『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)
マタイ伝にはこの御言葉の後にぶどう園に働く人を雇う譬えが載せてある(20章)。弟子らの心にはまだ『誰か大ならんか』との高ぶりが刈り取られずに残っていたのでこの喩えを語られたように思われる。
十二のお弟子の中でもヨハネとヤコブはことに野心の強い人で弟子らの中で第一位を占めたいと願ったことは明らかに示されている(マルコ伝10章36節)。彼らがそう考える理由はあった。一つは彼らの母サロメはイエスの母マリヤと親戚の間柄であったようであるし、二つには、彼らは最初にイエスのお弟子になった者である。すなわち『先の者』であった。
人間の心の敵で最も恐ろしく、最も執着の強いのはこの高ぶりである。多くの人は自分の標準を周囲の人々に置く。そして先とならんことを学ぶ。この心が善く用いられて自己の修養となっている間はさほど醜くもないがひとたびドングリの背比べとなり、さらに一転して自分より優れた人を妬むようになってくると、そこには悪魔の姿が現れてくる。
祈祷
主イエス様、願わくは私たちの心よりこの醜い我執を取り除き給え。人を己に優れりとしつつ、まさにその美点に倣い、報いを求めずして、ただあなたの足跡を慕いて進む者とならせ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著212頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のA.B.ブルースの3「先の者があとに、あとの者が先に」と題する文章の後半部分である。
さて、たとえから、それを説明しようとしていたことばに戻ろう。私たちは、能力、熱心、奉仕の長さにおいて先に立つような人々が報酬に関して最後の地位に落とされることがしばしば起こりやすいことである、と言われているのに気づく。「先の者があとになることが多いのです。」この言明は、うぬぼれが十二弟子のような立場にある人々、すなわち、神の国のために犠牲を払った人々を襲いやすい罪である、と言うことを暗示している。今や、観察によって、これが事実であることがわかる。それはさらに、自分を捨てて労する人々が特に自己義認の罪に陥りやすい状況にある、ということを教えてくれる。これらの状況が何であるかをここで指摘すれば、その深い、そして、多くの人に一見不明瞭なイエスのことばを説明するのに役立つであろう。
一、キリストのために犠牲を払う人々が自己義認の心情に陥る危険があるのは、自己否定の精神が習慣となっている時ではなく、非常にまれな行為にそれが発揮される時である。このような場合、キリスト者は非常時に臨んでいつもの精神状態をはるかに越える霊的な高みに引き上げられる。それで、犠牲を払った時にはキリスト者にふさわしく振舞ったかもしれないが、老兵が彼の戦いを振り返るように、後になって自分たちの立派な行為に自己陶酔しがちである。そして、ペテロのようにすべてを捨てたことを誇らしげに意識して、「私たちは何がいただけるでしょうか」と問いがちである。それは寒心にたえない心の状態である。霊的高慢と自己陶酔が蔓延する社会は不健全である。万物の道徳律に預言者的洞察を有する方は、将来起こることを予告することができる。自分を先と考える宗教社会は、賜物と恵みにおいて次第に遅れをとるようになる。その人々から見くびられている他の宗教社会が次第に成長して、ついに誰の目にも明らかに両者の地位が逆転するまでになる。
二、神の国のために犠牲を払う人々の精神に大きな堕落の危険が臨むのは、ある特定の種類の奉仕が非常に需要度が高く、それゆえ特別に高い評価を受けるような時である。一例として、迫害の時代に激しい肉体的苦痛と死を忍耐することを取り上げよう。苦難を受けた初期の数世紀の教会において、殉教者や迫害に屈しなかった信仰者がどれほど熱狂的讃美の対象となったかはよく知られているところである。殉教を遂げた人々は、熱狂した民衆によって神のように祭り上げられた。彼らの死の記念日ーーそれは永遠の世界への彼らの生誕日と呼ばれたーーは厳かに祝われた。そこでは、この世における彼らの行為と苦難が途方もない称賛の調べのうちに熱烈な賛美を持って語られた。
キリストのために死ぬことはなかったが苦しみを受けた信仰者たちも、試練に遭わない一般のキリスト者たちとははっきり区別されて、上に位する者として尊敬された。彼らは聖人であり、その頭上には栄光の光輪が輝いていた。彼らは神に並ぶ権能を有し、正規の教会指導者たちよりも大きな権威を持って、つないだり解いたりできると信じられていた。堕落した人々は、彼らからの赦免を熱心に求めた。この聖人たちが司式する聖餐式に列席を許されることは、罪人たちが教会の交わりに復帰してもよい門戸開放と見なされた。彼らが罪を犯した者たちに「安らかに行け」と言っただけで、司教たちもその罪人たちを受け入れなければならなかった。司教たちも一般民衆と一緒になって、キリストのために苦しみを受けた人々に偶像崇拝的な忠誠を誓った。司教たちがその信仰者たちを敬愛しほめそやしたのは、ある程度は正真な称賛からであったが、ある程度は政策的なものでもあった。つまり、ほかの人々を彼らの模範に倣うように勧め、苦難の時代に必要とされる剛毅の徳を養うためであった。
教会におけるこうした心理状態が、真理のために苦難に耐えた人々の魂を、熱狂、虚栄、霊的な高慢、鉄面皮に誘い込む大きな危険をはらんでいたことは明白である。彼らはみな決して誘惑を卒業していたのではない。多くの人は、彼らが受ける称賛を彼らにふさわしい者と考え、彼らを特別に偉大な人物と見なした。その勇敢な行為を将軍から称賛された兵士たちは、まるで自分が主人であるかのように振舞い始めた。例えば、特別な犯罪者だった人に、彼を過大にたたえてこんな手紙を書くまでになった。「すべての篤信者から司教キプリアヌスへ。このことを知ってほしい。われわれは、あなたがその行為についてーーすなわち、彼らが罪を犯してからどのように振舞ったかーー報告したすべての人々に平安を授けた。われわれは、これらの賜物があなたから他の司教たちにも伝えられるように願っている。われわれは聖なる殉教者とともに、あなたが平安を保ち続けられるように祈る。」
こうして、「先の者があとになることが多いのです」ということばは、この篤信者たちにおいて成就した。彼らは真理のために苦しむことや神聖なることの名声では先に立っていたが、人の心を探られる方〔神〕の審判ではあとになった。彼らはその体を打たれ、不具にされ、焼かれるために明け渡した。しかし、それはほとんど無益に等しかったのである。
三、先の者があとになる危険は、自己否定が手段化され、キリストのためではなく、自分自身のために禁欲的になされる時である。自己否定の量に関しては、厳格な禁欲主義者に第一位の座が与えられることを誰も否定しないだろう。しかし、彼が真の霊的価値において、それゆえ神の国において第一位を占める資格があるかどうかは、さらに議論の余地がある。
自我を捨てるという根本的な事柄に関しても、彼は多分、先ではなくあとになろう。禁欲主義者の自己否定は、巧妙な方法での強烈な自己主張である。真のキリスト者の自己犠牲は、自分自身のためではなく、キリストのために、また、犠牲なしに真理を守ることができない時には真理のために受ける苦難や喪失を意味する。ところが、禁欲主義者の自己否定はそのようなものではない。それは、すべて自分のため、彼自身の霊的利益と信用のために耐えた苦行である。彼が自己否定を実践するのは、お金をためたい一心であらゆる贅沢をやめ、生活必需品までケチケチする守銭奴に似ている。その守銭奴のように、彼は自分が富んでいると考えている。だが、二人とも同じように貧しいのである。守銭奴は、多くの富がありながら、楽しむべき日々の必需品と引き換えに貨幣を手放すことができず、禁欲主義者の場合は、いわゆる難行苦行なる「善行」という彼らの貨幣が偽物で、天の御国において通用しないからである。自分の魂を救うべくなされた彼の労苦は、ガラクタが焼き尽くされる時、その正しさが判明するだろう。もし彼が救われるとしても、それは火の中をくぐるようにしてであろう。
さて、先の者があとになる危険性のある三種類の場合をちょっと思い返すと、「多いのです」ということばがおおげさでないことがわかる。というのも、信仰を告白するキリスト者によってなされるわざのいかに多くが、これらの危険性のいずれかに属していることか考えてみよ。時たまの突発的な努力、宗教界でもてはやされて尊敬されている慈善行為、さらにまた、働きへの関心より、行為者者自身の宗教上の利益に関係してなされる善行、多くの者が神のぶどう園の働きに招かれる。また、多くの者がその働きに従事する。しかし、選ばれる者は少ない。選り抜きの働き人は少ない。イエスの教えの精神によって神のために働く者は少ない。
そのような働き人が少ないと言っても、幾らかはいる。イエスは、先の者がすべてあとになり、あとの者がすべて先になる、とは言われていない。イエスが言われたのは、そういう場合が多い、ということである。どちらにも多数の例外がある。一日中労苦と暑さを辛抱した者全部が、金銭ずくで、自己義認的であるのではない。否、主はいつもご自分のぶどう園に立派な働き人の一団を持っておられる。彼らは、もし誇る機会があったならいつでも、その奉仕の長さ、精励、効率を誇ることができたであろうが、いささかも自己満足な思いを抱くことはなく、他の連中よりどれだけ多くもらえるだろうかという打算にふけることもない。
異教の地へ赴いた献身的な宣教師たち、ルターやカルヴァンやノックスやラティマーのような偉大な改革者たち、最近は減っているが、私たちの時代の優れた人々のことを考えてみるがよい。このような人々が、先にぶどう園に来た労務者のように語ると考えられようか。まさに思いもよらない。生涯を通じて、彼らの思いと奉仕はまことにへりくだっていた。そして、その生涯を閉じる時、彼らには、日中の働きは永遠のいのちという大きな報酬には全く値しない、大変貧しいものに見えたのである。彼らのような先の者が、あとになることはない。
先の者であとにならない人々がいるなら、もちろん、あとの者で先にならない人々もいるはずである。もしそうでなければーーもし、奉仕の長さ、熱心、献身であとであるのに、ある人には便宜が図られるならーー神の国に混乱をもたらすことになろう。事実、そうなれば怠惰にプレミアムをつけるようなことになり、一日中何もせずに立っていたり、五時ごろまでは悪魔に仕えたりすることを奨励することになりかねない。また、老年になってぶどう園に行き、手足が思うように動かず、体が弱ってふらつく中で、主のために気の抜けた一時間の仕事をすることを奨励するようなものである。そのような士気をくじくような規定は神の国では通用しない。他の事柄が同等なら、より長く、より熱心に仕え、より早く仕事に着手し、より勤勉に働く人ほど、来るべき世でより豊かなものを与えられる。遅れて働き出す人々が恵みのうちに扱われるなら、それは彼らの遅れにもかかわらずであって、遅れたためではない。彼らが長い間怠けてきたことはほめられることではなく、明らかに罪である。またそれは自分は運が良かったと満悦することではなく、深くへりくだるべきことである。自分たちの奉仕の素晴らしさを誇るために多く主に仕えた人々が間違っているとするなら、自分の小さな奉仕を自慢する人はなおさらけしからねことであり、愚かでさえある。先の者でも、誇ったり、自らを義とする正当な理由を持っていないとすれば、あとの者はなおさらである。)
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