イエスとサマリヤの女(ギュスターヴ・ドレ画 ) |
旧約聖書中の、このご降誕の約束には、注目すべき点があります。それは、「正しい」「救いを賜わる」という、相反するふたつの概念が並んでいることです。そして、まさにそのことは、主イエス・キリストがどんなお方であるかを、あらわしています。
「正しい方」—ある殺人事件の裁判について、あるジャーナリストが、こう語っています。「最もひどい罪は、人間が人間をさばこうとすることだ」と。彼の言い分は全く正しいものです。人間に正しいさばきができるでしょうか! しかし今や神の御子がこの世に来られました。「正しい方」と聖書は言います。そうです。このお方には、さばく権利があり、さばくことができます。そして、事実さばきたもうのです。
新約聖書は、イエスのみそばに近づいた人たちが、真相をあらわにされ、それを認めさせられる、という事件に満ちています。あの富める青年に対し、主イエスは、金が神になっていることを指摘したまいます。我々にも当てはまるのではないでしょうか。ペテロに対しては、彼が神のことよりも自分のことを考えている、とイエスははっきり仰せになります。我々もそうではないでしょうか。あのサマリヤの女は、その放埒な生活が、大変に恥ずかしいものであったことを悟ります。我々にも言えることではありませんか。サウロは、主イエスの光に照らして、この非の打ちどころなき自分が、実は人殺しであることに気づきます。
まさにイエスは「正しい方」です。主は我々の義を完膚なきまでに打ち叩かれます。
この経験をした人は、恐れおののきつつ尋ねます。「私はどうすればよいのでしょう」と。答えは、この正しい方にあります。なぜなら、この方は同時に「救いを賜わる」方でもあるからです。この方が十字架につかれた、あのゴルゴタへ行きましょう。我ら罪人をゆるして、神の御前に立ち得る義人とするため、主は死なれたのです。
主よ! あなたのものとされて、救われるため、
我らを助けてください。 アーメン
(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月8日より。)
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