2016年4月17日日曜日

Pleased to Please

王のしたことはすべて、民を満足させた。(2サムエル3:36)

  ダビデの愛の証拠は、長い間彼の敵であった者を、親愛の情をもって受け入れたことにある。さらにアブネルの墓で彼らともに泣き、人々に対する心の優しい、同情心に富む者であったことを証明している。「民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。」これは民が王を愛したからだった。民はダビデを見つめたが、それはあの意地悪なパリサイ人が主イエス様を敵対するために何かを見つけようとして見つめたのではなく、賞賛と愛をもって見つめていた。ダビデの言行のやさしさ、また親切さに注目したのだ。

  あなたはこのようにあなたの王である主イエスがなされることに関心を持っているか。あなたは主がすでに行われ、今もみわざをなしておられることを聞いたり読んだりすることに喜びを感じているか。もし主イエスが本当に王であるならそうに違いない。けれども「したことすべて」となると少し、より厳しく感ぜられるかも知れないが、もし一旦そのことが本当に学ばれるなら万事は容易になる。なぜなら、もし私たちが私たちの王であるイエスがなされることをどんなことでも喜ぶことを学ぶなら、私たちにとってどんなことも悪くはなり得ないからだ。

  今日、主にあなたが主がなされるどんなことでも、主はかつてそうすることを喜ばれたのだから、今また終日喜ぶことができるように、主に対して愛と忠誠を尽くさせていただけるように求めよう。思うに、主は私たちを大層愛しておられる。そのため、主はいつもできる限り信頼できるのに応える同じ幸せをくださる。そして主がそのことは主の民を害さないようにご覧になっているどんな時でも主の民である子どもにとって喜ぶべきことをなさる。そうして、主が最初はそれほど喜ばしいとは思えないことをなさる時、私たちが依然として愛する王に信頼し、主の恵みによって主がなさるどんなことでも喜ぶことを学べますように。

私たちのまだ完成していない物語はすべてここに向かっている
神に最高の栄光があるように、そして私たちの上に最高の祝福があるように。
もし万事が目的をめざして大変大きく祝福のうちに相働くなら
それぞれが最善であるかどうかと考える必要がどこにあろうか。

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