2022年7月27日水曜日

自己犠牲の報酬(1)

ペテロはイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マルコ10 ・28)

 たといそれがわずかに『網と舟と』に過ぎなかったとしても一切は一切である。もちろんペテロは反省が足りなかった。自分の動機に不純なもののあることに気がつかなかった。マタイ伝には『私たちには何がいただけるでしょうか。』(19章27節)という語さえ付け加えてある。

 それにもかかわらずイエスは大なる報酬のあるべきことを約束した。現世と来世とにおいて大なる報賞のあるべきことを約束した。先刻の青年が望んだ『永遠のいのち』も約束した。そのほかこの世で受けるめぐみも約束した。

 人間はやはり人間である。弱い人間であるから報酬を求めたい心のあることをイエスは知っておられた。然り、知って同情されたのである。彼は冷たい哲学者倫理学者ではなかった。しかし現世における報酬は『迫害の中で受け』と言い給うた。これは実に興味深いお言葉である。ペテロははるか後になって解ったであろう。

祈祷
迫害と共に百倍の恵みを与え給う主よ、あなたは私たちの弱さを憐み私たちの低級なるをも受け入れて、私たちのために大なる報賞を約束し給うことを感謝申し上げます。ただ私たちをして喜んで『迫害の中で』これを受ける用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著208頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のクレッツマンの文章の続きである。極めて平易に書かれているが、含蓄のある言葉である。クレッツマンの『聖書の黙想』よりの引用は過去7/19、7/20、7/21、7/22 、7/26と5回細切れ的に紹介しているが今日の個所が最終部分である。

 いつでも遠慮のないペテロはここでも、きっと、こんな言葉を返して、主を驚かせたものに違いない。
「でも、私たちは何もかも、みんな手放して、それから、あなたに従ったのですよ」と。
 彼は自分や仲間の弟子たちがしたことの値打ちを認めてもらって、報いられるように、危うく要求しかけたのではなかっただろうか。思いやり深くも、イエスはこの点には立ち入ろうとなさらず、ただ、彼らが信仰をもって行ったことは軽んじられるものではないと語って彼らを納得させた。

 主と福音のみことばのために、すべてを投げ打つならば、主の限りない恵みによって、この世においても、来るべき世においても、百倍もの報いを得るだろう。しかし、このように主に仕える際には、迫害は当然予期しなければならないものであること、それでも、なお、忠実でなければならないこと、を主は私たちに思い起こされる。それは「多くの先のものが後になり、後のものが先になる」からだ。身を処するに高慢であることは私たちからすべてを失わせることになるだろう。が、私たちの後ろから謙虚につき従う者は、ついに先んじて、私たちの頭に立つだろう。

※以上、クレッツマンはマルコ10・17〜31をひとまとめにして「キリストにすべてを負っているわたしたち」と題して述べているが、その冒頭部で次のように述べているのでこの際補っておく。

 私たちの犯している一つの根本的な誤りは、キリストに奉仕する場合、あたかも、キリストに恩恵を施しているかのように、振舞うことである。私たちは恩恵というものが、ひとりキリストの側にしかないのだということを忘れている。キリストは私たちに恵みを賜うが、私たちが金銭であれ、時間であれ、才能であれ、何かをもって、キリストに仕えることが許されているならば、もうそれだけで、すでに十分、特権を授けられたことになるのだ。そして、私たちが仕える場合でさえ、キリストは恵みという報酬を支払わずには、私たちから何ものも受けようとはなさらないおかたである以上、私たちは永久にキリストに対して負債を負い、永遠の感謝という絆によって繋がれているのである。

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の中の38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退で前回の 11 「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」  に引き続いて次のように述べる。

12 「ペテロの質問」

 ゆえにイエスのみことばに彼らは驚駭したのであった。彼らは天国における富貴を夢見ているのに、イエスは富めるものは天国に入ること難しと仰せられる。この宣告は彼らには宛然葬式の鐘の如くに響いたのであった。彼らの犠牲も畢竟何の報賞もなかったのであろうか。彼らが信任をもって認められたその報酬はついにその手から奪取せられるのか。彼らをしてその所有を擲ち、家もなき人の子と運命を共にせしめんと彼らに慫慂したその大望も、ついに一夢に過ぎなかったであろうか。十二使徒の代言者ペテロは彼らの阻喪の声となって叫んだ。『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』と彼は若き司と使徒らとを比較して尋ねた。

 これに対するイエスの答えは如何。光栄と報酬を求むる心より神は仕える雇い人根性を弟子たちの心から粉砕し尽くす計画をもって、ある時イエスは厳格な喩えを語られた。『あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。かえって「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事の済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみなしてしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。』〈ルカ17・7〜10 〉と。

 事実神はその民に対してかくの如き取り扱いはされないのである。神は人を奴隷と呼ばず、子と称せられる。神はおびただしき報賞をもって彼らの貧弱な奉仕に報い、その愛に応ぜられるのである。しかも人間の方からはこの喩えの如き態度を取らねばならないのである。彼らは神の奴隷である。尊き価値をもって買われたものであって、その慈愛は彼らをつなぐのである。彼らは到底償却すべからざる負債を有する者で、彼らが喜んでこれを認識し、これを心に留めて、その最大極度の努力をしてもなお無益の奴隷に過ぎない。かくしてその千倍の努力をしてもなお負債者たるものである。

12 「主の答弁」

 イエスはペテロの『私たちには何がいただけるでしょうか。』との質問に対してかく答えられたのであった。しかし、その弟子たちの驚き惑うによりて受けられる苦痛を自ら戒められるためでもあった。イエスは『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』とのその使徒たちの抗議にも喜ぶことが出来なかった。他の人々には知らずイエスにはこれが愚かな自負と思われたのである。何物をイエスのために捨てたか。土地にあらず、金銭にあらず、ただ生活の苦労と貧苦と、湖辺の廬と、その網、その小舟、その漁夫の職であった。世間から見ては弟子の捨てたものは決して多いものではなかった。しかしそれは彼らの財産全部であって、イエスは彼らの犠牲としたところを軽しとはせられなかった。

 イエスは大いなる憐憫と温情とをもって答えを与え、確実な恩寵溢れる教えを授けられた。すなわち彼らは決してその報賞を失わない。彼らはその捨てたところをことごとく報いられるのみならず、これに勝る報賞は与えられるのである。彼らが夢見ている想像を藉りて、その驚くべき御顔に彼らを凝視しつつ『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者は全て、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます』と宣うた。而してこの約束は彼らが待望せる以外の方法を持って豊かに遂げられたのであった。彼らが教会の多数にして神聖な兄弟も交際を結ぶに及んで領土にあらず、黄金にあらず、義と平和と喜びとの聖霊の価高き財産を嗣いだのであった。)

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