2022年7月9日土曜日

主にある結婚観(上)

イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」(マルコ10・5)

 これがイエスの旧約観である。イエスは旧約の戒めを暫定的なものと見ておられる。悉(ことごと)く然りと言うのではないけれども、人情が冷ややかになっているために本来のご要求には到底応じられぬので旧約時代の人には割合に寛大な戒めが与えられていた。

 しかしイエスはこれらの戒めを『成就するために来た』(マタイ5・17)お方である。これを成就して神の本来の御目的に適う人間を造らんと為し給うのである。

 イエスがガリラヤの一工人の身でありながらイスラエル建国の偉人モーセ以上の権威をもって『しかし、創造の初めから』と言われたことは如何に天の父の心を確実に知っておられたかを示すものである。もう一度イエスの前に跪いて御教導を受けよう。

祈祷
イエス様、あなたは貧しい生活にお生まれになりましたが、いと高い神の権威をもって私どもをお導きくださいますことを感謝致します。私たちも物質的に貧しい生活の中にあってこの世の思潮に動かされず、ただ永久の真理であるあなたに従い行かせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著190頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の引用文は昨日に引き続いてクレッツマンの『聖書の黙想』からである。

 イエスがこの問題に関して、律法は何と言っているかと〈パリサイ人に〉尋ねた時、彼らは彼らなりに、その律法を自由に解釈して、男はその妻に離縁状を書くだけで十分で、男の目から見て十分な理由があれば、どんな理由ででも、妻を出すことができるのだということを、当然のことのように考えていたのである。そこで主は、モーセが巷の立法者のように振舞ったのは、人々の心がかたくなであることを考慮して、更に大きな害を避けようとしたのだ、ということを指摘される。

 しかし、主は、神が男と女を造られた時にこの律法を定められた通り、その根本の主旨と意味に立ち帰って、人はその父母のもとを離れて、神聖にして犯すべからざる結び合いによって一体とならねばならないと説き、それから更にこう言って言葉を結ばれた。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。

 こうして、主は、結婚を男と妻との終生変わらぬ結合として承認する、神の認印を押されたのである。) 

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