あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(マルコ9・41)
実に嬉しい御言葉である。二様に嬉しい。一には『キリストの弟子』を斯くまで愛護したまうかと思えば、何という特権かと思われて嬉しい。キリストの弟子となるに至らぬでも、単にキリストの賛成者であって、わずかに水一杯を寄付した人までも、報い給う主の愛は万人の父の愛である。
二には我々の為すところが如何に小さくとも、キリストを愛するがために行うものであれば決してその報いを失わないことが嬉しい。報酬を求める善を笑わば笑え。私には些細の善にも大きく報い給う神様の愛が有難い。父母がその子の少しの善でも探し出してこれを褒めてやりたいのと同じ御心である。
私はこういう神を天の父と仰ぐことが出来て嬉しい。私どもの生活にはどうせ大きな仕事を為す機会が少ないし、また大きなことが出来そうにもない。水一杯でよろしい。『キリストの弟子だからというので』と言う語をレッテル付きのクリスチャンに限る必要はあるまい。天の父の子はことごとくキリストの弟子ではないか。誰にでも良い。毎日誰かに水一杯を飲ませよう。
祈祷
天の父よ、どうか誰を見てもあなたの子供であることを思わせて下さい。そして冷たい水一杯でも飲ませたいなと思う心を常に持たせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著182頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。6/21http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html以来、クレッツマンの『聖書の黙想』からはすっかり遠ざかっていたが、次に接続する文章が以下のものである。ちょうどここ十日あまりの青木さんの引用聖句、また今日の引用聖句にも言及する文章で、短いがこの間の事情が鋭く要を得てまとめられていると思うので紹介する。
そこでイエスは腰を下ろして、彼らにとってたいへん大切な教えを話された。キリストの御国は、弱い者は押しやられ、強い者本位のこの世の王国とは違っている。かしらであり偉い人とは、自分自身のことをあとまわしにして、他の人に仕えようとの熱意を持っている者にほかならない。この教えを主は、なんとうるわしく説明されたことだろうか。主は近くで遊んでいたと思われる一人の幼い子をとりあげ、腕に抱きながら、このような小さい者の一人を彼の名によって受けいれ、愛と配慮を注ぐことの方が、王国を支配することよりも偉大なのだ、それは主がこのようなわざを、主ご自身になされたものとして見られるからだ、と説かれたのである。
ついでヨハネが主に告げた一つの意見が、別の教えを受けるきっかけとなった。弟子たちが、彼らの伝道旅行の途中で、使徒たちの仲間ではないのにイエスの名によって悪霊を追い出している一人の男に出会ったことがある。弟子たちは自分たちの仲間ではないという理由から、男にその行いをやめるように説いた。しかしイエスは彼らのこの態度を、誤った熱心の例と見なされた。この男は明らかに本当の信者の一人なのである。男はその師に、使徒たちと同じように仕えようとしていたのだ。これは、主がわたしの味方でない者は、わたしに反対するものであると言われた時とは違った場合なのである〈マタイ12・30参照〉。この男は弟子たちには従わないかも知れないがイエスに従う者の一人なのである。
ある人々が、わたしたちの仲間にたまたま加わらないからと言って、その人たちを非クリスチャンとして非難したり退けたりすることのないように注意しよう。神ひとり心の奥をさばき給う。したがってこの場合には次の主の言葉がふさわしい。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」。大切なことは、彼がキリストの一人のしもべであったということだ。このことに関連して主は次のような真理を強調された。もし人が、キリストに従っている者に一杯の水を飲ませるほどの小さいことでも、そのことを主の名によって、また主につく者だとの理由からなしたならば、その人の行いは決して救いからもれることはないだろうと。
※連日の各地で40度を越す猛暑はまさに「水一杯」のありがたさを教える。しかし、「水一杯」にまつわる話は聖書中にいくつか見出される。さしずめ、エリヤのそれとイエスさまのそれがそれに該当するであろう。〈1列王記17・10、ヨハネ4・7〉。高校時代、通学は自転車だった。3、40分であったろうか。夏の日盛りの時、自転車を走らすのはしんどい。しかし、その通学路のちょうど真ん中あたりに、水が湧き出る場所があった。道端に自転車をとめ、走り寄っては水を一気に飲む。まさに生きた心地がしたものだ。ウクライナの戦火のうちに、気候変動の異常気象の中で熱波に悩まされる私たち人類ひとりひとりに主は語られる。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」〈黙示22・17〉と。)
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