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20年ほど前にゴッホ終焉の地で手にした一枚の絵です。 |
2025年9月24日水曜日
こんぺいとう、まんじゅしゃげ、ゴッホ
2025年9月23日火曜日
I was born
”あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”(イザヤ書46章4節)
私は昨日会った友人に、個展を開く友人のDMを紹介していました(もっとも、その友人も既にそのDMはもらっていたのですが・・・)。吉野弘はその「I was born」の作品の中で、彼のお父さんが、友人から蜉蝣(かげろう)の短い命とそれにもかかわらず、卵を抱える蜉蝣の雌の話を聞いて「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよお母さんがお前を産み落としてすぐに死なれたのは。」と書いていました。
2025年9月18日木曜日
秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり
秋の日暮れに
蓑虫ゆらり
ぶらりぶらぶらしていても
なぜか心は侘びしくて
赤い夕日に願うても
やっぱりこの世は風まかせ
うろ覚えだし、自信がない。今流行りのAIでも明らかに引っ張り出してこないのだから、多分どこか歌詞が違っているのだろう。大学一、二年グリークラブに入っていたのでその頃教えてもらった歌に違いない。読者の方でどなたかご存知の方がおられたら教えていただきたいものだ。
その代わりと言っては何だが、当時盛んに練習させられた「月光とピエロ」(堀口大學作詩 清水脩作曲)を昨日は男声四部合唱でたっぷり聴かせてもらった。その折の、と言っても六十年ほど前のこの9月10月の何とも言えない寂しさを思い出した。
2025年9月11日木曜日
石破首相退陣表明
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ニラの花 たおやかにして 屹立す |
2025年9月7日日曜日
知る価値のあること
私たちの人生には思わぬことが起こります。そのような時に私たちはどのような態度を取るのでしょうか。次にご紹介するのはA.ドーフラーさんの「知る価値のあること」と題する文章です。お読み下さいますように。(『重荷も軽く』28頁より引用)
わたしたちの前に横たわっている将来のことは、わたしたちの視野からは隠されています。明日がどういう日か、明日になったら何が起こるか、わたしたちにはわかりません。しかし主は「神を愛する者たちには、万事が相働いて益となる」と約束なさいました。これは知っておく価値のあることです。
万事と言うのですから、私を骨の髄まで驚かすような人生の大事についても、言っているのです。一見すると、こういう大事がわたしたちを押しつぶすのではないかと思われます。しかし、神が益となるようにしてくださることができないような恐ろしい不幸などはないのです。
神は単に大事ばかりではなく、つまらない小事でも、わたしたちの益となるようにしてくださいます。人生には、つまらない事でいらいらしたり、悩まされたりすることが、よくあるものです。そういうつまらない小事が山ほど重なって、人生におけるせっかくの祝福がすべて奪い取られることも、しばしばあります。
神が万事をわたしたちの益となるようにしてくださるというお約束を、真実と心得ておくならば、どんなことがあっても失望の底に突き落とされるようなことはなく、じっと耐えて主を待ち望むことができるでしょう。
大事も、小事も、万事、現在だけを見るのでなく、永遠という見地から見れば、共に働いてわたしたちの益となるのです。神が万事を益となるようにしてくださる時、わたしたちの肉体的な平安と慰めをも考慮してくださっていますが、その上、特に私たちの魂の救いについて心にかけていてくださいます。ですから神は、時々、わたしたちが最もほしいと思うものを取り去られます。わたしたちが、神を愛する以上にそれらを愛し始めたことをごらんになるからです。わたしたちは自動車、パーティー、夜会、ゴルフ、商売その他のもののために神を忘れてしまうことがあります。そういう時に神は、わたしたちを窮地に追いやり、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」ということを悟るようにといましめるのです。
試練を受けつつ、人生を歩んで行かなければならない時、神は神を愛する者たちと共にいて、万事が相働いて益となるようにしてくださいます。この神のお約束に固くすがりついてまいりましょう。そうすれば希望に満ち、確信にみちて、明るく暮らしてゆけるでしょう。
祈り
恵み深い父よ、わたしの助けはあなたの所からまいります。あなたが、わたしの手を取ってお導きくださらなければ、わたしは一日も安全に過ごすことはできません。わたしの足もとはぐらつき、わたしの視界はかすんでいます。あなたが義の道へ安全に導き、永遠の生命をお与えくださることを信じて、わたしはあなたに従って歩んでまいります。主よ、わたしには理解できないことがたくさんあります。しかし、あなたがわたしを愛してくださっていることだけは、よく存じております。なぜならば、神は、わたしが永遠に生きることができるよう、あなたのみ子イエス・キリストを、死に送られたことを知っているからです。わたしの心からすべての疑いを取り去ってください。またあなたのお約束が、常に真実であると信じることができる信仰をお与えください。主よ、あなたの道はわたしの道とは異なります。しかし、あなたの道はあなたを愛する者にとって、あわれみと恵みの道であることをわたしは知っています。
主よ、わたしたちがいらだち、あなたにいろいろ不平を言う時がありましたら、いつもイエスのゆえにこれをゆるし、あなたのもとにもっと親しくお導きください。これらのことを、イエスのみ名によってお祈り申し上げます。
アーメン
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節 口語訳)
2025年9月5日金曜日
待ち遠しい、彼岸花
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)
2025年9月4日木曜日
カルガモさん、お子さん大切にね
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カルガモの 子引き連れるは 微笑まし |
実は長女も五人の子宝に恵まれている。日曜日の次女に続いて、今日は長女が大学生の息子・娘を連れて家の掃除に来てくれた、掃除機持参で。何の打ち合わせもなしに、今の私たちの求めている状態を察して来てくれるので、これまた助かる。台所・食卓をふくめて、居間、廊下など拭き掃除を三人がかりで綺麗にしてくれた。二時間ほどの滞在で昼食も共にしたが、長女の長男が「明日はお母さんの誕生日だよね」と突然言い出した。「51歳だよ」と私たち夫婦と子どもたちを前に、長女は、「照れ笑い」と言うべきか、何とも言えない嬉しい表情を浮かべた。
五羽の子連れのカルガモ一行は、こうして神様の生きとし生けるものに対する変わりなき愛と摂理をも示してくれた。
※ straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_25.html
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(新約聖書 マルコの福音書10章13〜14節)
2025年9月2日火曜日
虹の御約束
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(旧約聖書 創世記9章13〜16節)
2025年9月1日月曜日
秋一番、ぶどうの成る季節
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ぶどうの実 我が子孫の数 示せり(※) |
さて、昨日は礼拝の後、次女が子どもを連れて、私たちの面倒を見に来てくれた。ありがたいことだ。家は散らかり放題。どこからも手がつけられない始末。次女にすれば何とも我慢のならない惨状だが、そこは我慢し、車で郊外にあるイオンでの買い物に連れて行ってくれた。自転車でしか移動手段のない私たちにとり大型店舗での買い物は難しい。おかげで念願のズボンが二着買えた。妻のスカートも買いたかったが、老妻向きの品物を用意している店舗はなかったのでこちらは諦めた。
その間、ひさしぶりに一歳半になる孫娘と行動をともにした。昔、湯川秀樹が孫の存在について、理性では説明しようもない、新たな感じを抱くと、素粒子論を展開した彼が述懐していたのを思い出す。孫娘はいつの間にか成長し、面白いほどによく歩き回る。こちらは座るのが使命みたいな生き方をしているのに彼女はそうではない。おまけに、「じいじ」「ばあば」と言っては適宜に擦り寄って来る。人の一生で幼年期の姿は独特のものがあるとの思いを我も抱く。
孫と言えば、昔ベック兄(1930〜2016)はよく神様には孫はいないよと言っておられた。これまた湯川秀樹とはまた違った述懐だ。私たち夫婦は孫娘が成人するまではとても生き延びているとは思えない。三食のたびに子どもたち孫たちのうちに主イエス様の平和が支配してくださるようにと祈る日々である。不思議と暑さを退散させてくださいとは祈ったことがない。
※ 昨日、次女がくれたぶどうの一部。ブログ用に食卓に載せ写真に撮ってみたら、五人の子ども、十一人の孫に思えた。
あなたがたは、・・・『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。・・・見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章2〜4節)