2022年7月13日水曜日

子どもたちの美しい挿話(2)

弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って・・・(マルコ10・14)

 イエスは『心優しく、へりくだった』と言われた方であって、滅多に『憤る』ようなことはない。イエスが憤慨されるのは、本質的に大きな事件であらねばならない。たといこの世の眼から見て些細なことのようであっても天国の眼から見れば、大きな事件であるに相違あるまい。

 然り、弟子たちが幼児のイエスに来るのを禁じたのは大きな冒瀆であった。幼児と神の国とは最も接近したものである。今日の心理学者にも幼児に宗教は解し得ぬものだと説く人がある。弟子らのこの態度と同じである。『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです』のであって、理屈で神を見出した人はない。幼児には理屈はないがこの直感がある。

 イエスは弟子らよりもむしろこれらの幼児の中に神の国の近きを見出し給うて大いなる慰めを感じ給うたのであろう。しかるに弟子らが大人のたかぶりをもって幼児のへりくだりを圧したのをご覧になって憤られたのであると思う。主はいつでも心の貧しい者の味方である。

祈祷
神よ、願わくは、私たちを全てのたかぶりから御救いください。小児に対する大人のたかぶり、卑しき者に対する対する知恵の高ぶり、などより私たちを救って幼児のような心を持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著194頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。さて、クレッツマンは『聖書の黙想』で次のように書いている。同書156頁より。 

 人類の幸福のための神のご計画の中で、幼な子たちはいつでも重要な役割を演じて来た。私たちは誰でもキリストのこの言葉を知っている。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」〈マタイ18・10〉

 弟子たちでさえ、この注意を受けなければならなかったのである。母親たちがイエスのもとに子供たちを連れて来て、イエスに、手を子供たちの上に置いて祝福してくださいとたのんだ時、弟子たちは、おそらく善意からだろうが、師の身を気づかって、無分別にも、彼らが近づくのを妨げようとした。主はこれをきびしくとがめられ、弟子たちをただし、ご自身とその幼な子との間を妨げることは誰にも許されなかった。次の言葉は、何と味わうべきものではないか。「 子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。

 さらに、ここで、私たちは、だれも、幼な子にまさる権利を持つ者でないことを、きわめて、はっきりと知らされる。神は彼ら幼き者に対しても、私たちにそうして下さると同様に、信仰をお授けになる。実際、彼らが主のお言葉をそのまま、素直に信じて受けとって行く態度はあらゆる人々の模範となるものだ。神と天国に至る道は、このような信仰のほかにはない。

 主は「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」。この祝福にあずかることができたのは、特定の子どもたちだけだったのだろうか。いや、決して、そうではない。主の御言葉は特に聖なるバプテスマで、私たちが主のもとに子どもたちを連れて行く時、彼らを力強く求められ、祝福してくださる。

 願わくは、私たちがこの祝福を幼な子から、奪い取る者でありませんように!

※残念ながら痛ましい事件が起きてしまった。主イエスさまは絶えず人々から注目され愛された。そして敵なる人たちからは絶えずそのいのちを奪われるために付け狙われていた。ヨハネ18・3〜15。日本社会が冷静な議論を積み重ねられますように。東京新聞の朝刊斎藤美奈子氏の見解を支持したい。)

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