by Keiko.A in Salzburg |
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(新約聖書 ルカ1:46、47)
かつてスイスを旅行中、私はある村にひとりの実業家を訪問したことがあります。彼は忠実なクリスチャンだ、と聞いておりました。ヒットラーの時代に、それは決して容易なことではありませんでした。
彼のところに着いたとき、私はたちまち、心に重くのしかかっていたものを下ろすことができました。私は、福音に対する弾圧、自分の身に及んだ不当な扱い、その他のありとあらゆる悪について、語りました。
突然、彼はうれしそうにこう言いながら、私のことばをさえぎりました。「我々は『本質的』 なことをお話ししましょう。」
それから我々は、神の大いなるお働きについて語り合いました。イエス・キリストの血による贖(あがな)いに喜びました。聖霊のお導きによってなし得た経験を、分ちました。
そうすると、それまで心を煩わせていた悲しみ、心配、不安などは、本質的でなくなりました。
それから旅を続ける間中、私は「ああ、私の霊とたましいが、いつも『本質的』なもので満たされていたらなあ!」と考え続けました。
この美しい賛美をささげたときのマリヤは、まさにそのようでした。——「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
彼女のたましい、彼女の霊は、心配、悩み、願い、世のこまごましたことなどの詰まった、がらくたの物置のようではありませんでした。マリヤの霊は、神の宮だったのです。
主よ!「小さきことを小さいとし/大きいことを大きいとする」心を、
我らにお与えください。
アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著 岸本訳 12月1日から引用)
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