2023年9月24日日曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(上)

六人の 白衣の天使 巣立つ秋
 やっと涼しくなった。今夏の暑さは正直参った。何をする気力もなく、そのためにテレビをいつもよりは見る時間が多くなった。そんな日々の間に、一週間ほど前、1963年に公開された『にっぽん昆虫記』の映画を鑑賞した。のっけから薄暗い土間が中心で、話される言葉は東北弁で私にはわかりづらかった。ただ主演の左幸子の演技に引きずられるようにして、とにかく全部観終えることができた。もっぱら、貧困と女性の虐げられた性を凝視させられた二時間であった。

 翌日、今度は『みとりし』という、2019年に公開された映画を観た。いずれ訪れるであろう死を真正面に取り扱っていて、正直目を背けたくなる内容だったが、この映画もまた、死と女性の存在を深く教えられる内容だった。それと並行するかのように、岸田首相の内閣改造にまつわる発言「女性ならではの感性や共感力も十分発揮していただきながら、仕事をしていただくことを期待したい」がいろんな方々から問題とされていた。しかし、果たして自分は無縁と言えるだろうかという思いが、実は私にはあった。

 果たせるかな、そんな日の次の日に、久しぶりに図書館に行った。そして何の気なしに書架の新蔵書棚を見ている時、この本『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著 中央公論新社 2023年5月刊行)を見つけた。孫娘が看護師を志していることもあって、この手の本に無関心ではない。しかし、「ナイチンゲール」ということばにはひっかかった。何か、立派な看護婦さんの模範的な行為が描かれているのではないかという警戒心(?)であった。そんなものは読みたくないという私の「わがまま」があった。

 しかし、読んでみて驚いた。ここには連日観た映画の底辺を抉(えぐ)る「答え」が書かれていることはもちろんのこと、今もなお続く一国の首相自身も陥っている日本社会の陥穽(かんせい)を、一人の看護婦「大関和(おおぜき ちか)」の誕生の描写をとおして深く教えられ、考えさせられたからである。さしずめ、廃娼運動を始めた矢島揖子(やじま かじこ)のことばとして作中で語られているものなど、明治時代のこととは言え、今だに日本社会の根底にある病根を指し示す一つでないだろうか。

「公娼制度は遊郭の女たちだけの問題ではありません。金で女を買うことができる、それを政府が公認しているということが、この国の女性観に決定的な影響を与えているのです。富のある男が妾を囲うことが誉れとされるのも、女は金で買えるという考えがあるからです。」「政府は男には遊郭を用意しながら、女が不貞を働けば姦通罪に問うのですから、これ以上の不公平はありません」(同書118頁)

 このような日本社会の病根に対して、下野国黒羽藩(現栃木県大田原市)の家老の娘という出自を持つ大関和(おおぜき ちか)が、妾(めかけ)を良しとする婚家を抜け出て、二人の子どもを持つ身として、その後いかにして自立していくかが描かれていく。婚家先での大地主の嫁の地位を捨てた彼女は生活の糧を得るために、最初携わった仕事は「女中」であった。その彼女がめぐりめぐって、どのようにして日本で最初の「看護婦」になり、それだけでなく、たくさんの看護婦を養成したか、その歩みが著者の筆を通して、ていねいに追われていく。

 私はこの本を結局二回読まざるを得なかった。それは二回読んでも消えることのない感動の物語であったからである。そしてこの本の表紙絵(上掲のもの)こそ、そのなぞを一挙に明らかに示してくれる格好の絵でないかと思った。

 時は、今を去る、135年前、明治21年(1888年)の秋のことであった。桜井看護学校での一年目の座学、二年目の病院実習を終えての修了証書が卒業生六名に渡されたが、それを記念して、同校の寄宿舎の庭で撮られた写真がもとになったイラストである。この本の中心人物である大関和は同校の生徒として、正面に座っているスコットランドから来た教師アグネス(40代)を中心にして向かって右に座っている。その左には和が何かと頼りにした戦友とも言うべき鈴木雅が座っている。いずれも28歳、29歳で、この時それぞれ二人の子どもを持つシングルマザーであった、それ以外の四人はいずれも20歳前後の若き乙女たちであったが、その六人のうち三人が看護婦に、そして残りの三人は看護婦でありながら廃娼運動にかかわっていくのだ。

 職業としての看護婦が市民権を得る道と廃娼運動をとおし女性の真の解放を勝ち取る戦いは明治・大正・昭和の激動の時代の中で、相携えて進みゆく二つの働きであった。それが一枚の写真のナイチンゲール看護学校の制服を模した、「スタンドカラーの紺のロングドレスとその上に胸当てのある白いエプロンをかけ、動きやすい編み上げ靴を履いた」(同書98頁)日本初の看護婦誕生を記念すべき写真に盛り込まれていると私には思われてならないからである。そして、そのふたつの道は、大関和を、鈴木雅を終生終わることなく突き動かした動機であった。

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(旧約聖書 詩篇3篇1節〜3節)

2023年9月4日月曜日

その名は「犬蓼(イヌタデ)」

イヌタデの 盛んなる秋 訪れる  
 8月初めに、帰省して雑草を刈り取ったはずなのに、もう「どくだみ」も「すすき」も芽を出していた。根っこから引き抜かないのでやむを得ない。ところが一昨日、帰省したら新たな雑草が、しっかりと根を張って勢い盛んであった。私はすっかり頭を抱え込んだ。そのために今回は同行しなかった家内に、新たな雑草があらわれたとばかり、その名前は何だとLINEを使ってこの写真を送った。

 果たせるかな、家内は「イヌタデ」だと宣った(※)。それにしてもなかなか可愛い葉っぱだなと、写真を見て思っていたが、この雑草めとばかり限られた時間の中で「イヌタデ」を根っこから片っ端に引っこ抜いて、やれやれ一安心と思いながら、こちらに昨日遅く帰ってきた。

 家に帰って、ネットでさまざまなことを調べるうちに、「イヌタデ」は「アカマンマ」とも言われ、先端に赤い果実を咲かせ、秋の季語であることを知った。途端に我が行為の愚かさを想うた。考えてみれば、確かにこれまでは気がつかなかったが、秋の訪れとともに「イヌタデ」は芽を出すべき草花として、今や人類が不倶戴天の敵と称する「沸騰化」の夏にもかかわらず、ちゃんと育って、今地上に姿を現したのだ、むしろ感謝こそすれ、何と短見な行為よと我ながら恥ずかしくなった。

 かの憎き「どくだみ」についても、稲畑汀子に

十薬をはびこらせたる庭に住む 

を初めとして様々な俳人の方が、いろんな観点から俳句を詠まれていることを知った。

 遅まきながら、私も風流を解したいなと思わされた。

※家内の言 そのときパッと名前が出てきた。父のおかげだと、小さい頃お父さんに連れられて草花を愛でたことを懐かしんだ。そして、これも牧野富太郎盛んなりしころの小学校教員であった父の姿であったとも言う。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。(新約聖書 1テモテ4章4節)

2023年8月30日水曜日

初代田藤清風氏の歌集(下)

りりしくも 輝く琴の 音聞きたし
 短歌は肉声とその内に作歌する方の世界観が如実に現れる。今回、たまたま知人の紹介で、そのご存在を知ることになった田藤さんだが、その人となりは四つに分かれるということだ。その葬儀の式辞で、「聖しこの夜」の日本語作詞者であり、パスカル・パンセの翻訳者でもある由木康(ゆうきこう)牧師が「田藤兄を天上に送る」と題して次のように語っておられる。

 「一つは箏曲家としての面である。16歳の時から75年間、その道を歩み、山田流の蘊奥を極め、多くの弟子や孫弟子を養成された。古曲を保存し伝授するとともに、「星の光」「老春」などの新曲を創作された。芸能人として最高の叙勲を受けられた。

 次は国文学者としての面である。田藤兄は学校教育は受けなかったが、頭脳明晰、記憶の抜群の人で、国文漢籍の知識においても一家を成していた。その学問的成果は「山田流箏歌講話」「箏曲八葉集」などの著書にあらわれている。

 第三は歌人としての面である。田藤兄は短歌を趣味として、三人の歌人たちの指導を次々に受けつつ、その道に精進し、数千首の歌を詠まれた。それらは同兄を知るための最も手近な資料である。

 第四はキリスト者としての面である。田藤兄は15歳の時に受洗して以来、76年間信仰の道を歩み、東中野教会に転会してからでも51年以上教会生活をつづけられた。その間つまずいたり迷い出たりマンネリに陥ったすることなく、常に求道し研究し実践してこられた模範的キリスト者であった。このような持続的でしかも熱心な会員を与えられたことを私は神に感謝し、その祝福がご遺族をはじめ関係者と教会全体に及ぶことを祈るものである。」

 さて、1884年(明治17年)生まれの、田藤氏は1975年(昭和50年)に召されるまで、上記の説明によると詠われた短歌は数千首に及ぶという。前回に続いて、最初に二句、

二葉教会の頃 と題するものから写す。

ヨハネ伝講義を聞けばわき出づる命の水につかれいやさる
                     (聖書研究会)

とはの光こころにしめてかへるさに空をあふげば星はまたたく
                     (同 前)

 次に最晩年の短歌を写してみる。

1974年(昭和49年) 90歳

あけぼの翼はややにひろがりて清しき朝の大気みなぎる
                     (御題 朝)

み言葉をくちずさみをれば時として天使の声きこゆ心地す
                     (家にて)

ゆたにして紫都子と語る三時間調べしことを告げしよろこび
                     (紫都子とかたる)

みことばあり琴うたありてしみじみと聞くにかたりて心はみつる
                     (同 前)

肩のみか爪先までも暖かしなれが手なれの心づくしに
                   (誕生日に嫁道子より贈らる)

神の国と義とを求めば隠匿はやみて物質は順調にめぐらん
                     (聖書をよみて)

奉仕する心深めば今とてもパンと魚との奇蹟起らん
                     (マタイ伝6章)

身もたまも神殿の再建に打込みし古預言者の姿にうたる
                     (旧約をよみて)

現代の我らは心を神の宮となるまでいそしみせちに祈るも
                     (同 前)

梅見れば大倉山の梅園に妻と遊びし昔おもほゆ
                 (マンションの三階からのながめ)

老いぬれば教の親も教子も友垣となりかたるは楽し
                     (教子と語る)

洋和をつれて義雄とたき子とは箱根めざして朝戸出にして
                     (義雄一家旅立つ)

あしの湖の遊覧船にのらんとて驚きの声す洋和の電話
                     (同 前)

尺にあまるへちま七つはぶらさがり竹架もつるも重げに支ふ
                     (へちまの花)

ものみなの価あがるをわが庭のへちまはゆたにぶらさがりをり
                     (同 前)

君迎へし米のよはひのことほぎに信仰に生きし神の加護かも
                     (喜代子の君米寿を祝ふ)

九十年歩みし地上の旅をわりねむらせ給ふ再臨の日まで


あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。(新約聖書 ヘブル人への手紙10章37〜38節) 

2023年8月29日火曜日

初代田藤清風氏の歌集(上)

スイスイと 船に寄り来る 白鳥

  歌とは不思議なものだ。歌は魂に安らぎを与える。昨日述べた通り、霊肉とも疲れおる、帰りの電車内で、一冊の歌集は我が心を占領した。どんな短歌が記されていたか、延べ数百句に及ぶ作歌から適宜に選んでみた。

1915年(大正4年)36歳
暑き日を母はゆきます一すじに悲しかりけりたゞ一すじに
              (母没す)

しみじみと言ひ残しましし言の葉の思い出でられ胸せまりくる
              (同 前)

1918年(大正7年)39歳
生まれきてたちまちゆきぬみ使いのかはりの玉となれやみどり児
              (匡彦2月生れ3月没す)

1923年(大正12年)44歳
だしねけに降るは瓦よ大なみよたつは砂塵よ人の叫びよ
              (震災)

ありやなしや心にかかる雲わけて青山のはに月は出にけり
              (同 前 父の安否を気遣う)

肩をはり巨人いかるにさも似たり入道雲に炎うつりて
              (同 前)

夢かともかつは思へど耳にきき目に見るものはうつつ世にして
              (同 前)

石の柱まれに残りて人のわざ嘲る如し大なみのあと
              (同 前)

1946年(昭和21年)57歳
師は病むと降るさみだれにおとなへば庭のダリヤは咲きてかつ散る
              (三浦直正師 逝去)

とひくれば庭の草木はそれながらむなしきやどり君はいまさず
              (同 前)

なれのたまいづくにあるも尋ねあひわびごといはん我世果てなば
              (とき子死去)

あわれみの神きこしめして登喜のためいのるせつなる父の願ひを
              (同 前)

ああ神よみし給へさきはへませ世を早よふせし登喜子のたまを
              (同 前)

1950年(昭和25年)61歳
深さをば尋ね尋ねて神の道たえず歩みし君はゆきます
              (野口幽香刀自永眠)

かぐわしき香り残りてゆきし君のみ足のあとをいざやたどらん
              (同 前)

君の霊に供えし花の香もたかくきさきの宮もみ名をあふがるる
              (同 前)

(引用者注釈 野口幽香は著者が出席した教会の創設に深く関わった人物である。くわしくは次のサイトを参照せられたし。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E5%B9%BD%E9%A6%99 

なお、『野口幽香の生涯』という本があり、絶版だが、国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができる。サイトは以下である。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001219892-00 )

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(新約聖書 ヘブル人への手紙11章13節)

2023年8月28日月曜日

画竜点睛を欠く?

日差し背に 我が妹ともに 歩みたり
 いつまで、この暑さは続くのだろう。昨日は三月に一回行く、伊勢崎へと出かけた。暑さボケなのだろうか、絶対忘れることのない、「携帯」を忘れてしまった。その上、「聖書」も忘れてしまった。家を出る時は、二時間弱の電車内で、新約聖書のヘブル人への手紙をはじめからおわりまで通して読もうと、意気込んでいたのに・・・。その二つを欠くとは、私にとって「画竜点睛を欠く」思いであった。

 それはそうと、伊勢崎は今や日本の中でも高温を記録する有名地になっている。伊勢崎駅前の様子は時々、TVが放映する。駅に着いたが、いつも迎えに来てくださる車が見当たらない。「携帯」がないのでこれは大変だと思わされた。ジタバタしても今更どうなるものではない。その駅頭で五分ばかり待った。ところが、駅頭には冷水のシャワーが何箇所もあり、煙のようにして涼を与えてくれた。なかなか粋な計らいである。

 程なく車で迎えに来てくださった方に、その旨を話すと、「(駅頭にそのような仕掛けがあることを)知らなかった。いつも車を利用するので・・・」と言われた。みなさんと合流するなり、「聖書がない」と訴え、早速聖書を貸していただいた。礼拝・福音集会と滞りなく終わった。報告の時、一人の方が、ご両親の納骨とそこにいたった恵みを証してくださった。その後、司会をなさった、伊勢崎の集会に自身のかつての医院を提供してくださっているご主人が、台(メッセンジャーが話す)の上に活けてある花について、「(花を準備してくださった方が)話をしてくださるのでお聞きください」と言われた。

 花は三、四種類あっただろうか、黄色の花や、ピンクの花や色は同じでも花の形も違う、見るだけでもすばらしかったが、それぞれの花について、その方は花の名前、花言葉など話してくださった(※)。残念ながら、私は携帯は持っていず、写真も撮れない、一方、耳が補聴器つけていても十分聞き取れないので、せっかくの話もわからなかった。けれども先の伊勢崎駅の粋な計らいにまさるとも劣らない至福の時であった。総勢十三名の礼拝者であった。小さな集会である。しかし、そこにはお互いに心からなる交わりがある。これこそ主が私たちにくださる恵みだと思わされた。

 それだけでなく、帰る際には、花を活け、説明してくださった方から、ご親族の出版された一冊の歌集『音のたえま』という御本を託された。「読んでください、(返すのは)今度来られた時でいいですから」と言われた。帰りには、集会のご主人ご夫妻に駅まで送っていただいた(朝迎えに来てくださったのはそのご夫妻の長女の方だったが・・・)。

 いよいよ帰りである。二時前になったであろうか。前夜、メッセージの内容や、身辺に起こされているさまざまなことを考えて寝つかれなかった疲労を回復すべく、ここは眠るに限ると思っていた。ところがどうしたことか、『歌集 音のたえま』(初代田藤清風作 非売品)を手にし、結局、春日部までの車中で読み耽った。行きに「聖書」を忘れた私に、帰りには「歌集」が託されたのだ。その方の愛を思い、感謝した。そして、その夜であったか、駅に迎えに来てくださったお嬢さんからもLINEをとおしてであったが、「遠くからメッセージにきてくださって、ありがとうございます」と優しい心をいただいた。

 主は、この暑さの中でも、十分こうして互いに愛する交わり、友を与えてくださっているのだと思わされた。伊勢崎のメッセージの題名は「神の霊感」にさせていただいた。引用させていただいたみことばを書き記しておく。

※その後、その方から教えていただいた。ミニひまわり、藍、昼咲月見草の三種類であった。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)

2023年8月18日金曜日

彦根大手門橋から東京大手町へ

夏盛ん 涼求めて 屋形船
 故郷訪問を企画して訪れた、子どもたちの家族と初めて、屋形船(やかたぶね)なるものに乗った。この屋形船は彦根城の内堀をほぼ一周するもので、黒御門の橋が撤去され、土盛りされて道路になっているので、その手前でUターンし、出発点に戻ってくる全長40数分の行程であった。

 彦根城は高校・大学をとおして最低でも七年間、内堀を眺めては通っていたが、それがまさかこの歳になって堀中から石垣を間近に眺めることができるとは思ってもいなかった。江戸城と彦根城しか見られないと言う、「腰巻石垣」「鉢巻石垣」※についてガイドさんから説明があった。高校時代、中村直勝さんからお聞きしたお話をまたも思い出した。(※土塁と石垣を組み合わせた風景のうちに見られる。堀の水で土塁が崩れないように基礎部分を石垣で覆ったものを腰巻石垣、土塁の上にさらに石垣を積んだものを、鉢巻石垣という、鉢巻石垣の上には、土塁上には建てられない櫓なども建てることができた。

上部が鉢巻石垣、下部が腰巻き石垣

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_16.html

黒御門前のUターンする屋形船に近づいてくる白鳥

 船を降りて、京橋口を出て、キャッスルロードをかすめたに過ぎない限られた時間の中での、彦根城の観光は終わり、午後は遠く甲賀流忍者の里を訪れた。50数年前、その近くで養護施設の保母として独身時代の家内が働いていた場所だった。子どもたち家族に車で連れて行ってもらったが、ちょっとした「ポツンと一軒家」に近づく心境だった。見渡す限り、田園風景豊かで、屏風のように取り巻く鈴鹿山系の山並みを見ながら、しばし昔のことなどを思い出していた。

 甲賀流忍者の里は、子ども連れが多く、元気盛りの年少の孫娘にとってエキサイティングなところであったような気がする。しばしの楽しみも、次の訪問地家内の実家挨拶・表敬訪問が控えていて、切り上げざるを得なかった。そして、その後、我が故郷に帰ったその足で、再び東京に向けての長躯の車の旅となった。折あしく、台風接近のニュースがおびただしく、私たち夫婦もこの際同乗しての家帰りとなった。そして朝の四時過ぎには東京に着いた。

 皇居のお堀のそばを車で帰ってきたが、10歳の孫娘が「東京にもいなかのようなところがあるのね」と言った。普段、東京都内に生活している孫娘にとっては、前日の「河内の風穴」見学をふくめ、この二日間は「田舎経験」であったのだ。その時、ポッと口から自然に出てきたのがこの言葉だった。おそらく脳裏に刻まれている彦根城のお堀と皇居のお堀が二重写しになっているのだろう。今回の旅行中に孫娘に、将来何になりたいのと聞いたら、「建築家」と答えていた。なぜと聞くと「工作が好きだから」と答えた。

 午前中、彦根城の大手門橋を屋形船に乗ってくぐっていたが、二十時間ほどのちには地下鉄の「大手町」駅まで送ってもらい、子どもたち家族とは別れた。二週連続で、長女家族と三男家族がわがふるさとを相次いで訪れてくれたが、やっと最終章を迎えることができた。五時半近くの半蔵門線の始発で春日部にまで無事に帰れた。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(新約聖書 ピリピ人への手紙2章13節、14節)

2023年8月15日火曜日

冷たい水のようだ

友人からいただいたハガキ

 もう呆れ却ってものも言えない。ひさしく家を留守にして、滋賀の生家で日を過ごしたが、冷房の設備も一間だけで、こどもや孫たちと一緒に滞在するには、昔ながらの旧宅ではこの暑さはやりきれなかった(以前なら、たとえそうであっても十分涼しく過ごせたはずなのに)。そして、家に戻って手にしたのが、この暑中見舞い状であった。文面はさらに次のように記されてあった。

 「昨日の夜は突然のドシャブリの雨がふりました。夜に雨戸を閉める時、ミンミン蝉が家に入りました。油蝉はよくみかけますが、ミンミンはその美声をきくのみで姿はみた事はありませんでした。はじめて身近でみました。美しい蝉ですが、よくかけませんでした。堂々とした姿でした。今外にはなしました。空高くとんでいきました。匝瑳(そうさ)にて」

 いっぺんに、涼しさが戻ってきた。そして、同じ頃、私は滋賀の忍術屋敷(甲賀市)でたまたま見かけたトンボを追いかけるのに夢中であったことを思い出した。

 蝉と言い、トンボと言い、実に見事な羽根ぶりだなと思わずにはおれない。そしてその胴体のすばらしさ。「何をくよくよ川端柳」と不平を鳴らす愚か者よ、と主の叱責を身に覚える思いだった。そう言えば、彦根城を孫たち一行と散策中に城山高くトンビが獲物をみつけて交差するかのように飛び交っていた。いち早くそれに気づいた都会育ちの10歳の孫娘は嬉々として飛び跳ねるかのようだった。

 今は辛うじて生態系が秩序を保っている最後かも知れぬ。何とか、脱「沸騰化」の道はないものだろうか。

遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。(旧約聖書 箴言25章25節)