「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。・・・」彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。(マルコ10・22)
イエスはいつも天を指して『天に宝を積め』と励まし給う。彼は現世主義ではなかった。もちろん現世軽蔑者ではなかったが、来世と現世とを一つに見てことに現世が準備時代であることを常に強調された。現世において私たちが所有する一切の宝(私たちの頭脳の労働も、手足の労働も、私たちの存在それ自身も含むのはもちろんである)は『天に宝を積む』ための準備として与えられたものである。
これを如何に使用するかによって天における私たちの運命が定まる。されば何一つでも死蔵するのは惜しい。この世だけのために使用してしまうのも惜しい。『みな売り払い』天に貯えるのがよい。しかしこの青年はイエスの御声に応じかねた。天とキリストが鮮明に見えなかったからであろう。『天に宝を積む』とは決して『顔を曇らせ』たり『悲しん』だりすべき響きを持った言葉ではないはずである。犠牲が大きすぎると思ったのであろう。
祈祷
天の父よ、願わくは、私たちに天の栄光を見る目をお与えください。天に宝を積むことが如何に尊貴であるかを悟らせて下さい。そうして喜んでこの世におけるすべてを『売り払う』者とならせて下さい。
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著203頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 短い言葉だが、クレッツマンの昨日の文章の続きを書き写してみる。
ところが、彼はこの機会をつかむのにふさわしくなかった。「たくさんの資産」を放棄すること、それはあまり過酷な要求だった。彼は悲しげに立ち去って行った。神の国は彼を失っても、何の損失もなかったが、彼にとって、神の国を失うことはすべてを失うことだった。
それに引き換え、David Smith の昨日に続く言葉は以下の長文だが、これまたクレッツマンの見方と本質的に変わらない。
これには青年は逡巡した。彼は甚だ富裕であった、この犠牲には辟易したのであった。彼は自ら、永遠のいのちが最高の希望であると信じていた。しかるに絶えず彼が心をかけたさらに大切なものがあったのである。イエスはそれを彼に示された。『 彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った』。
イエスは甚だ熱心にこの要求を示されたしかしイエスがここで何人にも貧困が弟子たるの条件であると仰せられたと思うのは甚だしき誤解である。イエスは人間に接せられるには熟練する医師のように彼らの病の種類を発見して各人に適切な治療を加えられるのであった。
もしそれヘロデ・アンテパスが、永遠のいのちを得るに何をなすべきかと来たり問わば、イエスはバプテスマのヨハネと等しく、その手を彼の患部に加えて『あなたの兄弟の妻を去れ』と仰せられたことであろう。もしニコデモが同様の質問を試みたならば『あなたがもし完全になりたいのならば、あなたの卑怯な恐れを棄てよ。そうして人々の前に自分を告白せよ』と仰せられたに違いない。
このように青年司がイエスに来れるとき、イエスは彼の心中の病を発見して、その霊魂に蝕んでいる腫物を悟られたのであった。故にイエスはその患部に手を置いてこれを切開すべきことを命じられたのであった。『もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』〈マタイ19・21〉と。このようなことはイエスの要求の常である。人の尊ぶところの何たるにかかわらず、イエスはその御手をそこに加え、天国に対して最高の献身をなすべきを要求せられる。『最も愛着するものをこの世に有するとも、イエスが求められるやイエスのためにこれを棄てる者にあらずんば真のキリスト者たるを得ず』)
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