2010年5月7日金曜日

・・・偽善者たちのようにはしない  ウオッチマン・ニー

 最近、「報い」ということを考えます。自分のしていること、思っていることが、本当に主によって嘉(よみ)せられることなのか。たとえば、この「ブログ」は目に見える形で私の死後も残存するでしょう。しかし本当にそうと言えるのでしょうか? なくてならないもの、永遠に残るもののためにこそ、自分の人生を使い果たしたいです。以下の文章はこのところ読んでいます中国人ウオッチマン・ニー兄弟の「このように祈りなさい」という文章の抜粋です。

 主は言われます、「またあなたがたが祈る時、偽善者のようであってはならない。なぜなら、彼らは人に見られるために、会堂の中や街角で立って祈ることを好むからである。まことに、わたしはあなたがたに言う。彼らは自分の報いを十分に得てしまっている」。祈りは、神と交わるためであり、神の栄光を表すためです。しかし、偽善的な人たちは、神に栄光を帰す祈りを用いて、自分の栄光とします。ですから、会堂や街角で立って祈ることを好みます。彼らがこのように行なうのは、わざと人に見られるためです。会堂や街角は公の場所で、人が行き来するところです。彼らの祈りは、神に聞いてもらうためではなく、人に見られるためであり、結局、自分を表したいのです。彼らのこのような祈りは極めて浅はかです。それは神に対する祈りとは言えず、神との交わりとは見なされません。この種の祈りの背後にある動機は、人から栄光を得ようとすることであり、神の御前に少しの蓄えもありません。ですから、神から何も得ることができません。彼らは今日、その報いを受けており、人の称賛を受けています。ですから、将来の王国では、覚えられるものが何もないでしょう。

 それでは、わたしたちは祈る時どうすべきでしょうか? 主は言われます、「あなたは祈る時、自分の密室に入り、戸を閉めて、隠れておられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れて見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださる」。ここの「密室」は比喩です。「会堂と街角」は、公の場所を指し、「密室」は隠れた所を指します。兄弟姉妹よ、あなたは会堂の中に隠れたところを見いだすことができますし、また街角にも隠れた所を見いだすことができます。あなたは人の行き来する所に隠れた所を見いだすことができ、列車の中にも隠れた所を見いだすことができます。隠れた所とは、あなたと神とがひそかな交わりをする場所です。すなわち、あなたが故意に自分を表そうとしない場所です。「自分の密室に入り、戸を閉めて」という意味は、この世を外に締め出し、自分を内側に閉じ込めることです。言い換えれば、あなたは外側のどんな声をも顧みず、ひたすら静まり、一人であなたの神に祈ることです。

 あなたはこのように、「隠れておられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れて見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださる」。これは何という慰めでしょう! 隠れておられる父に祈るのには、あなたの信仰が必要です。あなたは外側では何の感覚もありませんが、あなたは隠れておられる父に祈っていることを信じなければなりません! 神は隠れておられます。神は隠れた所に、人の目には見ることのできない所におられます。しかし、神はそこに実在しておられるのです。神はあなたの祈りを軽んじず、そこであなたを見ておられます。これは、彼がどれほどあなたの祈りに注意しておられるかを告げています。彼はあなたを見て、それで去られるのではありません。彼は必ずあなたに報いられます。兄弟姉妹よ、この言葉をあなたは信じることができるでしょうか? 兄弟姉妹よ、主は報いると言われたなら、必ず報いられます。ここで主は、わたしたちが隠れた所で祈ったことは決してむなしくならないと、保証しておられます。あなたの真実な祈りに、父は必ず報いられます。すなわち、今日は報いがないようであっても、必ずある日報いられます。兄弟姉妹よ、あなたは隠れた所での祈りを、父が隠れて見ておられるのを経験したことがあるでしょうか? あなたは、父が隠れて見ておられ、必ずあなたに報いられることを信じるでしょうか?


(ウオッチマン・ニー全集第二期第22巻「集会の生活・召会の祈りの務め」228頁~230頁より引用。今年も「木香ばら」が咲いた。今が盛りである。)

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