2022年7月3日日曜日

人をつまずかせるな

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(マルコ9・42)

 驢馬(ろば)に轢(ひ)かす大きな臼である。昔ギリシヤ、ロマ人の間に行なわれた刑罰の一つであって、かつてはヘロデ王の時にガリラヤ湖で行なわれた事もある。人をつまずかせて喜ぶ輩がある。少年に酒を飲ませて酔って苦しむのを見て興ずる人もある。信仰に入ったばかりの人をひやかして喜ぶ人もある。彼らは知らずして悪魔の手先となっているのである。

 罪とも思わぬ小さい事のようであるが、彼らの罪は重い。彼らは臼を頸(くび)にかけられた人のように罪の深みに沈み行く、地獄の底に沈んで行く。

 人の霊魂をおもちゃにする人は非常に危険な所に立っている。自分の霊魂をおもちゃにする人もある。そのような事をする『手』や『足』は切り去っても惜しいものではない。大切な『眼』でも霊魂には代えられない。『えぐり出して』棄てる方がましである。霊魂と来世の現実さをもっと真剣に考えないと意外の失敗に終わる。

祈祷
天の父よ、私たちを『つまずき』より救ってください。また『つまずかせる』罪を犯さぬよう私の手と足を守り、眼と口とをお守りください。人の霊魂と自分の霊魂の厳粛なる事実の前に、恐れ慄く心を持たせてください。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著184頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、昨日のクレッツマンの文章の続きの文章である。話は今朝の引用箇所マルコ9・42にとどまることなく、マルコ9・43〜50にまで敷衍している。

 主が弟子たちに与えられた三番目の教えは最も峻烈なものであった。主はヨハネが邪魔した男のことをまだ考えておられたのだろうか。それともまだ主の腕に安らかに抱かれていたのかも知れない幼子に心を寄せられたのだろうか。主は力をこめ、激越な調子で、弱い者をその通り道に石を置いてつまずかせたり、言葉や自分の実際の姿で迷わせたりすることへの鋭い警告を発せられた。こういう人間にとっては、首に石うすをつけられ、海の深みに沈められた方がはるかによいのだと。弱い者やいたいけな者に注がれるイエスの愛は、なんと驚くべきほどの大きさであろうか。また救いが当てられている一人を傷つける者への主の怒りはなんという烈しさだろうか。

 そしてこのように、おそるべき言葉を連ねて主は、神が賜った肢体、手や足や目を切り離すことを要求されてはいない。そのような不具の体も心の奥の罪をえぐり出しはしないだろう。しかし主は弟子たちに、きびしい自己陶冶と自己否定の実行を期待されている。彼らが地獄の火に投げ入れられないように・・・。そこでは彼らのうじは死ぬことがなく、その火は消えることもないのだ。わたしたちは地の塩ではないのか。それならば罪に自己を支配させるよりも、わたしたちが住んでいるこの世の腐敗を押しとどめる働きをしようではないか。地の塩となること、他の人との平和の中にあること、このことこそクリスチャンにとっての理想ではないだろうか。) 

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