2022年7月21日木曜日

富める青年(3)

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10・21)

 心の奥まで見透すイエスの目は彼を見つめた。そして彼を愛した。浅薄ではあったが誠意の青年であったからである。しかも知っているだけは実行して来た人であるからである。されば今一つの課題を出してこれに及第すれば十二使徒の中に加えんとされたものらしい。この課題は所有の財産をことごとく売ってしまえと言うのであった。

 間違ってはいけない。これは私有財産の否定でもなければ、共産主義の提唱でもない。パウロはこの課題をよく了解し、かつ立派な答案を差し出した。ピリピ書3章8節に『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています』と言ったのはすなわちこの答案である。イエスはこの青年にパウロを見出さんと欲し給うたのであるが、彼の財産は遂に彼を『悲しみながら』去らしめた。惜しい青年である。

祈祷
主イエスよ、あなたあh浅薄な私たちにも『見つめ、いつくしんで』下さることを感謝申し上げます。ただ願わくは、私があなたのために一切を献げることを惜しんで、あなたの前を『悲しみながら立ち去る』者にならないようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著202頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。依然として、クレッツマンの『聖書の黙想』の続きである。

 イエスはこの若者に律法の求めているところを思い起こさせた。それは彼がすでに十分、心得ているところであり、また、自分ではその通り行っていると思っていたことだったが、彼の返答はこの律法を本当の意味でわかっていなかったのだということを暴露してしまった。彼はこれを年少の頃から、すべて守り続けて来たと自ら主張したのである。

 愛と憐みの情をこめて、主はその若者を見やった。主はこの若者を導いて、律法の正しい知識と救いの道に至らせたいと、どんなにか願われたことだろう。試みは簡単なものだった。若者は果たして、自分の持ち物全部を棄てて貧しい者に分け与え、自分の十字架を負って、主に従うほどに、主を愛し、隣人を愛しているだろうか。この時は、若者がこの世でも、また来るべき世でも、永遠の幸福を約束してくれる決断をくだすためには何という高貴だったことだろう!

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の8 なぜ、わたしを尊いと言うか に続き9 戒めを守れ  で次のように述べる。

 イエスはこの議論を青年に提出しておいて、直ちにその質問に答え給うた。『もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい』〈マタイ19・17〉と。これ漠然たる命令である。当時おびただしき戒めがあってモオゼの戒めの他ラビの律法よりして付加された多くの掟があった。イエスの意味はこれらの戒めか。あるいは他に新たな自ら制定された戒めであろうか。『どの戒めですか』と彼は重ねて問うた。

 イエスは人口に膾炙した十戒中第二に属し、神を礼拝せんがためにあらずして、人として人に対する義務を口ずさまれた。曰く『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではあんらない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』と。この答弁に求道者は痛くも失望した。これ彼が心の平和を得んがために忠実にまた努めて守った戒めで、律法の上の義を求むるによって、その霊性には何の慰安も与えられざるが故に、さらに進んで道を示されんことを望みつつイエスに来たのであった。しかるに、彼の希望は空しきに帰した! 彼が多大の望みをかけた教師はこの古い益なき道を示された。悲しくまた悄然として彼は『そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか』〈マタイ19・18〉と答えた。

10 あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい

 これ決して漫然たる自負心ではなかった。イエスはこの感ずべき抗議を聞かれるや、御心甚だ働いて一歩進みつつラビが弟子の満足すべき答えに喜ぶときの所作をもってこの額に接吻された。イエスの目的は神の要求は厳かにして尽きることなきを示されるにあった。故に一つの試験の終わった後に他のいっそう厳かな戒めを彼に与えられた。すなわち彼の面前に彼が未だかつて思いもかけざる犠牲を示し、まともにこれを彼に擬して『もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』〈マタイ19・21〉と仰せられた。)

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