2010年5月11日火曜日

母の日に寄せて(下) クララ


 日々己を捨てて神の国を建設して行く所に人類の貴さと幸福が生ずるのではありませんか。現代の混乱の根がどこにあるかと言えば、婦人達が天職を理解し得ず、苦難から身を引こうとする弱さと、賢く善処する力が足りないのではありますまいか。

 育て易いという扱われ方で育てられて来たお互いは、境遇の浪を乗り切る力も足らず、幸、不幸も運命の祭壇にまかせ、唖の座にいますなら水準を引き上げて行くことは出来ません。さりとて婦人達が男子の先に立つとか、動かすとかいうことがよいのだというのではありません。婦人は何々をしたということよりむしろ、如何に存在したかということに重点がおかれましょう。もし男子の存在が道なき所に道を開く瀑布の水であるとしたら、婦人の存在は花園に置く夜露のような水で、自分の姿を消して他を生かすものでありたいと思います。

 ずっと以前、私が不快で床づいていますと小さな娘が一本のしおれきった花をもって来て「お母様、お花を上げましょう」と枕元のコップに水をさしてくれました。暫くすると花はうなだれた首を静かに上げ始めまして見る見る元気を回復しました。ああ生命の水、目に見えぬこの力こそ、婦人のもつべきものではないかと自らを訓したことでした。

 パウロが婦人達を称賛した言葉は、彼女等が多くの人の保護者であり、また自分の保護者であった、わがために生命を惜しまず苦労をいとわず尽くしてくれたということでした。か弱い婦人達の心づくしが世界的偉人の活動の助けとなり、心のうるおいとなったのであります。もしや私共婦人達の生活の目的が、肉の一生を美化し、楽しんで行くというところに満足を求めているのであったとしたならば、何と失望を多いことでありましょう。私共はブラウニングとともにうたいたいと思います。

 もし人が歓楽のみを追い求め、味って、
 それに生くるように造られたならば、
 生の誇りのいかに貧しきことよ。
 歓楽おわりなば、
 もはや最後あるのみである。
 されば地の平滑を破るところの
 おのおのの惨害を歓迎せよ!
 座せしめず立たしめず進ましめるところの
 おのおのの刺をも。
 努めよ、毀害を軽くかぞえよ。
 学べ、苦痛を意とすな。
 勇め、痛苦をつぶやくな。 

 我々は婦人の水平線を伸ばすのではなく高めて行きたいと願うのです。

 その生活様式が金殿玉楼であろうと九尺二間であろうと、そこを使命の場としてそこから人類へ幸福の種を蒔き散らしましょう。およそ婦人のつとめは有用な人物、世を祝福し得る人物を送り出すことではありますまいか。それゆえに、お互いの胸がよき苗床とならねばなりません。お互いにこの一貫した目的のために苦労を忍んで戦いましょう。有意義な苦労には必ず力が加えられます。

 使命に対して高度な意義を学び、退かず諦めずして進み行きますならば「終わりは初めより善し」と過ぎし日をかえりみて、深い感謝をもつことでしょう。よしや時代思想の急流が親子の考えを通じ難いものとしても、失望する必要はありません。新しき善きものの生まれ出ずることを期待して待ち望むなら、希望は恥を来たらせずです。

 お互いに母としての私共は、世にある日も世を去って後も、子供らの心の胸を飾るカーネーションであり、彼等の道に香りを残すカーネーションの花であり得ますように!

(文章中、パウロ云々と書かれていますが、それは内容からすると「ローマ人の手紙」に二箇所あるのがそれでないかと推察されます。「あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。」<ローマ16:6>「主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。」<同16:12> )

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