2022年7月28日木曜日

自己犠牲の報酬(2)

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父。子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。・・・後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10・29、30)

 『まことに、あなたがたに告げます』とイエスは特に真剣になって言われた。そうだ『まことに』である。これを疑っては大変なことだ。イエスの真剣を疑うことになる。『わたしのために』と大きく切り出された。こんな大きな要求を人間が正気でなし得るであろうか。最高最大の愛と奉仕とを要求したイエスは神でなければ狂人である。

 たった今いかなる場合にも妻を離縁してはならぬと言った言葉の乾かぬうちに『わたしのため』ならばこれをも捨てよと言う。父母も子も財産も捨てよと言う。実に突飛な要求とも見える。父母も兄弟も何もかも捨ててわたしと共に走れ、との要求はこの世においては愛人の要求か帝王の命令の他にはあるまい。イエスはこの心を私たちに要求される。この心があってこそ父母兄弟妻子に対して真実に尽くすことができる。

祈祷
私のために一切を捨てて下さった主イエス様、願わくは、私をしてあなたの十字架の愛に感激し、私をして一切をあなたに献げることを喜びとする者とさせて下さい。私たちは一切をあなたに献げることによって、父母兄弟妻子に対する一切の義務を真実に履行する者とならせて下さい。アーメン。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、先ず、David Smithの昨日の 12「主の答弁」に引き続く文章である。 

13 「ぶどう園で働く者の喩え」

 イエスは戒めを徐に挿入しつつ『先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです』と加えられた。而してこの警句の註解として次の喩えを語られた。すなわちある主人がある日早天市場に赴いて一日一デナリの普通の賃金でそのぶどう園に働く者を雇い入れた。また日が出て三時間を過ぎた九時ごろに、市場に空しく立つ者を発見して、彼らをまたぶどう園に送った。この時には賃金については特別に協定せず、ただ全額を払う約束であった。彼らは職を得て喜んでこれに応じた。彼はかくして十二時ごろと、また三時ごろに同じく人を雇い入れた、五時ごろすでに労作の時間は一時間を余すに過ぎないころ、彼は再び市場を訪ねて、また職のない者を雇い入れた。彼らは労働者として最も劣等な者どもで、長い日を空しく立って他人の雇われて行くのを、眺めながら順を待ったけれども誰も傭手が見えなかった彼らの憐れな有様がこの農業家の心を曳いた。『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と彼は賃金のことを眼中に置かずに言った。彼らは即刻快活にこれに従った。彼の好意に信頼していくらでも儲ける機会のあるのを喜んだからである。

 六時となって、その日の仕事を終わったとき主人は前後に雇って来た者を呼んでこれに始めのものと共に賃金を払えと会計に命じた。彼らはわずかに一時間働いたのみで、しかもその仕事も貧弱であったにかかわらずデナリ一枚を与えられた。はじめに雇われた者はさらに多く与えられることと思ったが望みは外れてやはり一デナリ与えられたのみであった。これその約束の賃金であったに相違ないのに彼らはこれを憤った。彼らはみな不平を鳴らしたが、そのうちの一人はデナリを下に置いて、傲然として傍に立つ主人に聞こえよがしに会計に向かって抗議した。『この「のちの者」の働きたるは一時間ばかりなるに終日苦しみを負い、暑さに当たる我らと等しくこれをなせり』と。主人は慰めて『友よ我れ汝に不義をせず、汝と銀一枚の約束を為したるにあらずや、汝のものを取りて往け、我れこの「のちの者」にも汝の如く与うべし、我がものをもって我が思う如くなすは良からずや、我が善によりて汝の目悪しきか』と言った。

①  使徒の雇い人根性を矯正するため

 『かくの如く後のものは先に、先のものはあとになるべし』とイエスは宣うた。この喩えは第一に使徒たちの雇い人根性を矯正せんがためであった、もし彼らが賃金のために働けば賃金は与えられる。しかし畢竟雇い人に過ぎないのである。神はその報賞の如何に関わらず、第一の雇い人らのように、ぶどう園に赴かざるうちに賃金を定むるものにあらず、その正当と認められるに任せて、ただ主人の命に服するもの、すなわち賃金を考えず、主人が彼らを雇ったことを感謝しその慈愛に信頼する『のちの者』の如きを求め給うのである。

② 彼らの傲慢を戒めんがため

 この喩えはさらに弟子たちの傲慢を砕かれる計画からであった。『我れまたこの「のちの者」にも汝の如く与うべし』との一句は『イエスと偕にありし人々』の耳に痛みとはならなかったであろうか。彼らはのちに雇われた者として、聖パウロの使徒たるを否定したのであった。また、主はかつて異邦人を蔑視せず、その事業にこれを招き彼らと、第一時に雇われたユダヤ人との間に何らの相違も認められなかったにかかわらず、これを侮蔑したユダヤ人のキリスト者はこの喩えを思い起こさなかったであろうか。これ教会が使徒の時代にこれを心に留める必要があったと共に、今なお記憶せざるべからざる教訓であって、特に侮蔑せられる者、等閑〈なおざり〉にされる者に温情を有せられる主は賃金によらず、愛情より仕えることを望み、人の事業によらず、その事業に当たる精神を嘉〈よ〉みせられるを学ぶべきである。

 一方、A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に と三つに分けて詳述している。その二番目に該当する文章を紹介する。

 富の誘惑についてのイエスの発言は、ほかの弟子たちには勇気をくじかれるようなものに思われたが、ペテロの心には違った影響を与えた。イエスの発言は彼に、自分や兄弟たちの行動を永遠のいのちを求めて来た青年の行動と比較させて、自己満足な思いを抱かせた。彼はひそかに思った。「私たちは、あの青年が出来なかったことーー主が今言われたことによるなら、金持ちには到底出来そうもないことーーをしている。私たちは一切を捨ててイエスにお従いしているのだ。そうすることがかくも困難で、まれなことであれば、非常に価値のあることに違いない」と。その率直な性格から、ペテロは思ったことを口にした。彼は得意気に、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」と言った。

 このペテロの質問に対して、イエスは、十二弟子また神のしもべと自任するすべての人にとって激励ともなり警告ともなる返答をされた。まず、ペテロの質問の内容に関して、イエスが力をこめて、彼と兄弟たちに用意されている大きな報酬について述べられた。その報酬は彼らのものだけでなく、神の国のために犠牲を払ったすべての人のものである。次にイエスは、少なくともそのような質問をした動機の一部となった自己満足ないし打算的精神に関して、一つの説明的なたとえによって道徳的非難を加えられた。それは、神の国における報酬が単に犠牲の事実あるいは量によって決定されるのではない、ということを言わんとしている。それらの点で先であった多くの人々が、実際の評価ではあとになるかもしれない。というのは、そのような報酬の算定における本質的要素となるもう一つの構成分子ーーすなわち、正しい動機ーーが欠けているためである。一方、それらの点であとであった者たちが、彼らを鼓舞した価値ある精神のゆえに先に報酬を受けるかもしれない、この連続した二つの答えを考察することにしたい。当面の主題は、神の国における自己犠牲の報酬である。

 これらの報酬に関して行き当たる第一のことは、報酬と払った犠牲との間の全くの不均衡である。十二弟子は漁船と網を捨てた。その彼らが受ける報酬は十二の栄光の座であった。それが何であろうと、誰でも神の国のために何かを捨てるならば、現世では百倍の報いを受け、来るべき世においては永遠のいのちを受けると約束されている。

 この約束は、キリスト者が仕える主の気前のよさを見事に示している。イエスは、イエスに従う者たちの犠牲を軽視し、彼らの栄光を嘲笑することすら何と容易に出来たことだろう。「あなたがたはすべてを捨てました。それで、あなたがたの全財産とは何だったのですか。もし、あの裕福な青年がわたしの勧めに従って財産を手放したのなら、そのことを多少は誇れたでしょう。が、みすぼらしい漁師のあなたがたにとって、その払った犠牲は取り立てて言うほどのものではありません。」

 しかし、そのようなことばがキリストの口から発せられるわけはなかった。キリストは、外見的に小さいものを軽蔑したり、まるでキリストの負担を軽くするようなつもりで彼に対してなされた奉仕をも決してけなすようなことはされなかった。むしろ、ご自分のしもべたちに対して彼らの良いわざを驚くほど過大評価し、そして彼らの奉仕に相応の報いとして、彼らの要求をはるかに越える報酬を約束することによって、ご自分が負い目のある者〔債務者〕になることを好まれた。この時もそのようにされた。弟子たちの捨てた「何もかも」は取るに足りないほど小さいものであったが、それでもキリストは、それが彼らのすべてであったことを覚えておられた。そして真剣に「まことに」と大変優しく感謝をこめて、あたかも彼らが正当に手にいれたかのように栄光の座を約束されたのである。

 これらの重大な高価な約束が信じられるなら、犠牲を払うことは容易だったであろう。栄光の座に着けるのに漁船を手放さない者がいるだろうか。五パーセント、いや百パーセントはおろか百倍もの利益をもたらす投資をためらう商人がいるだろうか。

 イエスの与えた約束は、よく考えると、もう一つ別の素晴らしい効力を持っている。その約束は人を謙遜にさせる。その偉大さは人の心を真面目にさせることである。どんな虚栄心の強い人も、自分の良いわざが栄光の座の報酬を受けるに値しようなどと望むことはできない。また、自分の払った犠牲が百倍の報いを受けるべきだとも望めない。こんなふうに、すべての人は神の恵みの負債者をもって甘んじなければならない。したがって、論考などは問題外である。このことは、天の御国の報酬がなぜそれほどまでに大きいかの一つの理由となる。神がその賜物を分け与えられる時、与える方〔神〕に栄光を帰すると同時に、受ける者〔人〕を謙遜にさせるのである。

 それゆえ、普通は報酬どころではない。今一度、十二弟子に特別に約束された報酬について入念に見てみると、表面的にはそれらが誤った期待を抱かせ、助勢しそうになっていることに気づく。それらが実際に何を意味していたとしても、そのとき弟子たちが理解した意味については疑いの余地がない。主が「世が改まること」と「十二の栄光の座」について語られたことは、彼らに、外国支配のくびきを脱して復興したイスラエル王国の光景を連想させた。仲たがいしていた十二部族が、イエスの支配下に和解し統一されるのである。民衆の熱狂のうちに、イエスは彼らの英雄的王とされる。そして、イエスの王としての主張を最初に信じ、その初期の活動に参与した弟子たちは、彼らの忠誠に対する報酬として「県知事」となって各部族を治めるのである。

 このような夢想は実現すべきもなかった。そこで、なぜイエスは、それと知りつつそのような根拠のない空想をかき立てそうな言い方をされたのだろうか、と自然に問いたくなる。その答えはこうである。イエスは、幻想を抱かせる危険のあることばで約束を表明する以外に、弟子たちに希望を与えるというご自分の望む目的を達することができなかったのである。あらゆる誤解の可能性を未然に防ぐ選び抜かれたことばは、何の感化も与えることができなかったに違いない。人の心をとらえる約束は、七色に輝き、見た目にもはっきりした虹のようでなくてはならない。

 そのことは、今考察中の約束だけでなく、聖書また自然界に見られるすべての神の約束に多かれ少なかれ当てはまる。人の心を鼓舞するために、すべての神の約束は、決してそのまま現実化しないが、私たちが想像し、またその時は想像せざるを得ないように約束することによって、ある程度私たちを裏切ることになろう。約束の虹は、私たちがまるで子供のようにいやおうなしに引かれるよう、七色に描かれている。そしてその目的を果たすと消えていく。こうしたことが起こると、私たちはつい「主よ、あなたは私を欺きました」と叫びがちである。しかし、私たちの予期したものと違った形でそれが実現されるのであるが、結局、自分たちは祝福をだまし取られたのではないことがわかる。神の約束は幻想を抱かせるかもしれないが、幻滅を与えることはない。

 目の眩むような栄光の座の約束と関連して十二弟子が味わった経験は以上のようなものだった。彼らは期待したものを得なかったが、類似したあるものを得た。それは、彼らが成熟した霊的判断ができれば、最初に彼らの望んだものよりはるかに素晴らしい、充分なものであった。〈※「続き」は明日以降に引き続いて掲載する〉)

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