すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9・49)
『ゲヘナの消えぬ』火は恐るべきものである。この劫火(ごうか)を逃れんとするならば、手足を切断するほどの火の如き苦痛をも忍ばなければならない。元来人間というものは『火をもて塩つけられなければダメなものである。』刑罰の火を免れんと欲する者は試練の火を通過せねばならない。
鉄が火の中を通って後に始めて役に立つものとなるように、人も苦痛の火爐で煉られて後に始めて『塩つけられる』のである。換言すれば味のある人間になり、腐敗せぬ人間となるのである。
バプテスマのヨハネも『良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれます』と言った直後に『その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになる』〈マタイ3・11〉と言っている。『火のバプテスマ』とは心の汚れを焼き尽くす聖霊の働きである。
ゲヘナの劫火か、聖霊の浄火か。我らの罪はどちらかに焼かれねばならないのである。
祈祷
主よ、願わくは、私たちをゲヘナの火から免れさせてください。聖霊の火は如何に熱くとも、願わくはこの浄火によって私のすべての汚れを焼き尽くし、純金のようになってあなたの前に立つことができるようにしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著186頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)
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