クリスマスリース(知人の作品) |
街頭の広告柱の傍らに立って、考えこんだことがあります。そこには、コンサート、ダンスパーティー、ウインタースポーツ、洗濯機、たばこ、と、ありとあらゆるポスターが貼ってありました。
私は思いました。「人々はアドベント(待降節)のことなど、気にかけていないのだ。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる』という知らせが満ち満ちているのに、それをキャッチするアンテナがないのだろうか。」「戸よ、上がれ。門よ、開け。/栄光の王がおいでになる。/王の王なる方が/救いといのちを携えて。/そのために、叫べ、喜んで歌え!」
しかし人間は、そう簡単に感動しません。天国の王がおいでになる! 「それがどうした?」というくらいです。「それがどうした?」—言い換えれば、「そうしたら、我々にいったい何をしろ、というのだ?」ということです。
それに対して、きょうのみことばが何の解答も与えないことは、注目に値します。ただ、「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わる方」と言うばかりです。それ以上、一言も語りません。
「いかにして、あなたを迎えるべきでしょう。/いかにして、お会いすべきでしょう」と、待降の賛美に歌い込んだ、あのパウル・ゲルハルト※も、同じ当惑を覚えたかのようです。
しかし、彼はその答えを知っていました。願わくは我々も、それをはっきり知る者でありたいものです。答えはこうです—ただ、王であり、救い主であるイエスを、受け入れること。これは、教理や議論にとどまってはなりません。実際に我々にかかわることなり、この方を受け入れるのです。哲学者ハーマンはこう言いました。—「イエスなく生きるくらいなら、頭と心なしに生きるほうがましだ。」
それゆえ、我々は「それがどうした?」と言わない者になりましょう。そして次のように祈りましょう。
「我が心に/あなたへの道を作りたまえ。」アーメン
(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月7日より。※パウル・ゲルハルト〈1607〜76〉は賛美歌107番 、136番「血潮したたる」などの賛美歌作者としても著名。)
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