主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53・6)
あなたの罪はどこにあるか。罪のあるところはどこでも神様の恐ろしい罰が下るに違いない。たとえわずか一つの罪であり、その罪は心の中に隠されているものであっても、神様の怒りは罪を見出し、それを罰するに違いない。逃れることは不可能だ。けれどもあなたは一つだけでなくもっと多くの罪に覚えがあり、神様はなおそれ以上をご存知だ。だからあなたにとっての大きな問題は罪はどこにあるかであり、もし神様がそれらの罪を見出されるなら、神様の怒りはあなたの上に下るに違いないということである。
けれどももし罪がどこか他のところに置かれるならあなたは安全である。なぜなら神様はあなたを愛しておられるがあなたの罪を憎まれるだけであるからである。そのすばらしい「どこかほかのところ」とはどこであろうか。私たちの聖書はあなたにそれらの罪はイエスの上に置かれたと話している。なぜ神様の恐ろしい怒りは神様の愛する聖なる御子の上に下るのか。なぜなら、神様は私たちの罪をイエスの上に置き、すべての恐ろしい罰は私たちの代わりに、そしてあなたの代わりにイエスの上に下るように取り扱ったからである。
イエスが刺し貫かれた両手両足によって十字架上に神様の怒りの大きな暗黒のうちにひとりで吊るされたとき、イエスはあなたの受けるべき罰に耐えておられ、あなたの罪はもはやあなたの上に見つけられず、あなたの上に懲らしめられることのないようにイエスの上に置かれたからである。
サタンはあなたを説き伏せてあなたの罪がイエスの上に置かれたことをあなたが信じないように、またあなたがつねにそのことを疑うように努めるだろう。しかし神様が罪はそうなったと仰るのだ。あなたはどちらを信ずるか。もう一度、その厳粛な問い「あなたの罪はどこにあるか」を見、あなたのために苦しみ死なれたイエスを見よう。そして大胆に「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と答えよう。
「今に至るまで赦された 」
なぜならイエスが死なれたから
私たちの罪が取り除かれるために
イエスの血が流され、
今もなお尽きることのない潮が
今日も一杯に深く流れる
イエスは負債を支払われた
私たちは自由になった
無効になった債務証書は
愛の底知れない海に投げ込まれる
なぜならイエスが死なれたから
私たちの罪が取り除かれるために
イエスの血が流され、
今もなお尽きることのない潮が
今日も一杯に深く流れる
イエスは負債を支払われた
私たちは自由になった
無効になった債務証書は
愛の底知れない海に投げ込まれる
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-2-where-are-your-sins/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97257です。
4章 ただあなたのために(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
こういう旅の間、行くところどこにおいても、また留まる時はいつも、この熱心な伝道人であるフランシスは自分のまわりにいるすべての人に救い主について話すあらゆる機会をつかんだ。彼女の太陽のような美しい表情、特にしばしば顕著であった飾らない喜びの態度、陽気な笑いは彼女が伝える信仰の最大の有力な推薦状となった。
彼女は是が非でも助けねばならないと感じた人々のためには、いつも携行している小さな本や文書だけでなく自らの時間とエネルギー、いやむしろ自分自身をささげる用意を常にしていた。
Ormont Dessusで、それはスイスの旅行中のひとときであったが、詩を書くために使おうとしていた朝の最善の時を、進んで放棄し、ちょうど道を横切ろうとした労働者と息子たちと話すために時間を割いた。この機会は「人の栄誉をかちとる働きとちょうど同じように・・・見知らぬ、教養のない人にもいかなる小さな部分といえども主のために働かせてください」と祈っていた直接の答えであったからである。)
4章 ただあなたのために(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
こういう旅の間、行くところどこにおいても、また留まる時はいつも、この熱心な伝道人であるフランシスは自分のまわりにいるすべての人に救い主について話すあらゆる機会をつかんだ。彼女の太陽のような美しい表情、特にしばしば顕著であった飾らない喜びの態度、陽気な笑いは彼女が伝える信仰の最大の有力な推薦状となった。
彼女は是が非でも助けねばならないと感じた人々のためには、いつも携行している小さな本や文書だけでなく自らの時間とエネルギー、いやむしろ自分自身をささげる用意を常にしていた。
Ormont Dessusで、それはスイスの旅行中のひとときであったが、詩を書くために使おうとしていた朝の最善の時を、進んで放棄し、ちょうど道を横切ろうとした労働者と息子たちと話すために時間を割いた。この機会は「人の栄誉をかちとる働きとちょうど同じように・・・見知らぬ、教養のない人にもいかなる小さな部分といえども主のために働かせてください」と祈っていた直接の答えであったからである。)
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