2022年7月12日火曜日

子どもたちの美しい挿話(1)

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちはしかった。(マルコ10・13)

 おりもおり、結婚問題でイエスの厳格な態度に驚いてむしろこれを否定しようとする弟子らの眼前に結婚の祝福である『子どもたち』(ルカ伝には幼な子たちとある。赤子である)をつれて来た人々があった。神のご摂理であろう。

 イエスの厳格な結婚観は人間を呪うためではない。祝福するためである。結婚はイエスの言われた厳格な意味においてのみ福祉となるのである。共同生活友愛結婚などは少しも人格を創造しない。さらにかような結婚における子どもの立場を考えてみるがいい。

 神様は結婚問題の最中に子どもと母親とをつれて来られたのは面白いではないか。いづれはイエスの人格に惹かれ、かような人にあやからせたいと願った母親であろう。『イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た』との句には女らしいやさしい響きがある。

祈祷
神よ願わくは私たちのホーム、私たちの子らを憐み顧みて下さい。願わくは、あなたの手で彼らに触れ、あなたの愛の手で彼らを育み養って下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著193頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 何とも魅惑的なマルコ10・13〜16の場面である。青木さんはこの箇所について、これから一週間そのみことばを味わわせて下さる。それは追々明らかになって行くことと思うが、この箇所についてお馴染みのA.B.ブルース、デーヴィッド・スミス、クレッツマンもまたそれぞれ語っており、三者ともその主張するところはほぼ一致している。先ずはA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻24頁所収の文章であるが、この文章は第16章 自己犠牲についての教え 1 完全への勧め の末尾に当たる文章である。

 ここで、祝福を求めてイエスのもとに連れて来られた子供たちの美しい挿話に、一言触れておくことは適切であろう。この物語を読んで、イエスが修道院臭い道徳論を教えようとしておられると誰が信じられるだろうか。イエスが、家族関係の軽視と思われる、事実長い間そのように解釈されていたことばを語られた直後に、母親たちが彼女らの子供に祝福を求めてイエスのもとに来たのは実にタイムリーであった

 彼女たちがやって来たことは、彼の教えのそのような誤解に対する、前もっての抗弁の導入の機会となった。この母親と子供たちを主から遠ざけようとする十二弟子のお節介は、その抗弁をいっそう強調しただけであった。弟子たちは、神の国のために結婚を断念することに関して、そのときイエスが語られたことばから、修道院制度が生まれるような強い印象を受けていたのではないかと思われる。

 「主は、この母子たちをどれだけ心にかけておられるのか。主の頭の中は天の御国のことでいっぱいなのだ。そこでは、彼女たちは結婚することも結婚せられることもない。さあ、向こうへ行け。こんな時に主を煩わせるな」と彼らは考えた。熱心すぎる警官隊のように彼を守ろうとする弟子たちに、主は少しも感謝されなかった。「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」

※前回、「主の結婚観」下 の末尾で、A.B.ブルースの所説を詳細に紹介するのは難しいと書いたが、この末尾に位置するところでA.B.ブルースが何を問題として論を展開しているか語っている文章がある。それは「この物語を読んで、イエスが修道院臭い道徳論を教えようとしておられると誰が信じられるだろうか。」と言っている部分である。福音書、ひいてはイエスさまのお考えはまさに天の御国に入る者にふさわしい説明を「結婚」について「家族」について語られていることを読み取りたい!)

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