雨降りの 蕎麦屋の出窓 浅間山 23.5.7 |
かと思えば、帰りの電車で偶然ご一緒した知人が話の中で一人の盲人の方と親しく交わっていると話された。まだお会いしたことはないが、点字の奉仕をしながらその方と今ではすごく親しくなっているのだという話だった。お聞きしているうちに、その盲人の方は、50数年前に、私の救いのために祈ってくださった、当時大津に住んでおられ、それ以後もお互いに見知っている方と同一人物であることがわかり、互いにびっくりした。
こちらに戻ってから、別の用件で銀行の手続きに朝からバタバタと動いていたが、それも一段落して近くの郵便局に寄り、いつもは通らない33年前出てしまった教会の前を久しぶりに通った。月曜日だから、教会には人はいないな、と思う間もなく、一台の車が教会の前でスーッと止まり、中から一人の方が降りられた。若いころ、私たちが「山ちゃん」と呼んでおり、その後、牧師さんになられた方だった。
思わず、駆け寄り、声をかけた。お互いに声を掛け合い、ご挨拶をした。たまたまその前の週に普段一緒に交わっている方から、日曜日牧師と交わるという話を聞いていたので、早速その話をした。牧師さんも周知のことであり、結局そのまま、その牧師さんは車に戻り、もう一人の方を降ろして立ち去られた。
ところが、降りられた方は今一人の牧師さんであり、私のいた時にはおられず後から赴任されたが、私はこの方とは二、三回お会いした覚えがあり、共通の知人がいたので、教会の前で二人で立ち話をしていた。と間もなく、教会には誰もおられないと思っていたのに、中から、一人、二人と次々現れ、あっという間に牧師さんをふくめ四人の方々と会うことになった。その中のお一人の方とは私が教会を出てから全くお会いすることのなかった方であった。
こうして33年前に教会を出て、長年の年月を経ている私が教会の人々と再会するというハプニングをゴールデンウイーク明けの昨日月曜日に経験した。二三日前には「絶妙のタイミング」と題して事の次第を書かせていただいたが、これら教会の人々との出会いも誠に摩訶不思議な事で、やはりその偶然に着目せざるを得なかった。
しかし、その後、私の家の近くに住んでおられ、咽頭癌を患い、喉を切開して、そのために会話もままならない方をどうしても訪ねたいという思いが起こされた。家内と二人で訪ねた。奥様がご不在であったが、その方は招き入れてくださり、私たちの話に、その方は筆談でもって答えてくださった。その方の不自由な闘病生活を直に感じ取ることができ、自分自身のその方に対する薄情さを改めて思い知らされた。私にとって「大切なことは何か」、それは「絶妙なタイミング」を喜んでいるだけでなく、示された訪問を実行すること、私たちの自由意志をどう用いるかということこそ、大切なことであると体験的に知らされたのである。
こうして、今年の五月の連休は、私にとってはあっという間に過ぎ去っていったが、最も大切なことは何かを学ばされた一瞬であったと思う。雨の御代田で昼飯を食べるために、道中、傘を差し、濡れながら歩き「香りや」という蕎麦屋まで足を運んだ。これは私の自由意志の然らしめる行動である。そしてその蕎麦屋の出窓を通して雨中に煙る浅間山を眺める至福にあずかった。何のためにあなたは生きているか、主に問われ続けている気がする。
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(新約聖書 ルカの福音書10章38節〜42節)
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