救いの思想は絶えず王たる身分と関連があるものです。型、実例、そして預言が結びつきます。「あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。」(1サムエル9・16)「わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う。」(2サムエル3・18)「王は敵の手から、われわれを救い出してくださった。」(2サムエル19・9)「彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。」(エレミヤ23・6)「あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり」(ゼカリヤ9・9)
なぜならイエスは私たちの救い主で、イエスは私たちの王である権威をお持ちなのです。けれどもまたイエスは王であられるゆえに、私たちの救い主としての適格性をお持ちなのであります。そして、私たちはイエスを王として完全に受け入れなければ、決してイエスを救い主として知ったことにはならないのです。イエスの王たる身分はイエスの祭司職に力を与えます。イエスの救いの力はメルキゼデクの位に等しい王、祭司としてのものです。
このようにして、イエスは救い主、偉大なお方、救うに力あるお方です。私たちの王は救いのために労し、救いをもたらし、その結果その救いを知らしめられるだけでなく、イエスご自身が私たちの救いであります。まさしくそれぞれの名前が交互に用いられるようであります。
イザヤは言います。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。』」(イザヤ62・11)ゼカリヤは喜んで告げます。「あなたの王があなたのところに来られる。」(ゼカリヤ9・9)またイザヤは言います。「万軍の主である王を、この目で見た」(イザヤ6・5)そして老シメオンも繰り返します。「私の目があなたの御救いを見た」(ルカ2・30)彼は幼子イエスの上に異邦人を照らす光を見、再びダビデのことば「主は私の光、私の救い」(詩篇27・1)思い起こさせるのです。
ほめたたえるにふさわしい方
それはかつてほふられた小羊
携挙された喜びの叫びが
あらゆる国民の中から
主に贖われた者をとおしてあがる
無数の天使が旋律に加わりあらゆる国民の中から
主に贖われた者をとおしてあがる
罪なき弦を鳴り響かせ
王の王に対する栄光を
金のハープをもって奏でる
決して語り尽くし得ない讃美
王の王に対する栄光を
金のハープをもって奏でる
決して語り尽くし得ない讃美
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