2016年4月30日土曜日

主は右の座に着かれている

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(ゼカリヤ6・13)

 キリストにあって堅くされる心はまたキリストのために堅くされるのです。その心は主の王座となり、もはや主の敵によって支配されることなく、ゆるがされることも安定を欠くこともありません。その時、私たちは 「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて」という約束が美しくもかけがえのないものであることを知るのです。それは支配するだけでなく、油注がれることです。治められるだけでなく、聖めをなさるのです。このようにして王座は恵みのうちに、しかも義によって樹立されるのです。

 私たちは時々悪魔と交渉することによって地歩を失うと思います。私たちには簒奪者と交渉する事柄はありません。私たちが主イエス様に身をおゆだねしたので王座はもはや主のものです。だから、なぜ私たちは一瞬でもまるでまだ保留にしている疑問があるかのように悪魔と議論する余地があるのでしょうか。

 耳を傾けないでいなさい。ただ悪魔にイエス・キリストは紛糾された王座に着かれ、もはや決着がついていると言いなさい。そしてただちにあなたの王に向きを変え、あなたを支配する主の統治権がどれほど栄光にあふれる守り手であるかを主張しなさい。それこそすばらしい現実であり、あなたはその現実をその通り知ることでしょう。主は放棄されないし、あなたが王無きまま、防御無きままに置き去りにされることはありません。なぜなら「主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(イザヤ33・22)からです。

主に目をとめよ
主はとこしえに生き
ご自身の民のためにとりなす

求めよ、恵みを勝ち取れ

祭司である主は
王座から恵みを自由に与え
汝の力を天からの露の如く
御霊でよみがえらせ
新しくされる

2016年4月29日金曜日

神との完全な平和をいただいた心

わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。(イザヤ58・1)

 主は私たちに単に告げられるのではない。それよりももっと多くのことがある。それは隠されたものの覆いを引き離す見えざる手であるだけでなく、また私たちが望むなら見ることができるようにそれらを指し示すようにもたらされる光であるだけでない。それよりもさらに個人的でさらに恐るべきものだ。だが、さらに情け深いものだ。

 彼は私たちがしたことを語られる。もし私たちが耳を傾けるなら、その語られることは極めて明快で、また徹底的で、誤りのないものである。ところが、初めは私たちは全然聞こうとしたがらない。非常に歓迎されないことを私たちに語る静かな小さな声にしりごみするのだ。ある人が「私がそれについて考えるときはいつでも、私はたいへん恐ろしく悪く感ずるので、もうそれ以上考えたくない」と述べたように感ずる人が多い。

 ああ、「おまえも、もし、この日のうちに、知っていたのなら」(ルカ19・42)それは単にそのことについて考えることだけでなく、あなたに「平和の」ための道を明確にしたいと話し始める救い主の声だ。どんな祝福も忍耐と聞く意欲があってはじめてもたらされるものだ。

 おお、その声に耳をふさぐな。あなたに気分を滅入らせようと励む不愉快な考えにすぎないと想像するな。そうではなく、主に主の声がもっと大きく、もっとはっきり鳴り響くように求めよ、そして「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2・4)ことを信じよ。

平和、平和
汝に対する主のみことば

平和

汝の情熱
休むことなき誇り
汝の終ることなき切望
与えられることなきこれらすべて 
汝の弱さと罪ですり切れにされし
心のための平和

安息を約束せし方は
その必要を知っておられる
その贈り物は無代価

2016年4月28日木曜日

キリストのかぐわしい香り


その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。(レビ1・4)
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。(イザヤ26・3)

 結局、人々の手はかぐわしい香りのためにささげられたもので満たされていたのです。私たちのために苦しまれ死なれたキリストに信仰の手を置いてのち、ささげることは、そのまさしく同じ信仰の手を全く同じ方法で、私たちのために犠牲となられた主の上に置くことであります。そしてそれが、ささげものの源泉であり、いのちであり、力となるのであります。

 そして、その時、私たちの手はささげもので満たされ、キリストに満たされ、キリストにある神へのかぐわしき香りであるすべてのもので満たされるのです。

平安、平安
ああ、主への平安は近し
王冠は勝利者の頭に冠らされ
汝の戦いは今なされしゆえ
汝のために永遠の平和実現せり
主によりてその上に汝の罪置かれたり
汝なぜ恐るるか

平安、平安
全能の御霊によって労されし
汝のもっとも深き悲しみ
もっとも痛き戦い

死ぬべきいのちは生かされし
その名は汝、愛されし者

キリスト御自らの遺産
悪魔の妨害・挑戦何するものぞ
それは今や汝のもの

2016年4月27日水曜日

神の御力のための通りよき管


私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12・9)

 大きな生まれながらの賜物があると、人々は恵みの代わりにそれらの賜物を信用するものです。実は恵みだけがほんとうの働きをなして来たのですが、このようにして神様はご自分の栄光をだまし取られるのです。うやうやしく言わせていただければ、神様は弱い器に栄光をより多く与えることのできるお方です。その時には、力の卓越性は神からであって私たちからではないということはもっと明らかでありますゆえに。

 あなたはほんとうは信じていないのではないですか。聖霊は雄弁な一時間にわたる説教と同じく、まさしくもし一つのことばで「来なさい」とささやかれるなら、イエス様のもとに一人の魂を引き出すことができるのです。私は信じています。

 そうは言っても、こういう私たちのものである知性を通して働かれるのが神様の方法であることが明確であるように、主のご用のためにふさわしいものならどんなものでもわざと無視し心をくだかないような心を主が用いてくださるように要求する権利がないのは当然であり、それは、もし私が美しい献辞をわざわざぬぐって直したくないのに、あなたに私のペンで書くように要求することと同じです。

おお、時々不思議なことに
私は忘れてしまいます
何度も何度も学んでいますのに
私は以前学んだのです
涙を流さんばかりの試練を
主は私を叱責されないで待っていてくださいます
それから私の涙で一杯になった目を拭ってくださいます
おお、私たちの神様は何という教師でしょうか
あまりにも忍耐強くお賢いのです
もしも他の人たちが悲しくも私に
厳しくも新しい試練を与えるなら
私には絶えずわかります
彼らを助けることもまた私を訓練するものだったのです
それとも私は随分前にそのことを学んでのではなかったでしょうか
私の骨折りは無駄だったのでしょうか
もしそうなら
涙あふれる眼はより明白にされた試練を知ることができるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-27-a-channel-for-gods-power/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97282です。

 4章 ただあなたのために(16)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 ついに6月3日の火曜日の早朝、解放がやってきた。臨終前の数分ハヴァガルは歌うことができた。「きっぱりと、たとえぼんやりであっても」「イエス様、私はあなたを信頼しています」彼女の"Hermas"の旋律にあわせた歌詞であった。
 そしてそれから、姉のマライア・ハヴァガルの書いたものを引用すると最後はこうであった。「10分間、私たちは彼女が王なるイエス様とほとんど目に見える形で会っているのを見ていた。彼女の面立ちはまるですでに主イエス様と話ししているかのように喜びに満ちていた。彼女は一生懸命歌おうとした。しかし一声の甘くも高い調子で「主は・・・」と発したきり、その声は落ちていった。兄が彼女の霊を贖い主の御手にゆだねたとき、彼女は召されて行った。私たちの大事な妹は、王なるお方の宮殿へと召され、満ち足り、栄誉を着せられたのだ。」
 「素敵な歌い手」の亡骸はアストレーに運ばれ、愛する父君のそばに葬られた。墓のまわりには薔薇の花々や詩人の冠となる月桂樹が多くの献花とともに人目を引いていた。その日は物暗く風の激しい日であったが、ちょうど葬儀が終わる頃、たくさんの弔問客の心は6月の日の光が射込み、小鳥たちが一斉にさえずり和まされた。
 父によって植えられた樅の木の枝ふりのもと家族の墓の北側に碑がある。
      フランシス リドレー ハヴァガル
    牧師 W.H.ハヴァガルとその妻ジェーンの末娘
 1836年 12月14日 Astley Rectory で誕生す
 1879年  6月 3日 Caswell Bay, Swansea で死す
      享年 42歳
 彼女の詩と聖書の間に挟まれていた聖句「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル11・2「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」1ヨハネ1・7 長らくご愛読ありがとうございました。今日でこのJennie Chappellによるハヴァガル伝のシリーズは終りです。彼女はなおその他スポルジョン夫人など三人の女性の伝記を書いています。興味のある方はそちらの方もお読みください。) 

2016年4月26日火曜日

私は赦すことはできても忘れることができない

まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5・24)

 誰かがあなたに反対するものを何か持っているかも知れません。それは昔の言い争いや肉的な誤解によるのかもしれません。そして、あなたは余りにも自信満々なので自分の欠点やあなたの悪い点があることを知ることができないのです。それとも、あなたは余りにも臆病であったり、余りにもなまくらなので、仲直りできないかなのです。

 双方に欠点がある時、欠点を持つほとんどの人はかなりの場合、赦す用意が全然ないのです。 さあ、その場合を考えて見ましょう。あなたはほんとうにすべての人を愛しており寛容な心を持っているでしょうか。

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」ということばで言い逃れをしようとすることは無駄です。なぜならキリスト御自身がそれらを説明しさらに強調されたのです。キリストは言われました。「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 このことを避けるものは何もありません。もしあなたが赦さないのなら、あなたには絶対的な赦しがありません。というのは神様以外に誰が罪を赦すことができますか。だから「私は赦します、でも忘れることができないのです」と言うのは意味がありません。あなたは心のうちにあることを良く知っているでしょう。あなたが言うまさしくその語調はあなたがほんとうは赦していないことを示しているのです。神様はあなたの「忘れることができない」という心の底にある事柄をご存知なのです。

 激しく向きを変えないで、「けれどもできないものはできないのです」と言いなさい。なぜなら人に不可能なことは神にとって可能だからです。

私たちの父よ、私たちが背いたことをお赦しください 
あなたの愛を傷つけ、あなたの御旨から離れましたことを 
今からはあなたの赦しの平安のうちに生かせてください 
あなたのみ赦しをとおして私たちも赦せますように
あなたの愛する御子は私たちに祈ることを教えて下さいました 
あなたの恵みの富は道を開いてくださいました
その上、あなたご自身が力ですから 

 4章 ただあなたのために(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 26日にハヴァガルはMorning Starsの校正を正すために最終的に筆を執った。まだ彼女には痛みはなかった。医者でさえ危険を予知していなかった。致命的な悪寒に続く第8日目まで痛ましい症状はあらわれなかった。それから、「熱と内蔵の炎症が突然起こり、全身に腹膜炎の苦痛症状があらわれた」
 その時以降、痛みの緩和はほとんどなく、「すべての治療は失敗した」
 彼女の兄姉たちが呼ばれ、急いでやって来た。兄姉たちはベッドのまわりで歌い、続く日々の期間耐えられるようにハヴァガルと一緒に祈った。ハヴァガルは彼らに、そしてまわりにいるすべての者にその親切心を心から感謝した。しかし彼女の変わることのない願いは王とお会いする引き上げられる喜びであった。それこそ彼女が全人生で求めて来たものであり、ついに引き寄せられることが間近であったからである。
 「美しい! あまりにも素晴らしく本当とは思えない!」と彼女は言った。それは医者の一人が彼女にもうまもなく召されるであろうと話した時であった。さらに小さな声で言うのが聞かれた「何とすばらしいところに私は行こうとしてるのか」最後の時間、何度も何度もそう言った。) 

2016年4月25日月曜日

行動は大声でわめくものだ

あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。(ローマ6・13)

 短気な怒りっぽい心の行動は時々、舌は制御できても手にあらわれるものです。まさしく私たちが戸をバタンと閉めたり、本を下に降ろしたりする所作そのものが勝利か敗北かであることでしょう。すなわちキリストの守りのうちにあるのか、それとも全く守りのうちにないのかの証拠となるものです。もし、私たちがこのように不義の器を罪にゆだねるなら、どのようにして神様は私たちの手足を義の器として用いることができるでしょうか。
 
 ですから、ただちに主にその権利をおゆだねし、ほんのわずかでもサタンの思うつぼにはまって神聖さを汚したことを悲しみ、もうこれからは主に信頼して「主のご用のために」信仰を通して神の御力によって守っていただきましょう。なぜならキリストのやさしさが私たちのうちに住むのなら、主は指先のほんのわずかのタッチをお用いになることができるからです。

 わがままな肩にほんのわずか触れられたことが人生の転機となったことを聞いたことがありませんか。それは小指がほんのわずか触れるだけで強情な心に触れる手段となったのですが、主の場合はさらにそれよりわずかのことをなさったのを私は聞いたことがあります。

ほんのわずかの一瞥と行動
そうです、でも私たちはほとんど何も知らないのです
小人のような「ほんのわずかなもの」がそれぞれ
どのように巨人の力と成長するかを
大規模ななだれはほんの一吹きによってくずれ 
ほんのわずかの体温低下が突然の死を負わせられるのです
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-25-actions-speak-loud/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97280です。

4章 ただあなたのために(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 ハヴァガルの74年、75年の重病以来ずっと、彼女の健康は、もともと頑健ではなかったが、かつてよりもはるかに微妙な状態になった。そして「熱攻撃」とも名づけられ、主に衰弱から生じたものとみなされることが絶えず襲った。もっとも配慮されねばならないことは彼女が風邪を引く危険にさらされないようにということだった。ところが、この特別な行事において、もっとも不幸な場所がその集まりに選ばれた。その日は雨ともやの立ちこめる日だった。長時間、湿った空気の中に立ち続け、ハヴァガル嬢は「雨に濡れて冷やされて」戻って来た。
 翌日気分が悪かったが、戸内に留まらねばならないほどは悪くなかった。しかし翌々日寒気が増して来たので、医者に診てもらった。5月24日彼女はベッドに寝かせられた。しかし、誰もこの気分が悪い病状が引き続いておこる同種の多くの病気よりそれほど重病であるものだとは思いもしなかった。) 

2016年4月24日日曜日

弱い時こそ強い


気をつけなさい。・・・あなたが食べて満ち足り、・・・あなたの所有物がみな増し加わり、 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(申命記8・11〜14)

 不思議な助けをいただく時は危険な時だ。ニレからつたを外すな。直ちに倒れる。もし主が私たちにもっとも忙しい仕事にもかかわらず、もっとも喜ばしい成功を与えられる時、自分自身には自らを助けるどんな力もないということを知り、神に感謝せよ。そうするなら、主の継続的な助けを妨げるものは何もなくなるだろう。
 「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121・2)と心から言っている限り、主の助けは来る。「あなたは私の助け」(詩篇40・17)と言っているかぎり主は私たちの助け、まさしく今ある助けを与えられる。それに対して私たちは自分には力があると感じているというただそれだけの理由で、私たちは全能の助け手から期待するような小さな助けを得られないだろう。

 ペテロは上手な泳ぎ手だったが、「主よ、泳ぐのを助けてください」とは言わなかった。彼は言った。「主よ。助けてください。」(マタイ14・30)と。だから主の助けは直ちになされ、完全であった。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12・9)

愛する主よ、私は弱い者です
私は立つこともできません 
あなたなしには一瞬でも 
けれども、
あなたのつつんでくださるやさしさ 
あなたのささえてくださる誠実さ 
そして
あなたの右手の強さ
それだけで私には十分です 

4章 ただあなたのために(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより 
  禁酒の働きはフランシス・リドレー・ハヴァガルの語りと書き物がもっとも心の暖かさを持っていることを証拠立てるものだった。彼女は徐々にキリスト者の働き人の間における全面的な禁酒の絶対的必要性を認識していったように見える。1871年にスイスを訪ねた時、彼女は数人の親しいイタリヤ人とトーストを食べる際にお互いに「赤ワイン」を飲んだことを記録しているが、そのイタリヤ人たちはある日彼女と仲間たちと一緒に同じ場所で食事をしたのだが、その時のことであろうか。死後まもなく完成することになる、『主の御用のために、私の唇をとりあげてください』という章は次の一連の言葉で結ばれている。
 「私はここで言うだけです。これまでも言って来ましたが、『私の唇をとりあげてください』とそして紳士淑女の手足を縛り、その手足を絶望的にサタンに手渡すその唇にその祈りを繰り返します。もう一度あなたの心からあなたの唇を通してこれらの祈りをしましょう。そうすれば、私はあなたがこのような地獄のしわざの手段にやられることを愉快に感じているとは思わないでしょう」
 まことにハヴァガル嬢の心を生涯の最後の数週の間にも捕えていたのはまさしく禁酒の働きであった。そして直接致命的な病をもたらす健康に関しては軽率な誘因となったのは実にこの特別な理由を持つ彼女の情熱だった。〈訳者注 なおこのくだりも文章が入り組んでいて、訳がむつかしく、果たしてこのとおりか自信がないが一応意訳として記しておく。〉) 

2016年4月23日土曜日

神の託宣


求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16・24)

 私たちはたくさん求めていいのになぜ少ししか求めないのでしょうか。私たちがイエス様に対して一言話したいまた書きたいと思っているまさに次の時(もちろん今日でもさしつかえないのですが)には主に言うべき一般的な考えだけでなく文字どおりことごとく純真な言葉をお話しましょう。「これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。」(箴言22・18)

 なぜなら主は「あなたはむずかしい注文をする」(2列王紀2・10)とは言われないからです。たとえあの預言者の外套を求めるよりもはるかに多くのことを求めようとも。主は言われます。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」(エレミヤ1・9)これはエレミヤだけに向けてではありませんでした。なぜならすぐあとで私たちは読むことができます。「わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。」(エレミヤ23・28)(なぜなら私たちは態度において責任を大目に見てはいけないからであります)そしてそれから、弱い人間の唇から語られたとしても、偉大な力の宣言が続くのです。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――」(エレミヤ23・29)

 「見よ、わたしは、あなたの口にあるわたしのことばを火とし」(エレミヤ5・14)もし私たちが自分自身のこととして何かを考えるのに十分でないとするなら、どれだけ、何かを語ることがはるかに少なくなることでしょうか。「私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」(民数記22・38)

 私たちはそのように口を用いたいものです。力の卓越さは神からくるもので、私たちからではありません。私たちの主は天に昇られる時おっしゃいました。「わたしにはいっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、・・・見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・18〜20)これだけで十分です。だから私は主のことばを信頼します。

主はあなたとともにおられます
あなたの奉仕の中に
「確かに」主はあなたとともに 
聖霊の力に満ちあふれて 
必要とする時間に
ご自身のメッセージをあなたに与えられます

主はあなたとともにおられます
あなたの霊とともに
あなたの唇とともに
あなたの筆とともに
全き備えを持ち 
心くずおれた会衆の中で
もはや一人にされることはありません

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-23-oracles-of-god/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97278です。

4章 ただあなたのために(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスの連行詩「Take my silver and my gold〈私の銀、私の金を取ってください?〉について話せば、彼女はこう言っていた。「主が特別な保護をもって私にからだを託していてくださるので、風邪を引いたり、主のゆえにその信用を傷つけることがないように主の銀と金をもってその体をまとう必要があります。・・・もし王様の娘が「内に最高の栄誉」ある方であるなら、外に向かっても醜くあってはいけないのです。私は一人の婦人としても、一人のキリスト者としてもふさわしく服装を整えねばなりません。経費の問題を私はもっとも強く考え、神様の働きのために節約されるべきものを衣装に費やそうとは思いませんでした」〈この後者の考えは確かにお金のことはもちろんのこと時間にも当てはめられている〉彼女はさらにつけ加えて言う「目立たない服装だが、心地よい身だしなみをもってすればどんな注意にもさらされないのです。・・・私はいつもすべてのことに導きを求めています。」
 彼女の宝石はハヴァガル嬢が随分前から宣教団体の利益を考えて売却するように諦められていた。例外は実用のための一二のブローチと彼女がお金を出して「取り戻した」今は亡き友の様々な小さな記念品であった。しかし、彼女があるスイス旅行から戻る時一人の友人のために贈り物として「〈水晶と紫水晶〉というみことばそのものが天の都から射し出ずる光線のようである」ことに注目して「水晶と紫水晶」のロケットを持ち帰った事実は彼女が宝石を身につけることは本質的に罪深いものだとは考えていなかったことを表している。) 

2016年4月22日金曜日

あなたに対する最上の愛を

私は、あなたを慕います。(詩篇18・1)

 主イエス様、私はあなたを慕います。なぜなら、あなたは私をこれまでずっと愛してくださり、今も愛してくださり、死に至るまで愛してくださるからです。どれだけ私は愛するあなたに助けられたことでしょうか。あなたは私を四六時中待っていてくださり、私があなたのことを大切にしなかった時も忍耐強く待っていてくださいました。

 おお、私を赦してください。私はあなたをつねに愛します。あなたは私の愛を受け、ご自身に結びつけてくださり、ご自身のために守って下さいます。おお、主イエス様、私はあなたを愛します。私はサタンに耳を貸しません。彼は私があなたを愛さないように試みています。私はあなたを愛するかしないかどうか戸惑い始めないようにいかなることも自問自答しません。

 あなたは私があなたを慕っていることをご存知です。だから祝福される主イエス様、私があなたを愛し、私があなたに信頼しもっともっとあなたを愛し、いつも愛したいと言っていることをお聞きください。あなたはもうすでにお聞きくださったでしょう。だから私はたいそう嬉しいです。

 私はもう決して戻りたくありません。あなたは私をもとに戻されないでしょう。私をあなたの愛で一杯満たしてください。私がなすすべてのことにあなたの愛があふれ、あなたを愛するゆえにすべての人を愛することができますように。そうです。私はあなたを愛します。幸いなる主イエス様。 

イエス様、主よ、
私はただあなたに贖われた者です
あなたの血潮によって、
おお、染みのない小羊が私のために進んで血を流された
私の心はあなたのものです
あなただけに向かって生きるようにしてください

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-22-more-love-to-thee/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97277です。

4章 ただあなたのために(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 ペンと針仕事はしばしば同じ手によって同等に用いられることはない。ある人はそのためむしろフランシス・ハヴァガルが熟練した裁縫師であることを知ってびっくりした。彼女の仕事は「重要視しないかがりものからもっとも繊細なレース細工や刺繍にいたるまで非常にすぐれていた」彼女は実際に告白したものだ。「私は忙しくしているお母さん方をお訪ねする時、靴下が積み重ねられていると全部繕いたくなるのです。また宣教団の働きの中で簡単な縫い物を順繰りに見るのが楽しみでした」
 しかし、私たちがかつて才能ある婦人の注目すべきことを聞かされていたとおり、「もし一人の婦人の頭が良いなら、良くない人よりももっと良いどんなことでもできるはずだ」そしてこの多方面にわたる女性の才能はこのことを裏付けるようである。
 刺繍やレース細工に触れることはこの女伝道者の完全な献身にもかかわらず、身につける装身具がキリスト者にとっていかに差し支えないものかを暗示している。) 

2016年4月21日木曜日

主に対して

最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25・40)
最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。(マタイ25・45)

 私たちの主イエス・キリストは私たちに私たちが主を愛しているか否かを示す機会をお与えになりました。主は私たちが貧しい人、餓えている人、病気の人または孤独な異邦人らにしていることは、ちょうど私たちが主に対してしていることと同じだと言われます。そして王が「わたしの父に祝福された人たち」(マタイ25・34)と言われる時、主はこれらの小さい事柄を覚えておられ、「わたしにしたのです。」と言われます。

 けれども主は私たちが何もしないのなら、ちょうど主がそこにおられるのに何もしなかったことだと同じだと言われます。そして言われるのです。「わたしにしなかったのです。」と。

 こういう二つのことばのどちらかが主が来られる日にあなたがたに語られるのです。私には、このことを話されたのは主イエス様の大変な親切心から出たものと思われます。というのは、主はご自身を愛する者が主に対して何かをしたいという思いを知っておられたからです。主の栄光が満ちあふれる天において栄光の王のために私たちに何ができるでしょうか。

 私たちに主は世話をするために貧しい人々をお与えになります。もし私たちが病気の年老いた婦人や飢えに瀕している子どもに親切にしてさえいたなら、「わたしにしたのです。」と言われるのは、すばらしい主の思いやりでした。

主が様々な方法で与えられる働きは大切だ 
ほとんど十分ではないが、毎日何かしらある 
それは遠くの人に対するペンであったり
近くの人に対する手助けや声をかけることであったりする
たとえそれがなだめることであろうと、教えることであろうと
また助けることであろうと、元気づけることであろうとも 

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-21-unto-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97276です。

4章 ただあなたのために(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 〈再開します 。前号は4月5日に掲載しています。〉

 一部そのような圧倒的な要望に遭遇して回覧が印刷された。そこには文通相手の個別の疑問や数々の質問により認められる繰り返しなされる問に対して数多くの答えがなされた。しかし、その助け舟にも関わらず、一日のうちの多くの余裕ある時間は不可避的にどんな一般的な主題をもってしても満足しない個々人に答えるために費やされた。もちろん霊的な助言を求める訴えはつねに個人的にそしてくわしく答えられた。
 ハヴァガル嬢の驚異的に活発な筆が完成した聖書注解やまた日記風の書き物の総量はままことに驚くべきものである。彼女の生涯の最後の年になった始まりにあたって、一人の友は彼女に一冊の小さなJournal of Mercies〈恩寵日記?を贈った。彼女は毎日自分の心に最高だと思われるどんな「恵み」が浮かんで来ても喜んだ。彼女の特徴的なコメントは「たとえ千に一度でなくとも」であった。) 

2016年4月20日水曜日

私たちの至高の救い主

黒御門付近の内堀(彦根城)

主は私たちの王、この方が私たちを救われる。

 救いの思想は絶えず王たる身分と関連があるものです。型、実例、そして預言が結びつきます。「あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。」(1サムエル9・16)「わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う。」(2サムエル3・18)「王は敵の手から、われわれを救い出してくださった。」(2サムエル19・9)「彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。」(エレミヤ23・6)「あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり」(ゼカリヤ9・9)

 なぜならイエスは私たちの救い主で、イエスは私たちの王である権威をお持ちなのです。けれどもまたイエスは王であられるゆえに、私たちの救い主としての適格性をお持ちなのであります。そして、私たちはイエスを王として完全に受け入れなければ、決してイエスを救い主として知ったことにはならないのです。イエスの王たる身分はイエスの祭司職に力を与えます。イエスの救いの力はメルキゼデクの位に等しい王、祭司としてのものです。

 このようにして、イエスは救い主、偉大なお方、救うに力あるお方です。私たちの王は救いのために労し、救いをもたらし、その結果その救いを知らしめられるだけでなく、イエスご自身が私たちの救いであります。まさしくそれぞれの名前が交互に用いられるようであります。

 イザヤは言います。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。』」(イザヤ62・11)ゼカリヤは喜んで告げます。「あなたの王があなたのところに来られる。」(ゼカリヤ9・9)またイザヤは言います。「万軍の主である王を、この目で見た」(イザヤ6・5)そして老シメオンも繰り返します。「私の目があなたの御救いを見た」(ルカ2・30)彼は幼子イエスの上に異邦人を照らす光を見、再びダビデのことば「主は私の光、私の救い」(詩篇27・1)思い起こさせるのです。
 

ほめたたえるにふさわしい方
それはかつてほふられた小羊
携挙された喜びの叫びが
あらゆる国民の中から
主に贖われた者をとおしてあがる 
無数の天使が旋律に加わり
罪なき弦を鳴り響かせ
王の王に対する栄光を
金のハープをもって奏でる
決して語り尽くし得ない讃美

2016年4月19日火曜日

約束された約束

侘助の 花弁土染め 城の春 (彦根城内)

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。(詩篇91篇15節)
それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。(1ヨハネ2章25節)
 
 祈りは約束に基づいておらねばならぬ。けれども、主に感謝せよ。主の約束はつねに私たちの祈りよりはるかに広い。ここには転倒されるピラミッドを建てあげる恐れはない。なぜなら、イエス・キリストが土台であるからである。あれこれの「神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。」(2コリント1・20)

 そのようにそれぞれの願いををかなえ、「維持」され「確立」される心のために私たちの祈りに答えることは神の栄光となる。そしてその実現は主の栄光を私たちにも関わらずでなく、「私たちによって」なしとげられるのだ。 「誘惑を受け、試みを受けられた!」

あなたの側にひとりのお方がおられる
それで主の子どもたちは無駄に信頼することは決してない
主が助け守られる。なぜなら主は極みまで愛してくださるから。
崇拝する主、そして栄光の友であるお方
「誘惑を受け、試みられた!」
死なれた救い主はあなたをご自身の脇に
苦しみ支配するように召された
主の十字架をあなたは担い
主の冠をあなたはかぶり
とこしえにとこしえに主の栄光の分け前にあずかる

2016年4月18日月曜日

無力な者の助け

眼下に琵琶湖(彦根城本丸から西方を望む)2016.4.10

私は生まれたときから、あなたにいだかれています。(詩篇71:6)

 神様がそもそも私たちを助けてくださるとは驚くべきことではないでしょうか。神様が何百回となく、与えてくださった類い稀な助けに驚かなかったでしょうか。もしそうだとしたら、それは感謝することを知らない大変な盲人ぶりをあなたが発揮していると言っていいでしょう。なぜなら、主は私たちが無力な赤ちゃんであったときから、ずっと助けてくださったからです。「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。」

 私たちは主の助けがどれほどあったかを忘れてしまったり、全く注意していないのです。非常に微細な事柄、顕微鏡的な助けは、すべてのうちでももっとも驚異的に思われます。なぜなら、一瞬のちっぽけな必要にも身をかがめられたのはエホバご自身であることを知っているからです。

 そしてまさに私たちの目には大変驚異的に映るからなのですが、さらに多くの事柄が主のみわざであることは明らかであります。 なぜ私たちは混乱や悩みの深みに陥れられることを恐れねばならないでしょうか。その時、私たちが大変不思議に助けられたことに驚いている者であるように、島(Ile)※が主の名前にとって真実であり、私たちの助けとなるのを知っている時です。

至上なるお方、恵み深い主よ
あなたはあなたのものを自由に選び給うた 
あなたは力ある声でもって召してくださった
あなたは救い主、堕落から守ってくださる方
あなたのものは栄光あるもの、それはあなたお一人のもの
しかし、あなたの手は天にて冠を
あらゆる恩寵、それはあなたの愛が与えてくださったもの
受けるに値しない私たちに
栄光あり、恵みある主からの報いだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-18-help-of-the-helpless/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97273です。※Ile とは何と不明な用語でしょうか、時にあるミスプリのような気がします。やむを得ず、上掲のように訳しました。相変わらず難解です。お慰みに彦根城から眼下を見下ろした風景を載せました。写真をクリックしてくだされば拡大し、竹生島も画面右に確かめることができます。この時狭い城内で城を案内したフランス人と離ればなれになってしまいました。) 

2016年4月17日日曜日

Pleased to Please

王のしたことはすべて、民を満足させた。(2サムエル3:36)

  ダビデの愛の証拠は、長い間彼の敵であった者を、親愛の情をもって受け入れたことにある。さらにアブネルの墓で彼らともに泣き、人々に対する心の優しい、同情心に富む者であったことを証明している。「民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。」これは民が王を愛したからだった。民はダビデを見つめたが、それはあの意地悪なパリサイ人が主イエス様を敵対するために何かを見つけようとして見つめたのではなく、賞賛と愛をもって見つめていた。ダビデの言行のやさしさ、また親切さに注目したのだ。

  あなたはこのようにあなたの王である主イエスがなされることに関心を持っているか。あなたは主がすでに行われ、今もみわざをなしておられることを聞いたり読んだりすることに喜びを感じているか。もし主イエスが本当に王であるならそうに違いない。けれども「したことすべて」となると少し、より厳しく感ぜられるかも知れないが、もし一旦そのことが本当に学ばれるなら万事は容易になる。なぜなら、もし私たちが私たちの王であるイエスがなされることをどんなことでも喜ぶことを学ぶなら、私たちにとってどんなことも悪くはなり得ないからだ。

  今日、主にあなたが主がなされるどんなことでも、主はかつてそうすることを喜ばれたのだから、今また終日喜ぶことができるように、主に対して愛と忠誠を尽くさせていただけるように求めよう。思うに、主は私たちを大層愛しておられる。そのため、主はいつもできる限り信頼できるのに応える同じ幸せをくださる。そして主がそのことは主の民を害さないようにご覧になっているどんな時でも主の民である子どもにとって喜ぶべきことをなさる。そうして、主が最初はそれほど喜ばしいとは思えないことをなさる時、私たちが依然として愛する王に信頼し、主の恵みによって主がなさるどんなことでも喜ぶことを学べますように。

私たちのまだ完成していない物語はすべてここに向かっている
神に最高の栄光があるように、そして私たちの上に最高の祝福があるように。
もし万事が目的をめざして大変大きく祝福のうちに相働くなら
それぞれが最善であるかどうかと考える必要がどこにあろうか。

2016年4月16日土曜日

主に鍵を渡しなさい

だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって(黙示3:20)

  すべてはイエスが、ご自身の家、そう、まことにご自身の持ち物である、そのような家として、入られるかどうかにかかっている。もし、私たちが鍵を渡さない部屋がいくらかでもあるなら、例えば、少し心のゆとりを持ちたいので、窓から眺めてもらって、鍵を絶対に渡したくない小さな居間とか、また今はまだ追い出したくない下宿人がいるとか、さらに開けて整頓する決心がつかない暗い衣装棚があるとかいうなら、もちろん王であるイエスは完全に所有しておられないことになる。

  それは全部というわけではではないだろうが、実際は全ては主イエスのものである。そして、まさしくその不安が主イエスがもう一度平和裡に来られなかったことを証明している。主イエスが贖いによってご自分のものとされたのに、私たちの側で何らかの保留があることが隠された争論となっている限り、完全な平和を期待するのは無駄である。

  ただ全部の戸を開けよ。そうすれば、栄光の王であるイエスは入って来られ、もはや他のお客を切望しなくなるであろう。主イエスはこの家を栄光で満たされ、暗闇に放置されている所はなくなるだろう。

私たちに明らかになったことは
まさしく鍵そのものであることは疑い得ない
それはイエスが空虚という空虚をことごとく満たし
ありとあらゆる必要に答えられ
主イエスの前で私たちの心の秘密が露わにされるからだ。
だから人生のあらゆる不可解なことは全部、
ただ主とともに明らかにされる。

2016年4月15日金曜日

Making Another's Day Brighter

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2)
謙遜の限りを尽くし、主に仕え(使徒20:19)

  おそらく、あなたはこれまでまわりにいる人々の重荷について考えたことがなかったでしょう。それなら、もし、あなたがこのキリストの律法を全うしたいと思うなら、先ず第一にすべきことは、重荷を持っている人を探し出し、あなたが代わりに担える重荷はどれかを考えることです。あなたはいつまでも眺めていてはいけません。重荷のない人はほとんどいません。

  そして、もし、一瞬でも担いだ重荷がかなり厳しいように思われ、また、荷を降ろしたくなったら、あなたのために主イエス様が耐えられたことを考えなさい。主があなたのためにすべての中で最も重い重荷をどのようにして担われたかを考えることです。その時、主は、主ご自身は、私たちの罪を木の上でご自身のからだで耐えられたのです。主はその重荷を降ろさず、逆に十字架で死ぬまで耐えられたのです。そのことを思いなさい。そうすれば、主のために何かを耐えることは容易になるでしょう。

  さあ、終日他の人々のために耐えられる重荷がないか油断せず見張っていなさい。どれだけたくさんのものをあなたは見つけ、つまみ上げ、運び出すことができるかを知ってください。きっと、あなたはそのことが他の人々のために、さらに輝ける日にするだけでなく、あなた自身にもまたそうなることでしょう。

ですから、私たちの生活のモットーは
永遠という大きな自由に進むまで
主の御顔を見ながら、「主に仕え」まつるのです
とこしえに、とこしえに、「思いのたけ、主にお仕えするのです」

2016年4月14日木曜日

主とお会いする約束をせよ

シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。(雅歌3:11)

  おそらく私たちは「出かけて見よ」という命令よりも、「あなたの目は、麗しい王を見る」(イザヤ33:17)という約束を握って過ごしてきたことであろう。私たちは、「イエスにお目にかかりたいのですが。」(ヨハネ12:21)と言うだけでは満足しないはずだ。

  もし、私たちの目がぼやけすぎているなら、「私の目を開いてください」(詩篇119:18)と祈ろう。もし、私たちの心に覆いがかかっているなら、主の方に、御霊の方に向きを変えよう。そうすれば、覆いは取り除かれる。もし、私たちが主にお会いするのにあまりにも遠く離れて立っているなら、叫び声をあげ「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。」(雅歌1:4)と決心しよう。もし、私たちが家の中にまだ座っているのなら、急いで立ち上がってイエスに会いに行こう。これは不可能なまた架空の命令ではない。イエスを遠く見ている目が、今や主を間近に見るのだ。

  でも、私たちは何を見るのだろうか。見えるものは、美と栄光と戴冠のすべてだ。悲しみと損なわれた容貌は過去のもの。私たちが主を神の小羊として見るときでさえ、今では王座の真ん中におられる小羊だ。信仰によって私たちの王、イエスを見つめているシオンの娘よ、あなたは何を見ているのか。

  おお、何たる数々の答えである美しい調べよ。「イエスのことは見ています。栄光と誉れの冠をお受けになりました。」(ヘブル2:9)「あなたは人の子らにまさって麗しい。」(詩篇45:2)「麗しく、栄光に輝き」(イザヤ4:2)「それは、なんと麗しいことよ」(ゼカリヤ9:17)「その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい」(雅歌5:15)「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示1:16)「あの方のすべてがいとしい」(雅歌5:16)

あなたの目は見ている。すばやい一瞥を投げるのでなく
記憶を輝かす一つの光線をも拾い集める
しかも、喜びが永遠に続く間だ
あなたの目は見ている。
あなたの目は王を見ている。
まさしく同じもの
王の愛は呪われた木の上に輝いている
王はあなたの罪に耐え、あなたの名前を呼ばれる。
あなたの目は見ている。

2016年4月13日水曜日

主とともに歩む一歩一歩

主は聖徒たちの足を守られます。(1サムエル2:9)

    きわめてありふれた考えだからと言って、微笑んでいるだけではいけない。もし、私たちの足が自分のものでないなら、持ち主である主のために気を配るべきではないか。少なくとも私たちの奉仕が足によって妨げられる恐れがあるとき、前もってか、後知恵によってか、守られたかも知れないのに、「足が濡れること」を気にかけないのは、全く正しいか。

    この種の小さな事柄において、主の働きのための熱意があっても、不注意によって不安な友達を当惑させるのは主を喜ばせるのだろうか。私たちが一足、一足ごとに、愛する主の歩みにもっともっと似るようになれるように。歩むたびにいつも主を思い、主であったら、されたであろう使い走りをし、主の「すぐ後について行こう」。

    そして、私たちの足が天なるエルサレムの門にたどり着く時を待ち望もう。その時、聖なる足は聖な都の街路を踏み行く。もはやいかなる意味でもひとりぼっちの道を歩いているのではない。主は「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」(黙示3:4)と仰った。

主の子どもたちの道を照らす輝き
その輝きによって、迷うことを望まない歩みは指図を受け
完成の日に向かって絶えず導かれるのだ。

2016年4月12日火曜日

A Look That Transforms


見よ。あなたがたの神を。(イザヤ40:9)
さあ、この人です。(ヨハネ19:5)

    すべて他のものから、目を離し、十字架に釘づけられたお方をじっと見て、「わたしのところに来なさい」と今もおっしゃっていることを思い出しなさい。深い悲しみからも、栄光の高みからもそのどちらからもこの素晴らしい招きがあなたにかけられているとは。あなたがたは誰もかれもそこを通りすぎるだけで何とも思わないのですか。

    この招きは、十字架に釘づけられたイエスだけでなく、支配者イエス、再臨されるイエスからのものです。「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」(ヘブル12:25)。なぜなら、主は生きている者と死んだ者をさばかれるために来られるのです。主は今統治しておられるのです。だから、主の王国にあっては中立は許されません。

    すべての人は進んで王のしもべとなるか、それとも実際に反抗者であるかのどちらかです。すなわち、王の呼びかけにしたがって来る人々か、「気にもかけず」(マタイ22:5)来ない人々であるか、そのどちらかです。あなたはいったいどちらですか。

見よ。あなたがたの王を。
あなたがたにとっては何でもないのか。
王の額から苦悩のしるしとして、
ゲッセマネの身震いする影を通して、
血が露のように落ちねばならなかったのに。
イエスご自身、いのちの君が、
不思議な死闘の中で
膝をかがめられている。
おお、主の悲しみを思え。
知られざる苦しみのうちにある、
知られざる愛を
私たちが知ることができるように。

2016年4月10日日曜日

何一つ忘れるな

  主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・2)

「主の良くしてくださったこと」とは、すべての良いものを意味しています。主はあなたのためになさってきました。そして、あらゆる良いものを主はあなたに与えられたのです

  今日一日の「主の良くしてくださったこと」を数え上げてみなさい。そしてそれから昨日の良くしてくださったこと、さらには先週の、いやこの一年全部、あげくの果ては自らの全生涯を。

  そうすれば、あなたは数えることができることにはるかにまさって多くのことがあるのにすぐ気づくでしょう。そして、どれだけたくさんあなたはそのことのために主に感謝しなければならないかを知り始めることでしょう。

  そして、それから、主がはるかに良くしてくださったこと、すなわち、あなたの救い主、贖い主となるためにイエス・キリストご自身という大きな贈り物を思い起こしてみなさい。主を通して救いの偉大な贈り物が、さらに恵みと栄光の約束が与えられていることを思い起こしなさい。

  ダビデはたくさんの主の優しい恵みについて語っています。イザヤも「主のよくしてくださったことをたくさん」語っています。これらはいずれも真実でかつ美しいことばではありませんか。それらを感謝の歌に変えて、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。・・・あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」(詩篇103・2、4)言おうではありませんか。

父の魂は主を喜ばれることでしょう
子の心は神の最も聖いおそれにあってまことに賢い 
感謝と讃美をもって祝祭の喜びがあがめられる
主のよくしてくださったことを忘れるな
主のあわれみは私たちの世代の冠だ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-10/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97265です。)

2016年4月9日土曜日

主は根気強く耳を傾けられる

さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。(マルコ6・30)

  使徒たちは、出て行ったあと、「イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」あなたは優しく親切に主が何でもたいそう注意深く熱心に弟子たちから話を聞いておられる姿を想像することができますか。しかもその内容たるや、失敗も成功も全部、喜んだこと、悲しい思いをしたことも一々主に話したのです。

  また弟子たちが主の足元に座り、そのお顔を見上げ、自分たちがしたことに主がどんなに関心をもって聞いておられるかを見たり、愛する主が何も出し惜しみせず、このように主と話す楽しい時間を持ってくださるおかげで、自分たちの愛がますます暖かくなり、輝いたものになっていくかを経験したなんて想像できますか。

  もし、彼らがこのようなとき二言三言冷たい言葉で主にちょっと話しかけるが、あとは何にも話さないとしたら、どれほど違うことでしょうか。今日あなたも試してごらんなさい。主に話すことはどんなに助けとまた励ましとなることでしょう。まもなく、イエス様に何でも話すことに大いに喜びを感ずることでしょう。

私は権能ある王なる方のもとに来て交わりをいただき、
主に自分の心のすべてを話した。
私は滅ぶべき人間の耳に、たとえどんなに友好的であったとしても、
打ち明けられない。
けれども、あなたはご存知で、確かにしまわれ、おとなしく持って来られる
あなたの心のうちにあるすべてを。だからあなたは聞かれるのだ。
主の声は愛に満ち、力強い。
主の答えはやさしく、きよい。

2016年4月8日金曜日

従順によるか、強制によるか

陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ18・4)

    まさに陶器師である主に気に入ったようにしていただきましょう。主はそうおっしゃっているのです。ところが、あなたは実際には主に「おまかせ」しないで主の判断を妨害したり、助けを妨害してきた恐れがあるのではないでしょうか。「けれども、そう言ったってどんな違いがあり得るんでしょうか。主は私が好もうと好まなかろうともちろん主がお望みになることを行われるのだから」こんなふうに言ってはいけません。その言い方は正確じゃないからです。

    もしも患者が外科医が最善と考えていることに完全にまかせるなら、そのこととこのみことばの例とは違いはないのではありませんか。力づくの処置や不本意に服従させられてなされる治療は、指示されることや助言されることに反抗することをとおして、気をもませたり、また興奮によって反対に作用するかもしれません。

    主の治療は、私たちが反抗する時、公正な働きはなされません。全能の主といえどもあらわれる信仰を待ち望んでおられます。もし、陶器師の手でこわされた「粘土でつくられた器」が、陶器師の技量ある手に逆らったら、どのようにして陶器師が気に入るようにつくろうとしている別の陶器のようにもう一度つくりあげることができたでしょうか。

    従順な粘土は陶器師の再生されるにまかせ、もっといい永久的な形に成形されます。けれども私たちは「まかせない」で、ただそれだけで妨害するのです。しかし、あなたはほんとうにそうするのですか。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64・8)とあるからです。

    私たちの陶器師であるお方の不思議な成型品であろうと、父なる神様の不思議なみわざによるものであろうとも(このことは、抽象的なことでも、また可能性のある、未来のことでなく、現実的なこと、現在のこと、また差し迫ったことして私は述べているつもりなのですが)万物にふさわしい一つの優しいこの声を紹介しましょう。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11・26)

ーっ、静かに!父なる神様がご自分の意志で
愛されるすべての神の子どもに分配されるのです。
もう、それらはないですか。
主のご意志は最も賢明ではないでしょうか。
主のご選択は最善ではないでしょうか。
だから、完全な黙諾のうちに、完全な平安があるのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-8-by-submission-or-by-force/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97263です。)

2016年4月7日木曜日

とこしえなる安全

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(1コリント1・8)

 あなたの生活は絶えず依存し、強くされ、祝福されるものの一つでありましょう。あなたは主が約束されたように、今日も、また毎日、主の特別な民であるように保証されています。そしてあなたは神ご自身に向けて聖なる民として固く守られています。あなたもまた主があなたの神であり、主の道を歩くことを自認する者であります。今日だけでなく、なぜなら、私たちは主によって「とこしえまでもあなたの民として立てられ」(2サムエル7・24)ているからです。

 「とこしえまでもあなたの民」「私は神がなさることはどんなことも知っており、それはとこしえになるのです」そのようにこのことをなされたのだから、永遠であるに違いありません。敵があなたの完全なまた永遠の贖いを疑わせようとする時、このことば「とこしえまでもあなたの民」を浴びせなさい。

 敵があなたが罪から分離していることを悔いさせたり干渉しようと試みる時も「とこしえまでもあなたの民」と。また敵があなたの終りにいたるまで固く守られていることを揺り動かそうとしている時も「とこしえまでもあなたの民」と。なぜなら「主は真実」(2テサロニケ3・3)な方だからです。「どうか、神、主よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことを、とこしえまでも守り、あなたの約束どおりに行なってください。」(2サムエル7・25)

わがいのちを
あなたに明け渡します
私は私自身のものとは思いたくありません 
おお、救い主よ、とこしえに私をあなたのもの、
あなただけのものとしてください
わが心、わがいのち、わがすべてを
あなたに明け渡します
わが救い主、わが王よ

2016年4月6日水曜日

神に信頼する

王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(2サムエル15・25〜26)

 私たちはここにダビデ王が、息子によって王宮から追われ、キデロン川を涙のうちに徒渉し、ダビデに背くように助言を与えた地上で最も賢い指導者の手にかかり、疲れ果て弱くされて荒野の道を下っていくのを見ます。イスラエルの人々の心は裏切り者の後についていき、今や神ご自身の臨在の目に見えるしるしをも失ったのです。

 私には私たちのどれだけの人がどのようにしてこれと全く同じような道に連れて行かれるのかわかりません。けれどもダビデは言ったのです。「どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」しかしそれはほんのわずかの間でした。そのような絶望的な状態にあるダビデを絶対的に信頼しておられた主はダビデがほとんど失っていたように思えたすべてのものを元通りにして、再び繁栄を与え称賛される王の高みにまで引き上げられたのです。

私たちは贖いの宝を数え、神様の愛の栄光
じっと見つめることができるだろうか
そのようなものが上から来る主の祝福の無限の尺度である
私たちが求めたり考えたりするもののすべて、
またそれ以上に、主は豊富な貯えを手渡される
主は満たし満足させることができるお方だ 
神様はあなたの必要をすべて供給される

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-6-confidence-in-god/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97261です。

The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappell の訳連載はしばらく中断させていただきます。) 

2016年4月5日火曜日

強められる心

北の丸公園 田安門の桜※

恵みによって心を強めるのは良いことです。(ヘブル13・9)

 しかし、私たちの中には恵みによって心を強める望みを持つことは良くないことであるかのように言い続ける人もいます。私たちは次のように友に不誠実に接したと言われるなら恥をかくはずです。私たちは再三彼を裏切ってしまった。私たちは何度も何度も、ほんとうに本気でなかったことを言ってしまった。私たちはずーっと実行する計画を何ら持っていなかったのにそのことを明言し約束してしまった。 

 私たちはこの恥ずかしめを静かに受け入れるより、あるいは私たちが恥ずかしめられたのちに再び友と顔を合わせるよりも、むしろ次の船でニュージランド行きの船で出港する用意をするはずなのです。

 しかし、それに比して私たちは(私たちのある者は)いつも主に対して不誠実であると言われても恥じとはしないのです。いやいや、それ以上でさえあるのです。私たちはどれほど私たちの心が気まぐれで信用ならぬものであり絶望的に醜いものであると認めながら、そう言うことがまるで一種の美徳であるかのように名状しがたい自己満足でうまく切り抜けてしまうからです。

 そして私たちは実際に自分が謙遜だと証明できると思っているたやすい告白を鼻にかけるのです。「私は作り話をした」とか「私は約束を破ってしまった」と言わねばならないなら、他の人の目からも自分の目からも、その半分さえ自らを低くしない告白をするのです。いやいや、もっとそれ以上であります。私たちはもっとも根拠の薄い望みも、それゆえに完全に異なる事態を目標にする最も小さな強さも持ってはいないのです。

 もし、私たちがさらに一歩先まで踏み込んで、強められる心を持つことを求め、主が「正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(詩篇84・11)と約束し言われたことを信ずる人々を、手に負えない不誠実な名前で呼ばないなら、私たちにとって良いことです。主はそのようにこの良いことを拒まれないでしょう。

心からの者よ。 愛する栄光ある救い主、
あなたの偉大な力を取り、あなたお一人で支配してください
私たちの意欲や勝利ある愛情にまさり
自由に明け渡され、完全にあなたのものとされた

姉妹たちよ、愛する姉妹たちよ、その呼び声が鳴りとどろく
あなたはソフトな旋律でこだまされないで
力と甘美で喜びを豊かに備えて
「真実な心の持主、心からの者」と再度鐘が鳴り渡る

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-5-an-established-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97260です。今日の箇所はすこぶるむつかしく誤訳が多数ある。意味のつかめない文章になっている。読者の力でなおしていただきたいところだ。

4章 ただあなたのために(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
  もちろん、かなり幅広い人気のある作者はたくさんの人から関連があろうがなかろうが能う限りのあらゆる主題について、特に作家志望の人から、たくさんの手紙を受け取った。彼らは自分たちの作品を読んで批評してもらうように頼んだのだが、そのために費やされる時間と労力については少しの配慮もない、ずうずうしいものもあった。
 次に掲げるものは彼女のもとに届いた多種多様なリクエストの見本である。
「アイルランド教会支援者への寄付金要請。特別新年礼拝にあった賛美歌。会葬者のためにふさわしいカードを書くこと。6つ以上の〈Marching Orders〉のセット。6枚の絵をあしらった詩のリクエスト。二つのシートが交差する祈りと弔意と助言。70代の人からきた思想を求める二枚のシート。ユニテリアンにふさわしい本を書いてもらう要請。彼女の詩句を別の作者の名前を用いて印刷してしまった人からの様々な照会と謝罪。四つの解説的な封入物を持つ作品の再発行の要請。校正を改訂し自分の意見をつけくわえること。たくさんの音楽原稿の改訂。バザーのためにカードを手当てする三つの要請。雑誌の中に挿入する記事の確保の仕方をもとめる助言。生徒たちに推賞すること。新しい雑誌を促進すること。オラトリオに意見をすること。改訂するための原稿にいくつかの長編の詩とそれに関する助言。それに加えて、リーフレットとカードをふくむ小包が求められたこと。」

※火曜学び会は午後の葬儀のための配慮であろう。いつもより短いメッセージであった。みことばは1列王3・1〜3で「主を愛する」であった。ソロモン王が世界一の富と英知を身につけていたとしても、覚えられてしかるべきなのは彼が「主を愛した」ことであったと言われた。まことに「エディデヤ(主に愛される者)」にふさわしい生き方であった。帰りに九段下の田安門の桜を見た。) 

2016年4月4日月曜日

十分かつそれ以上だ

イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、(ルカ18・42)

 だからそれで十分だった。すなわち信仰ある彼の祈りと力あるキリストの答え。なぜなら「たちどころに目が見えるようになった」(43節)と書いてあるからである。それが全てだったろうか。彼は道端に物乞いするために戻ったか。いいや、そうではない。彼は「神をあがめながらイエスについていった」(43節)

 数分前の叫びとこれはまた何という変化か。「これを見て民はみな神を賛美した」(43節)「私をあわれんでください」というその最初の叫びがそんなにも急速に導かれたことを考えても見よ。誰が数分前に、目が開けられ、イエスに従い、神をあがめ全群衆が神を讃美するようになろうと予期したであろうか。

 主イエスはあなたにおっしゃっている。「わたしに何をしてほしいのか」(41節)あなたは何と答えるか。 

私の救い主は私が光の中に生きるために暗闇の中で死なれた 
主は私の目が天国を見得るように死の内に目を閉じられた
主は私に主の栄光をもたらすためにすべての栄光を捨てられた
そして罪人の友とならんとして罪人の立場を取られた
そして今や私の愛するイエスが闇の光である
とこしえに住むために入って来てくださる待望のお客様であるお方
この方は決して私を暗闇に放置せず、すべての道で私をリードしてくださる
そのように夕暮れ時は光となり、間もなく昼間となろう

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-4-enough-and-more/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97259です。

4章 ただあなたのために(9)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 さらに「私は最近大きなロンドンの定期的なパーティーに出たが、たいへん幸せでした。主は私に『主の御臨在の秘訣』を与えられるかのように見えました。もちろん私は’for Jesus'を歌いました。主にある全くの静寂を経験したのです。後で、見知らぬ人と二つのほんとうに重要な会話を交わしました。その人は自分の冗談から、いかにいとも容易に自分が離れることができ、真理に直面するのかを知ってかなり驚いたように見えました。彼の冗談が導きとなって、彼は自分の陥っている人としての危険を知り、そこから逃れるただ一つの避難所への希望という全く一人の人間として大切な話しを知ったからです。彼はその話し合いはたいそう良かったと受けとめ、私に感謝しました。」
 もちろん、文通をとおしてもハヴァガル嬢は一つの最重要な関心事の話題を紹介するための豊富な機会を提供しました。それは助けとなった啓示や主によって彼女に送られた豊富な聖書上の「発見」を他のクリスチャンと分かち合う点と、まだ喜びを味わっていない人々にささげる生活を通しての祝福をうながす点の双方においてでした。彼女自身のたくさんいる甥や姪の交わりにとっても彼女はまことに導き手、守り手としての天使でした。
 一人の小さな子どもに彼女は書いています。「いとしいあなた、『小さな事』も主に導いていただきなさい。主に全部明け渡しなさい。いとしいおりこうさん、祝福はほとんど独りでにはやって来ないのよ。もし主がご自身のためにあなたを勝ち取る喜びがあるなら、主はそこに止まってはおられないのです。主はここでももっと多くのことをなさいます。私はあなたのことを真剣に祈っています。いとしいあなた、イエス様のもとにもっと近づきなさい。そして今あなたがイエス様に出したものを決して取り消さないように願いなさい。無条件で主のものとなりなさい。そうすれば主は完全にあなたのものとなります。」) 

2016年4月3日日曜日

あなたのためにある主の御腕

年古りし 家族の愛の 重なりて 満面の笑み 桃の花あり ※①

その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。(雅歌5・14)
 
 「あなたのための」主の腕。ほんとうの腕。主のふるえる体の全体重は、砕かれた筋肉とむき出しにされた神経とからつり下げられ、ほんとうに刺し貫かれた。そして祝福を分かつためにまさに引き上げられた。聖別された祭司の腕。「満たされた」腕(出エジプト28・41、29・9などの欄外)かつては主の大きなささげもので満たされ、今では「あなたのための」賜物と祝福で満たされている。

 やさしい腕、もっともやさしい配慮のもと、からだに触れ、癒し、持ち上げ、導く手。強い腕、支え、防御する腕。良いもので満ち足り、願いを満ち足らせる開かれた手(詩篇104・28、145・16)支配し、支える手。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに」(雅歌2・6)

おお、待つ者、各瞬間の堕落は
それらをすべて計画した愛によって刻み込まれている
あなたの時、すべては主の手によって整えられている
神様の永遠の契約証言によって

おお薄弱な者よ、見上げよ、そして見よ
あなたのために誓われた強い慰め

の栄光ある腕はあらわれる
の契約の力はすべてあなたのものだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-3-his-hands-for-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97258です。

4章 ただあなたのために(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 この休暇からもどってすぐ、フランシスは、実際には腸チフス熱の最初の段階にあったのだが、姉が助けを必要としていると書いていた一人の若い人と、鉄道旅行の間にかなり無理をして会った。「どんなに疲れてもよい、」と彼女は言った。「もし私が彼女を元気づけることができるなら」
 親戚や友人の家を訪問する時も全く同じだった。家族の使用人や周囲の百姓の人々も、甘い声で輝きをもって語りかける婦人が大好きだった。その話したるや高尚なことをたいそう熱心に語るのだったが。「使用人のホールでの聖書朗読、一人でするやさしい話し、有益な祈りすべてが思い出される」
 F.R. ハヴァガル自身がもっとも有名な賛美歌※②
    Take my life and let it be
    Consecrated, Lord, to Thee,
をどのようにして書くようになったかは、友だちの歓待を楽しむとき、主のために働いた方法の美しい例であった。
「私は五日間のわずかな訪問のために出かけた。その家には10人の人がいたが、何人かは回心しておらず、長い間祈られていた。また何人かは回心はしているが、 キリスト者生活に喜びがなかった。主は私に「主よ、私にこの家のすべての人を与えてください」という祈りをさせなさったが、まさしくそのとおりになった。 私がその家を退去するまでに、皆んなが祝福された。訪問日の最後の晩、私はあまりにも幸せになりすぎて眠ることができず、ほとんど一晩中讃美や私自身の再献身を覚えて過ごした。その結果、こういう小さな二行詩ができ、最後の歌詞"Ever, ONLY, ALL for Thee!"に達するまで、私の心のうちで鳴り響くのだった。」
※②http://www.hymnary.org/text/take_my_life_and_let_it_beに楽譜、歌詞など見ることができる。興味ある方はそちらをご覧ください。

※①昨日は長男の誕生日を覚えて、妹の一家がお祝いをしてくれ、両親である私たちも招待され、お相伴にあずかった。生憎の曇天であったが、庭に咲く桃の花が色を添えてくれた。義弟夫妻の心からの暖かいもてなし。甥、姪からそれぞれ聖書からのみことばとかわいい絵をいただき、長男は喜んだ。子育て真っ最中の彼らの犠牲に感謝する。) 

2016年4月2日土曜日

あなたの罪は今どこにありますか

主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53・6)

 あなたの罪はどこにあるか。罪のあるところはどこでも神様の恐ろしい罰が下るに違いない。たとえわずか一つの罪であり、その罪は心の中に隠されているものであっても、神様の怒りは罪を見出し、それを罰するに違いない。逃れることは不可能だ。けれどもあなたは一つだけでなくもっと多くの罪に覚えがあり、神様はなおそれ以上をご存知だ。だからあなたにとっての大きな問題は罪はどこにあるかであり、もし神様がそれらの罪を見出されるなら、神様の怒りはあなたの上に下るに違いないということである。

 けれどももし罪がどこか他のところに置かれるならあなたは安全である。なぜなら神様はあなたを愛しておられるがあなたの罪を憎まれるだけであるからである。そのすばらしい「どこかほかのところ」とはどこであろうか。私たちの聖書はあなたにそれらの罪はイエスの上に置かれたと話している。なぜ神様の恐ろしい怒りは神様の愛する聖なる御子の上に下るのか。なぜなら、神様は私たちの罪をイエスの上に置き、すべての恐ろしい罰は私たちの代わりに、そしてあなたの代わりにイエスの上に下るように取り扱ったからである。 

 イエスが刺し貫かれた両手両足によって十字架上に神様の怒りの大きな暗黒のうちにひとりで吊るされたとき、イエスはあなたの受けるべき罰に耐えておられ、あなたの罪はもはやあなたの上に見つけられず、あなたの上に懲らしめられることのないようにイエスの上に置かれたからである。

 サタンはあなたを説き伏せてあなたの罪がイエスの上に置かれたことをあなたが信じないように、またあなたがつねにそのことを疑うように努めるだろう。しかし神様が罪はそうなったと仰るのだ。あなたはどちらを信ずるか。もう一度、その厳粛な問い「あなたの罪はどこにあるか」を見、あなたのために苦しみ死なれたイエスを見よう。そして大胆に「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と答えよう。

「今に至るまで赦された 」
なぜならイエスが死なれたから
私たちの罪が取り除かれるために
イエスの血が流され、
今もなお尽きることのない潮が
今日も一杯に深く流れる
イエスは負債を支払われた
私たちは自由になった
無効になった債務証書は
愛の底知れない海に投げ込まれる 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-2-where-are-your-sins/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97257です。

4章 ただあなたのために(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 こういう旅の間、行くところどこにおいても、また留まる時はいつも、この熱心な伝道人であるフランシスは自分のまわりにいるすべての人に救い主について話すあらゆる機会をつかんだ。彼女の太陽のような美しい表情、特にしばしば顕著であった飾らない喜びの態度、陽気な笑いは彼女が伝える信仰の最大の有力な推薦状となった。
 彼女は是が非でも助けねばならないと感じた人々のためには、いつも携行している小さな本や文書だけでなく自らの時間とエネルギー、いやむしろ自分自身をささげる用意を常にしていた。
 Ormont Dessusで、それはスイスの旅行中のひとときであったが、詩を書くために使おうとしていた朝の最善の時を、進んで放棄し、ちょうど道を横切ろうとした労働者と息子たちと話すために時間を割いた。この機会は「人の栄誉をかちとる働きとちょうど同じように・・・見知らぬ、教養のない人にもいかなる小さな部分といえども主のために働かせてください」と祈っていた直接の答えであったからである。) 

2016年4月1日金曜日

Safe All the Way

絵はBaroness Helga、詩はF.R.Havergal ※

私をささえてください。そうすれば私は救われます。(詩篇119・117)
望みがあるので、あなたは安らぎ(ヨブ11・18)
 
 道は容易でない。もし私たちがたいそう用心深く歩かないのなら、つまずくかもしれないでこぼこ道がある。全く滑らかに見えても、でこぼこ道よりも滑りやすく、はるかに危険なところもある。私たちはそのような道をどのように安全に歩くことができるのだろうか。私たちは私たちを持ち上げ、いつも支える強い親切な手を必要とする。

 私たちを非常にしっかりと愛をこめて支えるので昔のスコットランド婦人が「私がキリストを握るのでなく、キリストが私を握ってくださる」と言ったような手だ。 そうだ、キリストの愛ある手が「 つまずかないように守ることができ」(ユダ24)るのだ。あなたの手をイエスの手にゆだねさえすれば「こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。」(箴言3・23)

 けれども「私をささえてください」と言って、そこに止まったり、あるいは「しかし、どっちみっち私はつまずく」とつけくわえたりしてはいけない。主があなたの口に封印されている信仰の輝けることば「私をささえてください。そうすれば私は救われる」に終止符を打て。もしあなたが求めるとおりのことをイエスに信頼し、主に支えていただくなら、あなたは救われる。

私たちは私たちの前途を見ることはできないが
私たちのすべてを見ておられるまことの友は
つねに私たちを眺めておられ、その行く末をご存知である 
私たちがつまずくように見えても、主は私たちをつまずかせられない
そしてへりくださられることを学ぶことは全く無駄な時ではない

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-1-safe-all-the-way/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97256です。標題は何と訳すべきかわからないままやむを得ず、原題を掲げた。「すべての道に救いあり」とは言い過ぎであろうか。なお、青字で表した詩のとおりのことを10代で体験した友の証しを今週火曜日吉祥寺の学び会でお聞きすることができた。感謝であった。

4章 ただあなたのために(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1875年はハヴァガルが重い病にかかり、すでにそれとなく言われていた、打ち続き病がぶり返された年であった。彼女はイギリスを離れなかったが、景色の美しいWhitbyウイットビーで楽しい秋を思わせる滞在を経験したようである。しかし、続く夏には姉のミリアムを連れてアルプスの美しさを満喫した。
 この滞在期間に才能ある絵描きであるChamperyでBaroness Helga von Crammと親しくなった。そして後にはすぐに彼女と協力してアルプス景観と詩句を合わせ持つ一連の美しく上品なカードを発行した(※)。これがスイスの最後の見納めとなったようだ。
 1878年にはサマセットシャー、デボンシャーそしてウエールズの各地を訪ねた。翌年の6月に栄光ある天国へと羽ばたくことになったのは実にキャスウェル、スワンシーのすばらしい「ウェールズの隠れ場所」からであった。)