イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」(マルコ10・23)
マルコは他の書にまさりイエスの細かい挙動を描いてある。ことにイエスの眼について最も注意している。21節に『イエスは彼を見つめ』とあり、27節にも『イエスは、彼らをじっと見て』とある。本節では弟子たちを『見回して』とある。
人の心の奥まで見透す目で殊にユダにご注目なさったのではなかろうか。貧者に施すための貧しい財布の中からさえも盗み掠めていたユダ。わずか三十デナリのために恩師を売らんとするユダ。このイエスの注視に出会った時に悔い改むべきでなかったか。
イエスの慈眼は彼らに、ユダに、富の欺きから逃れて『天の宝』へと心を転ずべく懇願してはいなかったであろうか。イエスは弟子らを『見回し』た。『イエスは、彼らをじっと見』た。同じ慈眼で私どもに目をとめ、何と囁いておられるであろうか。
祈祷
主イエス様、あなたは私たちを見回されます。あなたは私たちに目をとめなさいます。その目は私たちに懇願し私たちに囁き、私たちがこの世の宝を、天の宝に兌換するようにおすすめになります。主なる神様、私をして、その囁きに従う者とさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著205頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下はクレッツマンの『聖書の黙想』の短文である。
深い憂いと悲しみの心をこめて、主は弟子たちを見まわされ、富める者が神の国へ入ることはどんなにむずかしいかという事実に彼らの目を向けさせた。弟子たちは主のことばに意外の念を持った。私たちの中の大多数の者同様に彼らも、また、富むことを文句なしに利得となることだと考えていたからである。
なお、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の中の38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退で10 「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」 に引き続いて 11 「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」 という題名で次のように述べる。
若い司は頭を垂れ、悄然として『最大不覚の拒絶』を為して退去したとき、イエスは未だかつて道徳上古来聞き及ばざる峻厳なみことばを授けられた。『富む者が神の国にはいるのはむずかしい』と。なお驚く弟子に対し、神の国を拒む性質を挙げ、一般に行われる諺に一層力をこめて引用しつつその断定を繰り返された。
〈十二使徒の驚駭〉
曰く『子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい』と。霹靂〈へきれき〉の頭上に落下した如く弟子たちは驚駭〈きょうがい〉した。『たいへん驚いた』〈マタイ19・25〉と。これまさに当然である。
イエスは彼らの執着措く能わざる希望に一撃を加えられたのである。彼らは今にしてなおユダヤ人のメシヤ王国の理想に煩わされているのであった。門出の始めよりして彼らをイエスに随従せしめ、弟子として犠牲と艱苦に耐えしめたものは何であろうか、もちろんイエスに対する欣慕の念がその重きをなしていたには相違ないけれども、なお同時に下劣な動機が潜んでいたのであった。すなわち彼らは富貴を獲得せんと考えた。
彼らの主がその玉座に上られる際は、彼らは信任の厚きより、主は必ず、この下賎の間にもなおその節を変えなかった彼らに報いられるであろうと考えた。イエスは彼らに名誉を負わしめ、その朝廷において重要の席を与えられることであろう。彼らは土地や幾多の邸宅を与えられ、また彼らはメシヤの王国に対する物質的な時代思想に従い主が世界の国民の審判者として、彼らの首領となり、サンヒドリンのごとき会議を開かれるものとみなしたのであった。この反抗群がり起こったときもなお彼らはその希望を捨てないのであった。彼らはこれを単に終局に赴く一階梯と推論してその主が解すべからざる遅疑を速やかに擲って、驀然〈ばくぜん〉正当なる栄光を輝かし、その偉大なる威勢と統治権とを握られんことを主に迫ったのであった。
12 「ペテロの質問」
ゆえにイエスのみことばに彼らは驚駭したのであった。彼らは天国における富貴を夢見ているのに、イエスは富めるものは天国に入ること難しと仰せられる。この宣告は彼らには宛然葬式の鐘の如くに響いたのであった。・・・・)
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