2010年5月17日月曜日
閑話休題
ヴォーリズさんの日本における働きを連載していて、この数週間中断させていただいている。この稀有な人物が滋賀県の近江八幡市にやってきて極めて目覚めた主の証し人としての働きをされたことはこれまでの叙述でもわかる。
しかし、私には疑念があった。なぜこれほどまで大きな働きをなされたヴォーリズさんの信仰は結局、メンソレータムや様々な建築、また学校事業に収斂していって、肝心のイエス・キリストの救いの直截な伝達から離れていってしまったのだろうかという疑問であった。
高校受験のとき、県立高校の合格の自信がなく、「近江兄弟社」の高校入試を受けたのが、物心ついての私が初めてこの団体の名前を知ったときであろう。「兄弟」という名称をふくむ、およそネーミングとしては異質なものをふくむ学園名は私にとってなじめない存在であった。(学校といえば真理の伝授のみと考えていた私にとって「兄弟」という人情的なものが入るのは胡散臭いと考えて嫌だったのだが・・・)その私も10数年後に、キリストの福音に触れ、救われ、兄弟姉妹と言われる人々とのお交わりを今日まで続けるに至っているから、人の考えは当てにならない。
それはともかく、近江兄弟社学園の出身者、またその学園の経営に関わる人々など私の身近にはザッとあげても十指に余る人々を思い浮かべることができる。しかし、そのいずれの方ももはや福音とは縁遠い立場に置かれている人が多い。だとすると、この明治30年代にはるばる米国からやってきた一青年の志とは何だったのだろうかと思わされるからである。
日本には各地にミッションスクールがある。ミッション出身ゆえに「キリスト教」はすでに自分の体の一部だと自任する方も多いのでないだろうか。一方、このことは聖書そのものを読むと、誰もが主イエス・キリストと個人的に出会わなければ、神の子とは決してなりえない事柄であることにも気づかされる。創設者はいずれも神の子としてそれぞれの事業を行なった。その恵みは尽きないと思う。それにもかかわらず、その創設者の意志がそのまま生かされているとは思えない。一体どこに原因があるのだろうか。
最近、ウォッチマン・ニー全集30巻『正常なキリスト者の召会生活』をゆっくり読んでいる。それは私の聖書理解に新しい光を与えるものになっている。そして同時に上述の私の疑問に答えるものの一つであるように思えてならない。そのことに直接触れた個所があるのだが、今日はミッションにかかわりがないところであるが、主の働きを、いかなる働き人も妨げ得ない、またはそれはするべきでないということのウォッチマン・ニーの記述を総論として読みたい。以下、その彼の叙述を引用させていただく。
主のために働くすべての使徒たちは、必ず霊的なことを多く追求して、霊的な真理の上で光がなければなりません。霊的ないのちの経験が豊かで、神に喜ばれる働き人、また諸集会に喜ばれる働き人になるよう、よくよく努めねばなりません。さまざまな事柄で勝利を得たいと思うなら、ただ霊において勝利すべきであって、絶対にあなたの権威を用いてはなりません。もしあなたが霊的であれば、必ず当地の集会の権威の下に服することを学ぶでしょう。
当地の集会があなたを受け入れないなら、通り過ぎて行きなさい。あなたと特別な関係のあるいわゆる「集会」を別に立てることはできません。多くの宗派が成立したのはすべて、地方集会の権威に服そうとしない神のしもべによります。特別な教理を掲げているいわゆる「集会」が起こるのはどうしてでしょうか? それは、ある者たちが地方集会から拒絶されたために、別に新しく一部の人たちを集めて、自分たちのある種の教理を維持しようとしたためです。これが宗派です。
もし真に神の光が与えられて、ある地方に行こうとするなら、神が門を開いてくださるよう求めなければなりません。ある地方集会がわたしたちの真理を受け入れたなら、神に感謝します。もしわたしたちの真理を受け入れず、反対する兄弟がいるなら、ただ神が門を開いてくださるように待つだけです。多くの神のしもべたちは、神が真理を啓示してくださることを信じるのですが、神が真理のために門を開いてくださることを信じません。わたしたちは、神が光を与えてくださることを信じますが、神がかぎを握っておられる方であることを信じようとはしません。
ですから、わたしたちは血肉の力をもって人々を自分たちに従わせようとして、神の子たちの間を破壊するような働きをするのです。あるいは、地方集会以外に別の「集会」を立て、集会の合一を破壊し、神の集会に損害を与えるのです。わたしたちはただ光が与えられることを求めます。そして、神が伝道の門を開いてくださるよう待ち望むのみです。神は光を与えてくださり、また門を開いてくださる神ですが、たとえ環境の中で神が門を開いてくださらなくても、わたしたちはただ神が按配してくださった環境の中で満足するだけであり、神の子たちが分散しないようにします。(If God Himself does not remove the obstacles in our circumstances, then we must quietly remain where we are, and not have recourse to natural means, which will assuredly work havoc in the Church of God.)
以上が同書236頁以下の文章の引用であり、『近江の兄弟』の再開に当たって同書をそのような視点で引続き読んでいきたいと思う点である。基本的には『正常なキリスト者の召会生活』の翻訳文にしたがっているが、文中「集会」は原語ではChurchで翻訳本では「召会」となっている。だから、「教会」と訳せるところであろうが、私は「集会」とあえて置き換えさせていただいた。最後にこれらの文章の根拠になっているみことばを一つ載せさせていただく。
こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(新約聖書 使徒28:30~31)
(写真は古利根川左岸の風景。虞美人草、ポピーが一面に咲き誇っている。どうして主なる神はこんなに豊かな絵の具をあの土に隠しておられるのであろうか)
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