イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」(マルコ10・18)
この青年の今一つの欠点は善悪観の浅薄なことであった。イエスを『尊い先生』とは呼んだが神の子とは認めていない。十戒のごときは『小さい時から守っております』と自信している。彼の考えている善は心の奥まで探られた善ではない。
イエスはこの浅薄な考えを訂正する必要を認められた。先ず『尊い』の考察を神に基礎づけねばならぬと教えたのである。イエスもし尊いならば神の他何物でもあり得ない。イエスもし神ならずば尊い先生であり得ないのである。
で、この句は二つのことを青年に教えんとしたのである。一、イエスを神と信ぜよ。二、人はことごとく罪人にして自らの善によって永生を嗣ぐことができないことを認めよ。
祈祷
主イエスよ、願わくは、私に真実の知恵をお与え下さい。自分の心を深く掘り下げて反省する者とならせて下さい。願わくは、浅薄な自己より私を御救い下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著201頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。短文だが、昨日に引き続くクレッツマンの『聖書の黙想』である。
善なのはひとり、神のみである。しかし、この若者は自分の前に立っているおかたが、まさに文字通りの「神」であるとは、考えもつかなかったのだ。
一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の7 若き役人 に続き8 なぜ、わたしを尊いと言うか で次のように述べる。
これイエスの常に嘉賞される要求であって、周到な恩寵溢れる答はたちまち与えられるのであった。司は青年で、不安を抱く求道者であって、その二つの資格が主の同情を特に引いた訳であった。しかるにかかわらず彼はその表面には甚だしい冷遇を受けたのであった。イエスはその急きたった質問に対して仮借する所なく反対の語を浴びせられた。至誠と恭敬とを献げてこの青年が奉った称号をイエスは捕らえて『なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。』と反駁せられた。
何故にイエスはこの些細なことに反対されたのであろうか。道徳上不完全なりとの意識から、その属性を否定されるのではないのはもちろんであって、多くの場合これよりもいっそう丁寧な敬語を反対なく受けられたからである。また意味のない敬虔な言葉を厭われるその特質として反対せられたのでもなかった。けだしこの青年は軽々しくこれを用いたのではなかったからである。これ決して便宜的な礼儀の語ではなかった。『先生』あるいは『ラビ』というのは一般の言葉でこれには別に何も被せないで用いられたのであった。この青年がイエスに対してただラビと呼びかけることを不満足として、到底普通の称号を奉るべからざる人物であると思ったのであった。しかし、イエスの反対せられたのは、議論をされる意味であった。すなわちその求道者の胸中を読んで、彼がすでに到達したところを察して、さらに高く導かれるにあった。『汝の言葉を適用すべきところを考えよ。汝は神の属すべき称号を我に与えたり、汝これを知るか」とイエスは問われたのあった。)
0 件のコメント:
コメントを投稿