は立派にはならない。先ず信じ互いに受け入れる心を持つ家庭は円満幸福な家庭である。神の国においても同様である。
祈祷
天の父よ、あなたに対する幼児の心をお与えください。赤子が慈母を慕うようにあなたを慕いあなたを信じあなたに頼り、一刻もあなた無くしては存在することができないことを感じる者とならせてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著195頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、David Smithの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』はこの間のイエス様の行動を38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退 とまとめ、1「ヨルダン対岸ベタニヤにて」 2「この地の伝道」 3「離婚に関するパリサイ人の質問」 4「主の答弁」 5「弟子たちの当惑」 6「子どもたちの来るのを止めるな」 7「若き役人」 8「なぜわたしを『尊い』と言うか」 9「戒めを守りなさい」 10「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい」 11「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」〈十二使徒の驚愕〉 12「ペテロの質問」 13「主の答弁」 14「ぶどう園に労作する者のたとえ」 〈使徒の雇い人根性を矯正するため〉 〈使徒の傲慢を戒めるため〉と14項目に分けて扱っている。その巻頭の詩、1、5、6に該当する部分である。
『我れ厳粛なる心と 己を棄てる意志とを求む
罪を楽しむ貪婪を蹂躙し これを潔く毀ちつつ
苦痛に対し、辛苦、悲愁、損失に対し喜んで
聖別された十字架を大胆に負う堅固持久の霊魂を求む』
チャールズ・ウェスレー
1「ヨルダン対岸ベタニヤにて」
イエスはエルサレムを去って、ヨルダンの対岸ベタニヤに赴かれた。イエスがこの地に転ぜられるのは自然であった。ここはヨハネが説教を試み、またイエスが洗礼を受け、イスラエルに己れを表明し、また最初の弟子を得られた土地であった。したがって、この地点はイエスにとっては神聖この上もない場所であって、今やその最後の近づけるとき、神との交わりによりその霊魂に休養を与え、かつ恐るべき呵責たるその終焉に対する気力と忍耐とを獲得せんがためにここに来られたのであった。しかもその行動はただ己れ一個のためのみではなかった。その弟子のために少なからず憂悶せられたためであった〈ルカ22・31〜32〉。イエスは彼らの弱さを知り、また彼らの信仰が、試練の日に揺るがないよう、彼らのためにとりなしの祈りを献げられるためであった。なお御心はエルサレムにも惹かれ給うのであって聖都の役人はイエスを除き去ろうとしたが、イエスはなおこれを棄てず、これを導く望みをまったく放棄されないのであった。さらに新たな説教をここに試みられる志があるのであっておそらく一層有力な手段と一層不可抗の要求を与えて、神がこれを聞かないわけにはいかないように祈られるのであった〈ヨハネ11・41、42参照〉
5「弟子たちの当惑」
パリサイ人は答弁を与えられた。彼らはもはや一語も挟まなかったが、弟子たちが問題を提出した。彼らはユダヤ人であるために結婚の足枷がこんなにも厳格に嵌められたものならば大変困難な問題だと考えた。そして宿に着くや、もしこんなことが彼らの結婚の条件であるならば、結婚しないに越したことがないとイエスに抗議したが、その語が短気であるのを意に介せず、イエスはこれに答えられた。結婚しない方が善いと思うのはもっともである。しかし、それは天国に身をささげようとする者が犠牲とすることによって実行できるのであって、禁欲は必ずしも賞賛すべきものではない。『母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです』〈マタイ19・12〉と。
しかしこの最後の一つは肉の思いで独身者になったのでなく、自由に天国のために自ら進んで、男子が受け取ることのできる喜びを捨てたと言う意味で語られたのであった。『天の御国のために、自分から独身者になった者』とは聖パウロのように主の事業に携わるため結婚を断念する人を言うのである〈1コリント7・25〜40〉。これは実に尊い禁欲である。しかしこのようなことは犠牲があまりにも大きすぎるであろうか。ミケランジエロは常に『芸術は妻として充分である』と言って結婚しなかった。天国は実にこのような専心没頭するに足る事業と同様の要求をなし得るのである。
イエスは決して独身をもって絶対の法則とされなかった。その弟子に対し、『現在の必要上より』妻を持っている者も、妻を持っていない者と同様の危急を要する時のことを思い浮かべておられたのである。『そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただそれが許されている者だけができるのです。』と仰った。これを受ける資格がない点においては、天国の要求以上に肉欲をほしいままにするのも、また天国のために自己の肉体を切断する誤った敬虔な英雄的な人々も同様だと思われる。『それができる者はそれを受け入れなさい』。
6「子どもたちの来るのを止めるな」
まもなく前のとはたいへん違った一団の人々が訪ねて来た。すなわち、この恩恵に満ちている教師の祝福を受けるため、両親が子供を連れて来たのであった。彼らは慎み謹んで恭しく子供をイエスのところに連れて来た。『彼ら幼な子をイエスに献げる』※と福音記者は言っている。彼らは祭壇に供物を献げるように子供を伴って来たのであった。これはまことに厳かな献物をなす行動であって、イエスは深く喜ばれた。しかし、弟子たちはこれを喜ばなかった。
おそらく彼らは離婚に対する攻撃に胸中動乱し、イライラした気分に囚われて、理不尽に押しかけて来たのを憤ったのであろう。イエスは彼らのぶっきらぼうな心を悲しんで『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです』と叱責された。このようにして幼な子を腕に抱き上げ、彼らの頭に手を置いて、これを祝福された。この幼な子にとっては驚くべき経験であった。後年に及んでこの幼な子たちはこのことを語り合い、あるいはその子どもらの子どもにまで語り伝えたことであろう。
※David Smithは”They offered them unto Him"と書いている。欽定訳は”They brought young children to him"と書いていた。)
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