2022年7月30日土曜日

「先の者」「あとの者」(上)

『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)

 ペテロは浅はかにも『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』と言って献身の方面はすでに済んでこれからは報酬を受ける一方あるのみだと思った。焉んぞ知らん彼は今やっと『何もかも捨てる』道の第一歩についただけであったのである。イエスはそこに注意を与え給うた。

 ペテロよ一切を捨てたのはよい。必ず報酬がある。けれども油断するな。お前より後の者の中により多く一切万事を献げるものが生ずる時に、お前はかえってあとになるかも知れない。否、報酬を第一として目の前に置いている者は必ずあとになる。左様な心を捨てるのが一切を捨てる心の眼目ではないか。

 だから、ただ『わたしのために、また福音のために』一生懸命になるがよい、と。これがペテロ及び私どもに与え給う主の慈悲深いみことばであると思われる。

祈祷
イエス様、あなたの御愛は実に高く深く、私どもをご自身の姿にまで引き上げんとして下さることを感謝致します。どうかあなたが何をも求めずして十字架について下さったように私をもただあなたを愛するが故に一切を献げたいという心を持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著211頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。  A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に とすでに述べたように、三つに分けて詳述している。その三番目に該当する文章の前半部分を紹介する。

3、先の者があとに、あとの者が先に

 自己犠牲の報酬について述べた後、イエスは、献身的な行為の動機のようなものであっても、すでになされたような行為に見られる自己満足的考えのようなものであっても、恥ずべき思いにふけることから生じる報酬の没収また部分的喪失の危険を示していかれた。イエスはあたかも指を差し上げるようにして、警告的に「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われた。それから、その奥深い意味を説明するために、マタイの福音書だけがその直後に収録しているたとえを話された。

 その説明は、ある点で説明されるべき事柄よりも難しく、多くの異なる解釈がなされてきた。それでも、このたとえが主に意図するところは充分明らかなように思われる。これは、ある人々が考えているように、誰もが永遠の御国において同じ分け前にあずかることを教えようとしているのではない。そういうことは前後の思想のつながりと合わないだけでなく、真実ではない。また、このたとえは、救いは恵みによるのであって行いによるのではないという偉大な福音的真理を明らかにしようとしているのでもない。説教において、その基本的教理を論じるのは大変結構なことだが。そこに述べられている顕著な思想は次のようなものと思われる。つまり、働きの価値を評価するに当たって、すべての人が仕える神である主は、量ばかりでなく質をも、すなわち、その働きを行なった精神〔霊的状態〕をも考慮に入れられる。

 神の国における働きと報酬という重要な主題に関するイエスの教えの全体を概観すると、この見方の正しいことがわかる。そのことから、両者の関係は公正な法則によって定められていて、気まぐれは完全に排除されているように見える。そのため、もし働きにおいて先の者が報酬においてあとであるなら、どんな場合も、それは相当の理由があってのことである。

 福音書には、この主題に関して全部で三つのたとえがあり、それぞれ異なる考えを述べている。そして、特別に今考察中のたとえの私たちの解釈が正しければ、これら三つのたとえが組み合わさって、それらが関係している主題の完全な見方を提示してくれる。それらはタラントのたとえ、ミナのたとえ、そして私たちがいま扱っている「ぶどう園の労務者」〈別の呼び方もある〉のたとえである。

 これら三つのたとえが異なると同時に相互に補足しあっていることを知るために、働きの価値が決定されるべき原則を心に留めておく必要がある。人々の行いを正しく評価するために、三つのことが考慮されなければならない。すなわち、働いた仕事の量、働く者の能力、そして動機、動機のことは差し当たって考慮に入れないことにしよう。そうすると、能力が等しい時は仕事の量が相対的な価値を決定する。能力が異なる時は、価値を決定すべきものは絶対量ではなく、量と能力の関係である。

 ミナのたとえとタラントのたとえの意図は、それぞれこの二つの命題〔能力が等しい時、及び能力が異なる時の価値決定〕を例証することである。ミナのたとえでは、能力においてはすべて平等で、十人のしもべは一ミナずつ受けている。しかし、仕事の量は異なり、あるしもべは一ミナで十ミナをもうけたのに、別のしもべは一ミナで五ミナをもうけただけである。さて、前述の規定によって、第二のしもべは第一のしもべと同じ報酬を受けるわけにはいかない。なぜなら、彼はやれたかもしれないことをやらなかったからである。したがって、このたとえでは、二人のしもべに与えられる報酬においても、彼らの主人のそれぞれに対する話しかけ方においても、差別が設けられている。第一のしもべは十の町を与えられて、それらを治めるようになる。そして次のような賛辞が添えられる。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」

 一方、第二のしもべは五つの町しか与えられず、さらに注目すべきことに称賛の言葉が省かれている。主人は彼にあっさり、「あなたも五つの町を治めなさい」と言うだけである。彼は幾らかのこと、怠け者に比べればかなりのことをした。それで、彼の奉仕は認められ、それに応じて報いられる。しかし、彼は良い忠実なしもべとは言われていない。称賛が差し控えられたのは、それに値しなかったからである。彼は自分にできることを精一杯にやらなかった。第一のしもべの働きを可能性の基準にすれば、彼は可能なことの半分しかしなかったのである。

 タラントのたとえでは状況が違っている。働いた量〔もうけた額〕が異なるのはミナのたとえと同じである。ただしこの場合は、能力もそれぞれの仕事量に比例して異なっている。それで二人のしもべの間のもうけの割合は、それぞれに与えられたタラントの額と同じである。あるしもべは五タラントを受けて五タラントもうける。別のしもべは二タラントを受けて二タラントもうける。前述の規定によるなら、この二人の働きの価値は等しい。そのように、彼らはこのたとえで描写されている。同じ報酬が二人にそれぞれあてがわれ、二人とも全く同じことばで称賛を受ける。どちらの場合も、主人のことばはこうである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 このように働く能力と働いた量の二つの要素を考慮に入れる時、正当な論拠が得られる。また、この二つの要素を一つにすると、熱心の要素となる。しかし、少なくとも神の国においては、熱心以上のものが考慮されなければならない。この世において、人々はしばしばその動機にかかわりなく、勤勉さのゆえに称賛される。世間の喝采を博すためには、熱心であることさえいつも必要とは限らない。ある人が大きなことや気前よく見えることをすると、人々は、それが彼にとって真に素晴らしいことなのかどうかーー自己犠牲を伴う利他的な行為か、それとも、必ずしも真面目さや献身を示すものでない単なる立派な行為かーーを問うことなく、彼をほめそやすであろう。

 しかし、神がご覧になると、多くの大きいものが非常に小さいものであり、多くの小さいものが非常に大きいものである。なぜなら、神は行為の隠れた源泉である心を見通し、その泉によって流れを判断されるからである。そこに熱心がないなら、量は神にとって無に等しい。また、それがあらゆる虚栄心や利己心からきよめられていないならーー正しい動機という純粋な泉でなければーー熱心も神にとって無に等しい。その熱心はあらゆる肉欲の煙が払いのけられた、天来の献身の純粋な炎でなければならない。卑しい動機はすべてを無効にしてしまう。

 この真理を強調すること、すなわち、行いや犠牲と関連して正しい動機と心情の必要性を説くことこそ、ペレヤでイエスが語られたこのたとえの意図にほかならない。それが教えているのは、正しい精神によってなされた少量の仕事は、どれほど熱心に遂行されたとしても間違った精神でなされた大量の仕事よりも価値がある、ということである。駆引きのない人々によってなされた一時間の仕事は、一日中暑さと苦しみに耐えながらも、その行為がひとりよがりとしか見えない人々によってなされた十二時間の仕事より価値がある。

 訓戒的に言うと、このたとえの教えはこうなる。雇い人のように卑しく計算ずくで働くな。また、パリサイ人のように、報酬を当然の権利と考えて尊大に要求する態度で働くな。せいぜい自分は役に立たないしもべであると考えて、謙遜に働け。利己的な打算に動かされない人々のように惜しみなく働け。物惜しみしない偉大な雇い主〔神〕を信頼する人々のように、あらかじめしっかり契約が結ばれているので、それからあなたが自分を守る必要のない方と彼をみなして、誠実に働け。

 この解釈においては、ぶどう園に最初に来た人々の精神と最後に来た人々の精神とは、それぞれ指摘されてきたようなものであったと考えられている。そして、この仮定は、それぞれの仲間の描かれ方によって正当と認められる。最後に来た人々がどんな精神で働いたかは、彼らが何の契約も取り交わさなかったことから推論できよう。最初に来た人々の気質は、その日の終わりに彼らが口にしたことばから明らかである。彼らは、「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」と言った。このことばには、ねたみや嫉妬やうぬぼれが感じられる。そのことばは、この労務者たちがその日の仕事の初めにとった行動と合致している。彼らは決められた報酬額で働くことに同意して、契約を結び、ぶどう園に雇われて来たのである。

 最初に来た人々〔先の者〕と最後に来た人々〔あとの者〕とは、神のしもべであることを告白する者たちの間の二種類の人々を表している。先の者は打算的で、ひとりよがりな人々である。あとの者は謙遜な人々、無私無欲な人々、寛大な人々、誠実な人々である。先の者はヤコブのような人々で、「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」と自分で言えるほどに、コツコツと律儀に働くが、自分の利益に敏感で、その信仰においても自分たちに安全な契約をするように取り計らい、偉大なる主の自由な恵みと開放的な気前の良さに信頼しようとしない。あとの者は、彼らの奉仕の遅いことにおいてではなく、その信仰の広く大きいことにおいてアブラハムのような人々である。アブラハムが行き先を知らずに、ただ神が「わたしが示す地へ行きなさい」と言われたことだけを頼りに、父の家を離れたように、彼らは何の契約もせずにぶどう園に入って行く。

 先の者はシモンのような人々で、正義感が強く、尊敬すべきで、模範的であるが、気難しく、単調で、愛情に欠けている。あとの者は石膏のつぼを持った女のようである。彼女たちは長い間、怠惰に、無目的に、罪にまみれて人生を浪費してきたが、ついに、その無益な過去を悔いて激しい涙にくれながら、真面目に生活を始める。そして、身も心もささげて主なる救い主に仕えることによって、失われた時を取り戻そうと努める。

 さらに、先の者は父の家にとどまっている兄のような人々である。彼らは父の戒めに背くことはないが、そむく者たちに冷淡である。あとの者は放蕩息子のようである。彼らは父の家を出て、自分の財産を奔放な生活に使い果たす。しかし、ついに我に返ると、「立って、父のところに行こう」と決心し、父に会うや「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりのようにしてください」と絶叫するのである。

 このように特色を異にする二種類の人々は、このたとえにおいて、まさに彼らがそうあるべきように取り扱われている。あとの者が先になり、先の者があとになっている。あとの者は、そうすることが主人の喜びであることを示すように、先に支払いを受ける。しかも彼らはかなり歩のいい賃金をもらっている。なぜなら、一時間の仕事に対して十二時間働いた人々と同じ額の賃金を受け取るのであれば、彼らは一日で十二日分の賃金をもらうことになるからである。彼らが受けた扱いは、まさに、父に祝宴をもって迎えられた放蕩息子のようであった。「先の者」は、その奉仕が認められていたにもかかわらず、友だちと楽しむために子山羊一匹もくれなかったと父に不平を言った兄のように扱われている。自分を雇い人の一人にしか値しないと考える人々は、息子として遇せられる。自分を最も価値ある者と考える人々は、雇い人として冷遇される。※実に類稀なるメッセージである、明日は後半の紹介である。)

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