2011年12月1日木曜日

マリヤの霊は神の宮だった

by Keiko.A in Salzburg
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(新約聖書 ルカ1:46、47)

 かつてスイスを旅行中、私はある村にひとりの実業家を訪問したことがあります。彼は忠実なクリスチャンだ、と聞いておりました。ヒットラーの時代に、それは決して容易なことではありませんでした。

 彼のところに着いたとき、私はたちまち、心に重くのしかかっていたものを下ろすことができました。私は、福音に対する弾圧、自分の身に及んだ不当な扱い、その他のありとあらゆる悪について、語りました。

 突然、彼はうれしそうにこう言いながら、私のことばをさえぎりました。「我々は『本質的』 なことをお話ししましょう。」

 それから我々は、神の大いなるお働きについて語り合いました。イエス・キリストの血による贖(あがな)いに喜びました。聖霊のお導きによってなし得た経験を、分ちました。

 そうすると、それまで心を煩わせていた悲しみ、心配、不安などは、本質的でなくなりました。

 それから旅を続ける間中、私は「ああ、私の霊とたましいが、いつも『本質的』なもので満たされていたらなあ!」と考え続けました。

 この美しい賛美をささげたときのマリヤは、まさにそのようでした。——「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

 彼女のたましい、彼女の霊は、心配、悩み、願い、世のこまごましたことなどの詰まった、がらくたの物置のようではありませんでした。マリヤの霊は、神の宮だったのです。

 主よ!「小さきことを小さいとし/大きいことを大きいとする」心を、
 我らにお与えください。
                          アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著 岸本訳 12月1日から引用)

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