2010年5月23日日曜日
集会が起こされた日
二十年前の今日は水曜日だった。この日、私の家で初めて福音が語られる集会が行われた。その数日前、妻から家庭集会にドイツ人の宣教師が来てくださることになった、と聞かされた時、私は猛反対した。しかし幾ら反対でも昼間に行われる家庭集会は亭主である私の権限外という気もあったので、予定通り行なうことを不承々々認めざるを得なかった。
当日仕事を終えて帰宅した私を待ち構えるようにして、家内が集会の様子を報告した。心を頑強に閉ざしていた私は、ほとんど内容は覚えていないが、集った人々の人数を聞かされて、びっくりした。家内に「何人の方が来られた、と思う?」と問われるまま、私が口に出したのは二十人内外の数字であったが、百名近い人が来たと報告したからである。信じられなかった。これはとんでもないことが起こった、と内心舌を巻かざるを得なかった。
その後、毎週のように水曜日に集会が行われることになり、今日まで続いている。(さすがに二十年後の今は拙宅では月二回に変わり、拙宅以外にも二軒の家庭で別の時間・週に持たれているが・・・)当時は集会のたびに場所を確保する必要上私の机や本棚、ステレオセットなどは全部庭に出された。長い間、集会に非協力的であった私に婦人方は大変神経を使って、運び出しては元通りに戻されたと聞く。また不思議とその年は水曜日雨が降らなかったそうである。
家庭集会はメッセンジャーによるみことばの解き明かし、また、その後の交わりが中心である。家がどうあろうと、人々が隙間を求めて座を占め、無礼講である。裃つけず、男女や年齢差やその他一切の人間関係を度外視してイエス様を中心とした交わりを続ける。
ベック宣教師ご夫妻は今年で日本に来られて56年になるが、イギリスではオースチン・スパークス兄弟と親交を持たれ、また中国ではウオッチマン・ニー兄弟の同労者と交わられ来日されたと聞く。宣教師自ら自分を特別視されるところが少しもなく、ただひたすら人々に仕えられる。私たちの良き模範である。
先ごろ国会図書館で『正しい告白』(ウオッチマン・ニー著)を読んだが、そこに聖句と次の文章があった。
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(新約聖書 コロサイ3:9~11)
この世の差別をみな教会の中に持ち込むならば、兄弟姉妹間の関係は決して調整され得ず、教会は神の前に確立できないのを発見することでしょう。(同書52頁)ひとたび私たちがクリスチャンになると私たちはそういったすべての区別を除外します。だれ一人その個人的な地位とか立場とかをキリストや教会――一人の新しい人の中に持ち込むことはしません。そうすることは古い人を持ち込むことになるのです。古い人に属するものは何一つ教会の中に運び込んではなりません(同書53頁)
二十年経って、ようやくこのウオッチマン・ニー兄弟の文章を体験的に知るようになった。このように家庭集会から始まった集会は、さらに九月からは近くの幼稚園の施設をお借りして礼拝を持つように導かれた。二十年目の今日は日曜日であった。礼拝で開かれ読み上げられたみことばはそれぞれ次の箇所であった。 ヨハネ6:35、48、51 ローマ6:6~9、11 2コリント5:14~15 マタイ6:30~34 使徒2:1~4 黙示5:1、7~12 イザヤ59:16、20~21 イザヤ58:10~12 エペソ5:20 みことばの朗読、祈り、賛美が繰り返され、中ほどで十字架の主を覚えて主イエス様を信ずる者がまわされてくるパン裂きとぶどうジュースに預かり、捧げ物をする。この間一切プログラムはなく仕切る人もいない。各自がひたすら御霊なる神様に従う自主的な礼拝の形だ。
そのあと、福音集会が行われ、今日の場合は、遠く新百合ヶ丘からお見えになった一人の兄弟を通してみことばの勧めがなされた。箇所はマルコ9:33~50であった。ひとつひとつわが身に照らし合わせて思い当たることばかりで悔い改めさせられた。それだけでなく、集会誕生二十一年目をスタートするのにふさわしいみことばが備えられた思いがした。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(新約聖書 マルコ9:50)
二十年前全く無であった地に、主は奇跡とも思える集会を起こされた。その集会が集会内においても世に対してもはっきりとした地の塩であり続けることが主イエス様のご命令だと聞くことができた。感謝である。最後に二十年前に示されたみことばを書き上げておく。
わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。(旧約聖書 出エジプト6:6~7)
(絵はF.ホフマンによる出エジプトの紅海渡りのシーンである。『聖書物語』から転写)
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