『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10・14〜15)
明治10年私が八歳の時であったと思う。東京の芝区にあったミス・ヤングマンと言う人の経営になる日曜学校にやられていた。かなりの迫害の中からもカードをもらうのを楽しんで通っていた。信仰などと言うものは何もなかったのであるが、一日ある教師がこの聖句を読んだ時に私の幼い心は大きな感激に打たれた。
私はイエスがどんな人であったか知らない。けれども私のような幼児の味方であり、本当に心から幼児を可愛がって下さるお方であると感じた。私は生まれて八ヶ月にして父を失い母の手一つで育てられた。私の母は特別に私を愛してくれた。が、幼い頃には何か物足らぬ感じがして、よその父ある子供を羨ましいと思ったこともたびたびあった。
この淋しさにイエスの愛が投げ込まれたのであったろう。この時から私はイエスを信じる心が萌して、その年の秋に母と共にバプテスマを受けたように記憶する。だからこの聖句は非常に好きである。自分の体験からイエスの愛は幼児をも救うことを信じる。日曜学校の幼稚科にもイエスの救いは働くものであると信じる。
祈祷
幼児を愛し給う主イエスよ。願わくは、私たちの家庭、私たちの国家における全ての幼児を恵んでください。願わくは、私たちが彼らの祝福と救いのために祈ること働くことを忘れないようにしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著196頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。青木さんの明治10年の記憶が鮮やかに記されている。
それに比べて当方は昭和30年〈1955年〉に小学校を卒業した者だが、多分四、五年生の時だと記憶するが、宣教師が先頭に立ち、「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者はたれも、みな救われん」と歌う、そのあとを私たち子どもが唱和してぞろぞろ歩いた記憶がある。中山道を町の端から端まで歩いた。大書した幟やアコーデオンもキャンデーもあったように記憶する。なぜ子どもたちがぞろぞろあとをついて行ったかと言うと、それは言うまでもなく、キャンデーはじめ様々なものがもらえるからだった。貧しい敗戦下の田舎でこうして物珍しいアメリカ文化の一翼に触れたのは「物質」であった。
しかし、後年、平成3年〈1991年〉ごろ小学校の同級生を彦根のキリスト集会に誘った。その時、その友人はこの時のことを詳しく話してくれた。毛糸屋さんの二階を借りて日曜学校が開かれその友人は熱心に通い始めたが、親に反対されて行かなくなった、と言うことだった。今回君に誘われてベックさんの話を聞いたが、その通りだと思う。しかし、父が満州から命からがら引き揚げてきたのはその時、父が手にした小さな仏像だった。それ以来父はそれを大切にしてきた、その父を裏切ることはできない。自分は福音は素晴らしいと思うし、あの小学時代日曜学校で耳にしたことばは残っている。しかし、自分は信ずることができないので、もうこれ以上勧めてくれるなと言うことだった。
小学校時代に接した福音は私に浸透しなかったように見える。私は日曜学校の存在も知らず、出席しなかったから。ただあの時歌った歌詞メロディーは今も再現できるし、懐かしいし、福音そのものであることを思う。私は無意識であったが、主は私の心の奥に語り続けていてくださったのだ。一方その友人とはその後、ご自宅を訪問し二、三回交わったことがある。その後、認知症を患われていると聞いている。幼い日の福音が彼の心に残っていると思いたい。)
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