by Keiko.A in Salzburg |
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。・・・イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。(新約聖書 ルカ2:25)
おそらくしばしば、シメオンはこう尋ねられたことでしょう。——「ねえ! あなたはいつも、何かを待っているような顔つきをしているね。」するとシメオンは「確かに待っている! でも、何かをではなく、ある方を待っているのだ」と答えたでしょう。そして、「いったいだれを待っているのか」と重ねて聞かれたら、「神の民の慰めを」と答えたことでしょう。
慰めと呼ばれる救い主を、こんなにも辛抱強く待つほど、この人は特別な不幸の中にあったのでしょうか。
そうは思いません。この人はある日「我に返った」のだと思います。こんにちの人は、イタリヤだ、スペインだ、アメリカだ、インドだ、と、あちらこちらに出かけて行きます。が、決して我に返ることはありません。
我に返ったシメオンは、我々のたましいの奥深くにある絶望に気づきました。それには、幾つもの要素が絡まっていました。生きる不安、罪の意識、拒絶される心配、嫉妬、劣等感、高慢。これらが一緒になって——絶望を生み出していたのです。
預言者ナホムは、世界的都市ニネベの滅亡、ひいては世界の滅亡の幻を見せられて、「あなたを慰める者を、私はどこに見いだそう」と申します(ナホム3:7—ドイツ語訳)。
しかし、シメオンは知っていました。 我らの絶望をいやすのは、神のただひとつのみわざによるのだ、ということを。そして神は、このみわざを行いたまいました。神の御子が、我らの救い主として、おいでになったのです!
シメオンの心には、こんな賛美が響いていたでしょう。「主は来られた、主は来られた。/愛と歓喜に満ちて/すべての悩み、不安をしずめるために、/あなたのことをすべて知る主は来られた」と。
主よ! あなたが世界の慰めであられることを、
感謝します。
アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本訳12月3日より引用)
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