2010年5月1日土曜日

望みの門(下) F.B.マイヤー


 たぶん、ある人々は、これを読むうちに、自らの写真を発見されるであろう。すなわち、自らの生活になぜこうも多くの失敗と敗北があるか、その内的理由を発見されるであろう。八方ふさがりで、道にはいばらのかきが立てられている。御使いたちは狭い道に抜き身の剣をもって立ち、両側には壁があり、一歩も前進できない。苦々しげに、彼らは、「ナオミ」と呼ばれることを断わる。※(1) それは、主が彼らをひどく苦しめられたと思えるからである。彼らが航海しているその船は、彼らがその船に乗って渡航しているので、船員や積荷とともに沈没する運命にある。※(2) ヨシュアのように、彼らは衣服を裂き、主の前にひれ伏し、ちりをかぶる。しかし、ヨシュアに対するごとく、彼らにも主は、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。・・・イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当たることはできないであろう」(ヨシュア7:10~13)と言われる。

 われらの忠実な大祭司

 心のうちに、おごそかなる召集がなされるまでは、アコルの谷から救い出されることは不可能である。すなわち、私たちの内的生活の動機・目的・意向のいっさいが召喚されなければならない。くじは厳粛に引かれなければならない。それは内的生活か外的生活か? もし内的生活なら、それは心か霊か? そして、もし心なら、それは過去か現在か未来か、過去にあったものか前途にあるものか、追憶か希望か? そして、もし、これらのいずれでもなく、現在、何かの悪を心に許しているなら、それは感情にあるか意志にあるか? このように私たちは、次から次へと、失敗の原因と思えるものをふるい分け、ついに私たちは聖霊に導かれて、いわば、「ユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカン」が、いっさいの敗北と不幸の原因であることを発見する。そして、ひとたび彼が指摘されたなら、私たちは決して彼にあわれみを示してはならない。私たちが自ら救われるために、私たちの敗北と失敗の原因は滅ぼされなければならない。もし私たちがいのちにはいることさえできるなら、結局、かたわになることも高すぎる代価ではない。

 そして、もし私たちが、私たちの敗北と損失の原因であったアカンをば強力に処理するには柔弱すぎるなら、私たちのあわれみある忠実な大祭司のもとに行こう。彼はその手にたましいと霊の分かれ目さえも刺し通す鋭利な両刃の剣を持ちたもう。※(3) 私たちは自分でなし得ない、または自分であえてしようとしないことを、彼が私たちのためにしてくださるよう懇願しよう。彼は私たちが苦境にある時、私たちを見捨てられない。彼は事情に応じて、やさしく、また、徹底的に仕事をされる。そして、アコルの谷で仕事が終わった時、私たちに「望みの門」が開かれる。

 勝利への道

 この記事を書いている時に、私の手もとに届いた一つの手紙のうちからここに引用させてもらうことにしよう。――「去る6月、クリスチャンではないひとりの青年との婚約を継続することについて、先生のご意見をうかがいました。そして、その時、私はあまりにも自らの力に頼っていたと思いますが、きっぱりと断念することを心に堅く決しました。ですが、しばらく前に、私が弱きをおぼえている時に、その問題が再燃いたしました。その時以来、私の生活は敗北と失敗以外のものでなくなりました。ですが、数週間前のアカンについての説教は私がどんなにまちがっていたかを明らかにしました。そして、激しい苦闘の後、神の御力によって、私の生涯のいっさいを神の御手にお渡ししました。この婚約は私にとって、みこころでないということを確信して、私はいま非常にしあわせです。ああ、もし人々が、神さまが彼らを通して生きられるように自らを明け渡すなら、もっと彼らはしあわせであり得ましょうに!」 この場合、アコルの谷に「望みの門」が開かれたのである。

 なんとしばしば、私たちの大敵は、もし私たちが不屈の精神をもって敢行するなら、必ず味わわなければならない苦痛を示すことによって、ある必要な自己否定の行為を私たちにさせまいと試みることだろう。しかし、彼は、もし私たちが、あえて、神の御霊の励ましに従うなら、いかに多くの祝福が私たちの生活に傾注されるかを告げることができないし、また告げたくないのである。ただ私たちは、もし、あえてアカンを石で撃ち殺そうとするなら、どのアコルの谷にも、望みの門があることを信じようではないか。そして、この谷に、アカンが横たわる石塚が築かれる時、私たちは連綿と続く勝利の道に上っていくことができる。神が真実であるごとく、たしかに、どのような悩みのうちにも、そこから確実で栄光ある勝利にはいる道がある。ただ私たちが悩みのうちにあって、アカンに対する神のみこころを行いさえするならば。

 かの望みの門から私たちがどのような祝福の道を行くか、そのすべてを語る時間がない。そのいくつかを数えてみよう。
 「彼女は歌をうたうであろう」(15英訳)。心から失せていた喜びが帰ってくるであろう。「あなたはわたしを『わが夫』と呼ぶ」(16)。神を知る、より深い知識ができるから、神は「主人」よりもむしろ「夫」と呼ばれる。「わたしは契約を結ぶ」(18)。すべて造られたものとの祝福された調和が実現するであろう。「わたしは答える」(21)。祈祷に新しい力ができる、そして、祈りの答は、めいめいの足跡に続き、すみやかなる応答が与えられるであろう。

 こうして私たちは、悩みから祝福に、墓から生命に、鉄の門を通って自由にはいるであろう。そして、最後に、私たちが、多くの人々にとっては、まこと、アコルの谷である死の陰の谷を歩むとき、そこでも、突然、望みの門が開かれるのを見いだすであろう。その門を通って、私たちは光まばゆい御父の宮殿に、また、太陽の没することなき地にはいるであろう。

(引用者註:※(1)民数22:21以下 ルツ記1:20他 (2)使徒27章、ヨナ書 (3)ヘブル4:12)

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