2011年12月16日金曜日

主よ、あなたを愛します!

この花の上にお乗りください!
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て・・・イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き・・・。(新約聖書 マタイ21:6〜8)

主イエスがエルサレムに入城されたさまは、アドベントの行列と言えるでしょう。こんにちも、このような行列を見ることができるでしょう。けれども、そのほとんどの場合に、肝心の方、主イエスご自身は不在です。きょうのみことばでは、主はその真っただ中におられました。彼をたたえるために、人々は最大のことをしました。自分の上着を道に敷いたのです。オリエント世界で、上着とは、大きな、美しく、織られた布だったので、こういうことができたのです。

さて、金持ちの素晴らしい衣も、貧乏人の粗末な着物も、同じように地面に敷き詰められました。若者たちの色とりどりの着物も、馬追いの、粗末な着物も同じにです。みな等しく、「主イエスよ! あなたを愛します」と口をそろえて賛美します。ルターは、あるみことばをこう訳しています。「キリストを愛することは、すべての知識にまさる」と。

ある婦人が、隣の主婦との争いについて私に打ち明けました。そのとき、こう言いました。「先生。私はとてもクリスチャンらしく育てられました。けれどもお隣の奥さんは、まるで何もお信じになっていないのですよ。」私はいやな気がしました。「クリスチャンらしく育てられる」なんて! それでいて、救い主に対する燃えるような愛は、跡形もないのです。もしそうであったら「隣人」を愛したでしょうに。

主イエスへの愛をあらわそうと、自分の上着を道に広げた人たちを前にして、我々は恥じなければならない、と私は思います。彼らより我々のほうが、主を愛すべき理由を、はるかに多く持っているはずです。なぜなら我々は、この人々がまだ知り得なかったこと、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを知っているからです。我らの心に、アドベントの賛美がわき起こるならどんなに素晴らしいでしょう。—「主を愛そう。主がまず我らを愛されたから」と。

主よ! 我らの冷淡さをおゆるしください。アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月16日より。水曜日の家庭集会で一人のご婦人が証してくださいました。「三人目の赤ちゃんをみごもったが流産の恐れが生じた。安静にしているべきだったのに、胎内のいのちより、コンサート行きたさの余り、出かけ、結果的に翌日婦人科に行き、堕ろさざるを得なくなった。何とも言えない後ろめたさ、私はいのちを殺めたとの自覚のもと苦しまされた。この時、はじめてイエス様の十字架は私のこの罪の身代わりであったことがわかった。それまでは十字架は全人類の罪の身代わりの死だとしか受け止めていなかった。私の罪のためであった、と知り、主の前に悔い改めた。赦しの愛が自分のうちにどっと注ぎ込んできた。主はこんな私を愛してくださった。その主の愛から離れることはありません」と。)

0 件のコメント:

コメントを投稿