2010年5月14日金曜日
天国(上) ハーマン・ゴッケル(柴田千頭男訳)
ひとりの少女が、父親と一緒に、いなか道を歩いていました。夜の空はすっかりすみわたっていました。天空の果てから果てまで、輝く星に照らし出されている華麗な空の景色に、少女は心を奪われてしまいました。しばらく考えてから、少女は急に父親を見上げてこう言いました、「わたし、今、こんなことを考えていたのよ。天の反対側がこんなに美しいのだから、向こう側はどんなにすばらしいかしらって」。
いまだかつて、天の父である神の家の、栄光、荘厳、華麗さは、ことばによっても、筆によっても、うまく表現されたことはありません。使徒ヨハネが黙示録の中で、天の栄光を、高価な宝石、装飾品、得がたい鉱石などを用いて言い表しているのも、かれはそれによって父の家が、こうこつとした美と、比類ない荘厳さをそなえた所であることを示唆しているのです。
天国が美しくないところであるはずがありません。わたしたちの神がおられるところ、王の王たるものの王宮です。そしてその王宮に、神の子が、ご自身を救い主として信じている人たちのために所を備えにおいでになったのです。すばらしいことではありませんか。主のあがないの恵みを信じることによって、かれらはいつか天のかなた、主の家にのぼっていくのです。人間的なことばでは語りえない、精妙で、荘厳な、すばらしい主の家にです。
エルサレム 黄金のみやこ
乳と蜜(みつ)とが 満ちているところ
あなたを思うとき
心も声も いきをのむ
わたしは知らない
ああ わたしは知らない
どんな喜びが
どんな栄光の輝きが
どんなに比類もない祝福が
そこに わたしを 待っているだろう
わたしはたしかに、そこにどんな喜びが待っているのか知りません。しかし神のみことばが真実であると同様、この天の栄光がわたしのものとなることを、わたしは知っています。そしてその確証を、わたしは、わたしの救い主であるイエス・キリストのうちに見つけたのです。聖書全体を通じて、もっとも心あたたまるみことばの一つは、主が裏切られたその夜に、数人の忠実な弟子と、荘厳な集まりをしたときの描写です。主はまさに迫りくる死の影の中で、ご自分にすがる弟子たちを慰め、次のような、忘れることのできないみことばを語っています。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。・・・・わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(新約聖書 ヨハネ14章1~3)
ここには墓のかなたのいのちについての、何かがあります。そして、それがわたしたちの心を、全くおそれと厳粛な喜びで満たしてくれます。言い知れぬ栄光と荘厳さを備えた天についての思いだけでさえ、ときにはわたしたちをおそれさせ、こんな質問をさせます。「天国で気軽になれるだろうか。天の家で、のびのびしていられるのだろうか」。しかし、こんなわたしたちのおそれも不安も、わたしたちが救い主と共になり、天をさして「これが父なる神の家だ」と言うときがきたら、いっさい消え去ってしまうでしょう。この回転をしている宇宙の支配者が、キリストによってわたしの父となったのです。天へ行くことは、楽しい家路、父と子の楽しい再会となったのです。永遠という門の向こう側に、なつかしい父の家がある――この思いの中には、なんという慰め、力、喜びが、わたしのものとされていることでしょう。
また、この夜、救い主は将来のことまで見通しております。そして、主に対する信仰を持つようになる無数の群れのことをお思いになって、これらの人たちにも父なる神の広さが無限であることを告げておくのがよいとお考えになりました。主への信仰をもって父なる神のもとへくる人のために、じゅうぶんに場所が備えてあるのです。主は信者たちにそのように保証なさって、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」と言われているのです(ヨハネ14章2)。
わたしもまたじゅうぶん、自分のために住まいがあると、確信できるのです。愛をもってわたしをあがないの恵みにあずからせてくださったかた、また、天なる主の国に入る日までわたしを守ってくれると約束されたかたが、わたしのために所を備え、とっておいてくれると約束なさったのです。主が永遠の家の中にわたしのために所を要求し、備えていてくださるのです。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」と使徒パウロは言っています(2テモテ1:12)。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:8)
(今日はAさんの枕辺でこの「天国」についての文章を読ませていただいた。長いので三回に分けて掲載させていただく。すでにこのブログや前ブログでも紹介しているように二年越しにAさんと主にあって不思議と友情が保たれている。一昨年の末に不治の病を得たAさんは親友を通して主イエス様の救いを伝えられ信じ受け入れられた。そして今死を常時意識して病に伏しておられる。Aさんの心のうちにおられるイエス様がAさんの苦しみ・悩み・不安・恐れを一手に引き受けていてくださる。ともすると弱音を吐きそうになられるAさんを主イエス様が天の父なる神様のみもとに引き上げてくださることを確信している。)
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