2011年12月13日火曜日

クリスマスはなぜ喜びなのか

日の出前の湖東の山並み、左正面は近江富士と称す三上山(12/11朝)
これは、預言者を通して言われたことが成就するために起こったのである。「・・・『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。』」(新約聖書 マタイ21:4、5)

 『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。』—これこそまさしく、ご来臨(アドベント)の知らせです。

 しかし、この待降のシーズンに、もし我々がこの時機を本気で受け止めるなら、恐らく我々は苦悩に直面するでしょう。

 神の御子はすでに、この人間の世界においでになりました。そして十字架上で「すべては完了した」と叫ばれました。それから御父のご栄光のみもとにお帰りになりました。これらすべてを、我々は信仰をもって受け入れることができ、全生涯を救いの事実という、この確かな土台の上に築くことができます。

 それであるなら、「あなたの王がおいでになる」というご来臨のニュースが、我々になお、何を語らんとするのでしょうか。このアドベントのシーズンは、ただ、あの信仰の父祖らが、救い主のおいでを待っていた過去の時代を、鏡にうつすごとく再現するだけのことなのでしょうか。それ以上の意味はないのでしょうか。

 そうではありません。「あなたの王がおいでになる」と、毎年我々に告知される、という事実は、すなわち、福音がいかにダイナミックな事柄であるかを示しています。福音は人を動かすいのちです。いちど確かにこの世に来られたように、主は確かに、絶えず来たりたもうお方です。主は、飢え渇いて救いを待ち望む心に来られます。主は、信じる人の生涯に絶えず新たに介入するお方です。ですから、アドベント・シーズンは主イエス・キリストの、力に満ちたいのちを示します。常に新たに、繰り返し、「見よ。あなたの王がお見えになる」という叫びは、この世と、信じる者たちの群れとに、恐怖と喜びとをもたらすのです。

  主よ! あなたの御国こそ、もっともいのちに満ちた
  ものであることを、喜び感謝します。    アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月13日より。今日の吉祥寺でのベック兄のメッセージは「主は私たちに何を語っておられるか」がその題名であった。主は死んでおられない、永遠に生きておられるお方であり、私たち一人一人に今日も語りかけておられる。だから私たちは真剣に主が語られる真理を求めねばならない。求めた者には必ず平和と喜びと安らぎが来、礼拝せざるを得なくなる。2000年前の降誕のおりの博士しかり、羊飼いしかり、老聖徒シメオンしかりであった。しかし今も昔も真剣に求めようとしない中途半端な生き方をする者にクリスマスの喜びはない。というのが話の趣旨であったように聞いたが、改めて己が姿を顧みざるを得なかった。今日のブッシュ氏と一脈相通ずるものを感じた。)

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