2011年12月14日水曜日

「私」の王はこの季節、お姿をあらわしてくださった!

琵琶湖岸のホテルから対岸の比良山系を仰ぎ見て(12/11)
『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。・・・』(新約聖書 マタイ21:5)

 願わくは、我らがこのみことばを見過ごしにしませんように!

 ノルウェーの首都オスロで、かつて私は愚かなことをしました。私は王宮のほうへ散歩に出かけました。ちょうどそこにたどり着くと将校が走り回り、兵士らが整列しているのが見えました。尋ねてみると、王さまが、議会の開会式に着飾ってご出発だということです。若い人たちが物珍しげにたむろしていました。私はしめたと思いました。「ひとつ、近くで王さまを見よう。」

 突然、若い人たちが駆け出しました。私もあとを追いました。すると彼らは、やたら塗ったくり、着飾ったひとりの女性のまわりに押しかけていました。見ると、その女性はめんどうくさそうにサインをしていました。「あれはだれですか。」そう尋ねると、「あれは、有名な映画女優のだれだれですよ」ということでした。三十年前には有名であったが、今ではもうすっかり忘れられた女優でした。私はあわてて引き返しました。王さまを見たいと思ってです! ところが—驚いたことに—王さまはその間に出発してしまったあとでした。私は王を見過ごしてしまったのです。

 さて、みことばは、きょう、「見よ。あなたの王がお見えになる—見過ごしにするな。王はあなたのところへおいでになる!」と語っています。地上の王ではなく、天地の王なるお方について語られているのです。彼は、我々が思う以上のことを、我々のためにしてくださいました。ご自分のいのちを我らにお与えになったのです。彼は、すべての罪から良心を解き放ち、いのち、喜び、神との平和、永遠の救い、その他ありとあらゆるものをくださいます。

 王がおいでになる! が、オスロで私が経験したようなことは簡単に起こります。我々を誘惑するものがたくさんあるからです。それゆえ、「見よ!」と言われるのです。止まりなさい! 注目しなさい! このお方を見過ごさないように!

  主よ! いったい何が重要であるかを、はっきりと悟るように、
我らを覚ましてください。             アーメン 

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月14日より。私たちが気づかないだけで、いつも「私たち」の王は私たちが王を認め、王のところに帰ってくることを待っておられる。鈍い私にも王は42年前のクリスマスの季節に姿をあらわしてくださった。それまで、私の王は「私」であり、私の信奉する様々な「思想家」—夏目漱石、吉本隆明、森有正、マルクス、ウェーバーたち—であった。その彼らを一目見ようと走って行って、まことの王は見逸れてばかりだった。その私に、まことの王は「わたし」が王だよとご自身をあらわしてくださった。)

0 件のコメント:

コメントを投稿