2024年10月31日木曜日

ルーテルの恃み(1)

by Kiyoko.Y(※1)
一 論題と赦罪券

 明日より数えてちょうど満507年前(※2)なる1517年10月31日のことであった、その日の正午ドイツ、サクソニー選挙国の首府なるウイッテンベルヒの城教会の門戸に何人も知らず一つの文書を貼付した者があった。この教会の門戸に文書が貼付せらるることは珍しくなかった。何となればこの教会はウイッテンベルヒ大学と密接の関係を有し、大学が何か重要なる文書を公表する時には常にこの門戸を掲示板として使っていたからである。この日の文書もやはり大学風のものであった。すなわちその文体はラテン語であった。その表題も学者風に「神学の博士が赦罪の効能を説明するの目的をもって争論を提出す」とあった。説明は95の論題に分たれ、而して何人に対しても「神学博士マルチン・ルーテル責任を負うて答弁せん」とあった。文句もあくまで大学風の礼儀を失っていなかった。どこから見ても別段不思議な文書ではなかった。

 その翌日11月1日は諸聖徒節、すなわちこの教会の祭日であった。この日はまた教会の創立及び献堂の記念日に当たり、その他種々の儀式の記念日であった。したがって多くの群衆が諸方からこの教会へ集まって来た。彼らは会堂に入らんとして、その門戸上の文書を見逃すことはできなかった。何だろうといって彼らは目を見張った。彼らは驚いて、また恐れた、容易ならぬことが起こったと思った。一篇の文書はたちまち大問題を引き起こした。至るところこの不思議な文書の噂(うわさ)で持ち切った。町の人はみなこれを見に来た。離れた地方の人は大学に向かって注文を発し、それを印刷して送ってくれと頼んだ。大学はドイツ語の副本をもこしらえ、二国語の写しをその付属印刷所で昼夜兼行に印刷したけれども、とても注文に応じ切れなかった。発表後二週間経たぬ内にドイツ国の大部分に行き渡った。四週間目くらいにはもう外国まで出て行ったという。そしてあらゆる階級あらゆる社会の人がこれを論じ合ったという。印刷術も発達せず交通機関も不便なる当時においてはまことに非常なことといわねばならぬ。この不思議な文書には何を書いてあったのであろうか。

 この文書は秩序整然たる論文ではなかった。ただ赦罪の効能について断片的に意見を述べたものに過ぎなかった。しかしながら要するに赦罪に対する一つの攻撃であった。然りかのローマ法王が使徒ペテロ以来世々継承し来れる最高の権力をもって罪に悩めるすべての人に対して宣言したる赦罪に対する攻撃であった。当時法王の権力といえばこの世における最高の権力であった。何ものもこれに対抗することはできなかった。皇帝すらも法王だけには服従せざるを得なかったのである。ヘンリー四世が法王と争い法王より破門せられたるがため帝位におることできず、自身カノッサに赴いて法王に哀訴せんとしたけれども面会を拒絶せられ、泣く泣く三日間を雪中に立ち尽くしてようやく許されたとは歴史上有名な話である。皇帝すらなおかつ然り、もって法王の勢力を察することができる。しかるにこの法王の権力に対して神学博士マルチン・ルーテルというろくに名も聞こえなかった一人の僧侶が、大胆にも無謀にも攻撃の矢を放ったのである。これを見て人は驚かざるを得なかった。彼を狂人と思った者も決して少なくはなかったであろう。しかし狂人か真人か、それは後にてわかる問題である。

※1    このスケッチは、8/19というとんでもない盛夏の時期に、友人から早々にいただいた秋の便りでした。大分遅くなりましたが10月の終わりにやっと載せさせていただくことができる季節になりました。

※2  今日の文章は『藤井武全集第8巻』599〜601頁より引用しましたが、本文は1917年10月31日に書かれたものです。したがって原文では「ちょうど400年前」と著者は書いていますが、現在に合わせてその部分を507年前とさせていただきました。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(新約聖書 ルカの福音書12章5節)

2024年10月30日水曜日

石破首相の舵取り

見つけたり 青鷺ひそむ 橋の下
 「少数与党」という新しい政治体制が出現しました。これが日本の政治にとって吉となるのか凶となるのか予断を許しません。今回、選挙前に私は東京新聞の夕刊(10/23)に掲載された『論壇時評』(中島岳志氏執筆)に密かに着目していました。そこでは石破茂首相の行動原理を佐藤優氏の指摘などを参考に「クリスチャンとしての石破茂ーー神への「畏れ」が行動原理に?」と題して詳細に述べられていたからです。

 その論旨展開にいちいちうなづきながら、中島氏の結びの言葉に、過分な石破氏への期待(?)が込められているように私は受け取りました。その結びの言葉とは以下のものです。

自己への過信をいさめ、他者との合意形成を重視すれば「ブレた」と批判され、神の声に従って決断すると「独断」だと批判される。石破首相は、いかにして両者の平衡をとりながら、細い尾根の上を歩いていくことができるのか。選挙後も難しい判断を迫られ続けるだろう。

 このような中島氏の指摘を読みながら、私は石破氏には神を「畏れ」て歩んでほしいと思っていました。その私にも、党執行部が非公認候補が代表を務める政党支部への「二千万円」の支給をしたことは、合点がいかず、何と石破氏は説明できるのかと思っていましたが、「選挙には使わない、法的に問題はない」と答えるばかりでした。中島氏の『論壇時評』の執筆は、おそらく、この共産党の赤旗が明らかにした事実を知らない間になされたものだと思われます。

 それはともかく、石破氏の自民惨敗後の苦渋の顔つきを見ていると、「衆院選の民意」について、東大の牧原出教授(※)が東京新聞の近藤記者に問われて答えている文句を連想せざるを得ませんでした(10/29朝刊)。「与党の敗北をどうみるか」という問いに対して

自民が裏金問題に対する明確な姿勢を示さないことに対し、有権者の不満がたまっていた。・・・石破茂首相には、自民のあしきレガシーを断ち切る期待感があったが、党総裁らしい態度をとることでそれが失われていった。・・・

 石破氏のTV画面をとおしてうかがえる「苦渋」には、「党総裁」としての顔がそのまま現わされているのだと合点がいったからです。一方で、「首相の責任は。」という問いに対しては

責任がより大きいのは裏金議員であるはずだ。今首相を代えたところで、来夏の参院選を乗り切れるか分からない。首相に求められるのは『こらえる政治』だ。党内で強いリーダーシップを発揮し、批判に耐えながら政治改革を毅然とやり抜けるかが試されている。

 と、牧原氏は答えています。牧原氏は中島氏と同様、政権基盤の弱い首相にここは何とか踏みとどまって、日本の政治改革をやり遂げてほしいという期待を表明しておられるのではないでしょうか。同日(10/29)の東京新聞の一面見出しは

 「裏金」責任向き合わず 首相自民惨敗でも続投表明

という文字が踊っていました。

 東京新聞が、首相が衆院選惨敗後に実施した記者会見を受けて、まとめ上げた見出しです。一キリスト者として、私は首相が何とかこの直言に真摯に向き合ってほしいと思っています。

※牧原出氏については昨年その著書を紹介したことがあります。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_17.html

主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。(旧約聖書 2歴代誌14章11節)

2024年10月28日月曜日

洗礼の恵み

ざわめきて 秋の香乗せる 停車場
「さすがに、吉田兄、新幹線でしょう」
「いや、青春18だよ!」
とは、若い友と駅頭で出会った時の会話です。

 友人であるY夫妻が、洗礼を受けるので、立ち会って欲しいと一月ほど前にお電話をかけて来られました。急なことでビックリしましたが、喜ばしいことなので、出かけることにし、先週末、長野県の御代田の西軽井沢国際福音センターまで出かけました。

 ご夫妻とのお付き合いは、家内が、ご夫妻と高校の同級生であったことに起因します。家内とこのご夫妻は同じ高校の一年の時に同じクラスにいました。私も同じ高校なのですが、彼らが入学した時の春にはすでに卒業していました。だから私は当時の彼らを知る由はありません。

 ご夫妻が同級生同士で結婚されるとは、よほど縁が深かったと思われます。その奥様と家内は女同士で親友の間柄でした。だから高校を卒業してもその交流は続いたようです。家内は、その親友に、当時出席していた名古屋の教会に誘われ出かけました。その時の心境について、のちに家内は「私は仕事のジレンマに陥り、とうとう自分にあると思いこんでいた自信を失ってしまい、ほかにも精神的な悩みがあり、どこにも逃げ場が見つからず苦しみました。高校時代のY夫人に誘われ名古屋の教会にまで行ったのもこの頃で、神様に頼れる彼女がうらやましく、私も何かにすがりつきたい思いでした」(※1)と告白しています。

 家内は何年かしてその思いが満たされ、主イエス様を救い主として受け入れ、当時結婚を前にして罪の重荷に苦しんでいた私にも、その福音を伝え、私は信仰を持つに至りました。私たちはクリスチャン夫婦としてスタートしました。一方、友人であるYさん夫妻は、仲のいい夫妻として歩まれ、ご主人の仕事にも恵まれておられたのではないでしょうか。それゆえ「信仰」はご夫妻にとっては、片隅の存在ではなかったのではないでしょうか。だから、私たちの交流は、年賀状でお互いの安否を問い合う中で終わりを告げるはずでした。

 ところが、私たちが「教会」から「集会」に移って来た頃から、私たちとYさん夫妻との関係がにわかに変わり始めたのです。その頃、私たちは時々春日部から遠く吉祥寺までその信仰を求めて通うことが多くなっていましたが、Yさん夫妻の社宅が吉祥寺にあり、家内とY夫人との交流は高校生の時以来、復活したからです。

 その集大成が今回のYさんご夫妻の洗礼へとつながったのです。顧みますれば、高校時代に机を並べた二人の少女のうちに信仰の炎はすでに燃やされていたのです。それが周り回って、今回のY夫妻の受洗と私たちの立ち合いとなったのです。60数年前の紅顔の美少年美少女もいつの間にやら歳を取り、人生の終末を迎えつつあります。しかし、主の恵みは尽きないと思い、私たち夫婦は西軽井沢の国際福音センターをあとにしました。

※1「光よあれ第7集」328頁より

ところで、冒頭の会話は、御代田駅の駅頭でばったりと出会ったK兄と私が交わしたものです。30数年前に、少年であった京都出身のK兄が、今や立派に成長して、私どもの老体を労(いたわ)ってくださるあまり、そう呼びかけてくださったのであります。福音のためとは言え、自分の人生で神戸・京都へとしばしば出かけることがなければ、おそらく「青春18切符」を知ることも利用することもなかったことでしょう。その思い出を共有してくださっているのがK兄でした。そのK兄とは軽井沢駅で別れましたが、新幹線で大宮に向かわず、これからその先の横川行きのバスに乗り換えるための便利な出口を教えてくださいました。それこそ今日の写真に載せました信濃鉄道の軽井沢駅の改札口の風景です。レトロ調に見え、バス出発時刻は迫っていましたが、格好の被写体なので大急ぎで写真に収めました。

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6章3〜5節)

2024年10月24日木曜日

ああ、花盛り!花盛り!

 昨日は、天気がすぐれませんでした。そのような中、長女がLINEをとおして盛んに「みかん狩りに来たら」と勧めて来ました。それは娘としての私たちを思う気遣い(普段、人と接する機会が少なく、刺激のない生活を送っているんじゃないかという心配)からでした。私は去就に迷いましたが、結局出かけることにしました。

 出がけに、何を持っていこうかと思いましたが、用意をしていたのはジャムだけでした。ところが都合良いことに、家を出た途端、近所のお家に里芋がたくさん袋詰めして置いてありました。早速、それを買い求め、一方でバインダーを携えていくことにしました。そのバインダーには1973年から1981年ごろまでの私のメモ書きがB5サイズですがルーズリーフの形で収められているのですが、その中に一片だけ娘に見せたいものがあったからです。

 その一片には娘が誕生した前後のことが記されているので、いいかなと思ったからでした。それにしても、すでに里芋やジャムを持っているのに、わざわざバインダーを持っていって何になるかと思い、少し荷物になるが、まあいいやと思いながら携えていきました。途中、電車の中でも自由に眺めながら、とうとう娘の迎えに来た駅で下車し、一挙に家へと案内されました。屋上に位置する庭には、このようにたわわなみかんが「花盛り」でした。家内が喜んだのは当然です。同じ時期に買ったみかんの木は娘の家ではこのようにたわわに実っているのに、私たちの庭はさっぱりなのです。

 ひとしきり、みかん狩りに精を出しましたが、あとは昼食のご馳走になり、取り留めない座談のひとときとなりました。その時、意外や意外、それまで厄介者と思われていたバインダーが活躍し始めたのです。50年ほど前のことが書かれているものを読み上げては話に花が咲いたのです。

 もともと、このバインダーは先日の八潮高同窓会出席がきっかけとなったのです。そこで私は盛んに自らの記憶が何とか記録で確かめられないかと思っていたからです。家にはルーズリーフで500枚(1000頁)に近い断片が無造作に積み重ねられ、廃棄処分の対象としながら、何となく部屋の片隅に放置されて今日まで不思議と生き残っていたのです。問題はこの断片は無秩序だったのです。

 それを並べ替えねばなりません。年月日が書いてあるものは比較的簡単なのですが、三割くらいは未記入です。それを再現するのはとてもしんどい作業でした。そのうち井波さんが召されました。その際に先ず思い出したのは写真でしたが、今回この作業をとおしてそれぞれの事実に直面させられたのです。何しろ、この500枚余りのピースはまさに私が葬り去ろうとしていた教会時代20年のことが細大漏らさず書かれていたからです。まさにこれぞ生き証人です。

 この500枚のピースには娘が3歳の時に、のちに高校でお世話になる先生が、教会にフルート演奏で来られる人としてすでに名前が記されていたのには、娘もふくめ私たち三人は痛く感動させられました。そして余談ではありますが、私が井波さんと同じ時期に日曜日の聖日に初めて教会でメッセージしたのは1974年7月28日であったことも記されており、その原稿も出てきたのです。

 まだこの作業は半分終わったばかりで、後半の1981年から1990年までのピースは未整理です。教会の中で行を共にしてきた井波さんに関する記事は満載しており、私たちがお世話になった牧師さんはすでに引退されており、今回の葬儀の司式をなさったのはその二代後の牧師さんでしたので、この私のピースが伝える事実は知られないと思います。それはそれで素晴らしいことだと思います。なぜなら、主なる神様がすべてのピースを支配してご存知なのですから。

 ただ、私は500枚近い断片を前にして、主の前にはすべての事実がこのように明らかにされると思い、かえって今厳粛な思いにさせられているのです。昨日の何気ない娘と私たち夫婦との交わりも大きな主なる神様のご計画のうちにあったことを思い、主を畏れます。

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしを立てられた。・・・わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。(旧約聖書 箴言8章22〜23節、30〜31節)

2024年10月23日水曜日

兄弟愛の発露(下)

鷺二羽 喧嘩するなよ 魚求め 
 井波さんの葬儀に列席できるとは私は夢にも思っていませんでした。私と家内は教会の裏切り者であるし、私たちが出ることによって多大な苦労を教会の方々は経験され、あまつさえ井波兄姉にとっては私たち家族のことを思うと、心中穏やかならざる感情に支配されておられたのではないかと思います。

 しかし、神様は一人の仲介者を用意してくださったのです。それは二人をよく知っているSさんでした。前回も少し触れましたが、今から7年前、2017年の2月、突然Sさんが家のリフォームを記念して交わりを持つから、出席しないかとお誘いいただきました。その席に井波兄姉も招待されておられたのです。総計15名の出席でしたが、お互いに近況を報告し合いました。3時間弱のお交わりでした。その後、一度寿司チェーン店の駐車場ですれ違ったことがあります。後でお聞きするとその頃はご夫妻は栃木県の小山のご両親の介護に専念され、久しぶりに春日部に帰って来られた時だったようです。

 それから三年経ち、再びS兄から井波さんがご病気で入院しておられるから祈ってほしいという要請があり、私もびっくりしました。それこそ頑健そのものの兄ですから、にわかに信ずることができませんでした。その後、病状は深刻で自宅に帰られ、今は皆さんとお別れの時を静かに持っておられ、自分も行くのだと、S兄から聞かされました。それはちょうど佐久間邦雄兄を送った召天式の席でのことでした。その後、彼からお見舞いされた状況が詳しく私宛にメールで届きました。

 主にあって愛する友がまた新たに召されて行くという寂しさでした。それで、これが最後の便りになるかも知れないと思い、勇気を出してお手紙を認めました。すると手紙を受け取られた兄姉からすぐ電話がありました。「是非会いに来て欲しい」という願ってもないお返事でした。私たちは兄姉に受け入れられているという喜びのもと、10月8日(火)お見舞いに出かけることができたのです。

 お見舞いは多くを語る必要はありませんでした。兄はベッド上で笑顔と握手で迎えてくださり、「来し方を振り返りつつあり、また今天国への階段を一歩一歩踏みしめているんだ」という意味のことを言われたように思います。隣の部屋で井波姉と私たち夫婦で兄弟が葬儀で歌って欲しいと言われた新聖歌471番「われ聞けり かなたには」(※)を讃美しました。それで長居は禁物と思い、辞去しようとした時、井波姉から、「祈ってください」と乞われました。ああ、それは何という「和解」の証の言葉だったでしょうか。私は心を込めて祈りましたが、夢中でどんなことを祈ったか思い出せません。

 このお見舞いの件をリフレッシュ集会の場で報告したら、これまた参加していたS兄が端的に「これで、吉田さんと井波さんは和解できたんだ」と言われましたが、まさしくそうでした。だから私にとってその後、兄弟が10月14日(月)に召されたと、ご長男からその旨電話があった時、寂しさを禁じ得ませんでしたが、「お母さんを大切にね」という言葉が自然に口の端に上ってきた程でした。(上)の写真が示すように、私の長男は彬訓兄に抱かれていました。今、その息子と同い年で竹馬の友であったご長男から電話をいただいたのです。

 「兄弟愛の発露」と思わず、題名をつけさせていただきましたが、多くの人々の祈りと、具体的なS兄の仲介の労をとおして、彬訓兄の最晩年に互いに肝胆相照らす言葉を交わすことが出来たのです。人間の仲介により、敵味方と別れていた人同士が和解できる時があります。しかし、神様は私たち罪人の身代わりに御子イエス・キリストの命を十字架におかけになって私たちに永遠のいのちを提供してくださるのです。これこそ「和解」の大きな手立てではないでしょうか。

※1 われ聞けり「かなたには 麗しき都あり」
   輝ける彼の岸に われはまもなく着かん
   「ハレルヤ」と歌いつつ 歌いつつ 進み行かん
   わが足は弱けれど 導き給え 主よ

 2 われ聞けり「かしこには 争いも煩いも
   明日の憂いもなし」と われはまもなく着かん
   「ハレルヤ」と歌いなば 悲しみも幸とならん
   われは はや さ迷わじ 神 共にいませば

 3 われ聞けり「御冠と真白き衣をつけ 主を
   ほむる民あり」と われも共に歌わん
   「ハレルヤ」と叫びつつ 御声 聞きて喜び
   御国へと昇り行かん わが旅路 終わらば
           詩篇46:4  ヘブル11:13ー16
           黙示録22:1ー5

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(新約聖書 1テモテ2章5〜6節)

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。( 新約聖書 2コリント5章19節)

2024年10月22日火曜日

兄弟愛の発露(中)

 前回述べました友人S兄の井波さんと私に対する評は当たっているのかも知れません。と言うのは、私が教会から集会に出て来た直後、Yさんという極めてガタイの大きな方で目つきの鋭い方が、同じく教会から集会に移り、喜んでおられた時ですが、私を指して「吉田さんは、教会の閻魔大王様のようだった」と笑いながら言われました。この方の井波さん評は聞きそびれましたが、これらの言こそ私が教会から集会に導かれる要因の一つでした(※1)。

 さて、34年前に、ここでは明らかにできない、よんどころのない事情によって教会を出て、集会に移ってしまった私たち夫婦にとって、今回、井波兄の葬儀に出席することは想像もできないことでした。ただ、この34年の間、今から7年前、一度だけ数名の方々と一緒に、兄姉とお交わりする機会がありましたが、それは個人的に肝胆相照らすという、交わりとまでは行きませんでした。しかも、その時以外はまったく没交渉でした。だから、「兄弟愛の発露」と題して前回お載せしました写真の物語る真実からは、井波兄姉と私たちとの関係は、いつしか遠く離れたものになっていました。それは同じく主イエス様の救いを内に体験する者にとって、どこに所属しようと関係のないことですから、私たちにとっては悲しい現実でした。それだけ、私たちが教会を出てしまった事実は、教会の人々にとっては面白くない事実であり、心のわだかまりの原因となっていたのだと思います。

 それはさておき、井波さんが今から50年前、1974年に牧師に代わりメッセージされた内容を私は良く覚えているのです。その中心テーマはピリピ書をもとにした「絶えず喜びなさい」であったと思います。兄は「救世軍」で主イエス様の救いにあずかられ、私たちより少しあと1971年に「救世軍」から教会に移って来られました。もともと行動力のある方で、極めて実践力に富むキリスト者でした。彼は、キリスト者が喜んでいなければ、いくら我はキリスト者なりと言っても通用しませんよという意味のことをよく言っていました。この彼の信仰はおそらく生涯変わらなかったと私は推測しています(※2)。

 そして、冒頭のにこやかなこの人物こそ、先週土曜日に開かれた葬儀式場で掲示されていた元気な時の彼の姿です。私たちは教会の主催される井波兄の葬儀に誰はばかることなく列席させていただくことができました。そして多くの懐かしい教会員の方々と再会できたのです。その背後には、全く没交渉であった34年にピリオドを打つべく、その最晩年に井波兄姉と共に主をあがめることができた事実があったのです。次回はそのことを中心に書かせていただきたいと思います。

※1 教会によって様々だと思いますが、私の所属していた教会は、教会員の奉仕がそれぞれたくさんありました。そのうちの一つに「受付」もあります。私は入門クラスというのを担当していましたので、よく教会の受付にもいることが多かったのですが、このYさんはいつもお子さんを日曜学校に連れて来られるので、終わりまで待っておられるのですが、玄関の扉を境として、外にYさん、内に私がいることが多かったのですが、そのYさんの目には私は「閻魔大王」に見えていたのです。要するに、この人は教会に入るにふさわしい人か、そうでないかと見張ってチェックしている人間だった、ということです。自分ではいつもYさんの救いのために祈り、柔和な表情で接しているつもりでいたのに、Yさんにはそう見えていたのだと知りショックでしたが、先頃また同じようなことを友であるS兄から言われたので、自分にはそういう面がある。ましてや神様の目にはそう見えているのだと自戒せざるを得ませんでした。でも究極的には私の体質の中に万人祭司でなく、牧師制度の頂点近くにいた人間として、主イエス様の救いを妨げていた罪があったのです。それは教会を出て初めて知った真実でした。
 私たちは「教会」を無視しているわけではありません。ただ「教会」が教える会になって人間の教え・支配が中心となってはならないとの信仰告白のもと、あえて「集会」(エクレシア)、主イエス様によって呼び集められた者の集まりという意味を込めて「集会」と言っているに過ぎないだけであって、実態は「教会」と何ら変わるところはないのですが・・・

※2 私は教会時代この「喜びなさい」というのが大の苦手でした。どちらかと言えば、「我いかに悩める者かな」と慨嘆するのが性に合っていました。しかし下記のみことばが示すようにそのことは「主にあって」「キリスト・イエスにあって」初めて可能だったと悟るようになりました。このことについて今一度井波兄と「教会」と「集会」の垣根を越えての交わりをさせていただきたいと長年思っておりました。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(新約聖書 ピリピ4章4節)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書 1テサロニケ5章16〜18節)

2024年10月21日月曜日

兄弟愛の発露(上)


  往年の写真を引っ張り出してきました。私にとって忘れられない写真です。一人の男性の方の膝の上で抱っこされ、こちらを向いているのは私の長男です(※1)。私はと言えば、真ん中で腕を組んで笑いながら、じっとその所作を見ています。さらに奥には家内が生まれたばかりの赤児(次男)をこれまたにこやかに笑いながら、やはりその男性と子どもの方を見ています。1973年になったばかりの写真のように思います。

 私がこの時、持った感情は、「兄弟愛」の素晴らしさを初めて実感した時の何とも言えない感情だったと思います。人が自分の肉親を愛するのは当然ですが、他人の子どもを我が子のように愛するとしたら、それまでの私にはそれだけで考えられない世界だったのですが、それが目の前の男性のその所作に現れていたからです。一方で本来私が負わねばならない息子を、その男性にゆだねる、明け渡すということも私にとっては訓練だと思わされていました。こうして私はこの時、「兄弟愛」の実践という「学校」の入り口に立っていたのです。

 それから半世紀経ちました。その男性は去る10月14日(月)翻然と天の御国に凱旋して行かれたのです。享年83歳と2ヶ月でした。その男性とは34年前、ある事情で袂を分かたざるを得ませんでした。それはこの写真の示す真実からはまったく予期せぬ事態の出現でした。1990年5月それまで所属していた教会を私が離れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになったからです。

 その男性とは井波彬訓兄です。彼は私より一学年上の先輩に当たり、すべての点でまさに兄と言うのにふさわしい方でした。この写真の私たち二人の服装から判断すると、二人ともネクタイを締めピシッとしていますから、日曜日の礼拝を終えて、教会内で何人かの方々と談笑している時の姿だと思います。この時、私たち家族は住まいである足利市から教会のある春日部にまで、バス・電車を乗り継いで一時間半ばかりかけて毎日曜日通っていました。

 その私は、日曜日の教会の奉仕が忙しく、夜中の零時を越えることがよくあり、足利まで帰るのに一苦労していました。その時、井波兄姉宅に泊めていただいたこともあり、その後5月にはとうとう彼らの住まいである同じ団地に引っ越して来て、ますますお互いの交流は深くなり、土曜日にはともに「武里こども会」を開き、こどもたちに福音を伝えたのでした。

 1978年には教会から牧師とともに井波兄と私の二人は派遣されて、東南アジアの宣教地視察(※2)に出かけたほどで、互いに教会と苦楽をともにして来た間柄でした。井波兄の召天を聞き、私たちをよく知っている友であるS兄は、「二人は教会内で対極に位置していた人物で、吉田さんはバリバリの教師で、言うならばパリサイ人で、井波さんはデーンとしていて、細かいことにこだわらない頼りがいのある人だった」と述懐してくれました。

※1 彼には長男と同学年の息子さんがおられたのです。その彼が息子さんがいないかのように。我が息子を抱いてくださっているのです。

※2 当時、日本福音自由教会ではシンガポールに横内宣教師、インドネシアに小川宣教師、栗原宣教師、安海宣教師たちを派遣していたのでその宣教地を実際にこの目で見て、共に現地の方と交わり祈ろうという趣旨で、ほぼ一週間かそこらの旅行だったと記憶しています。考えてみれば、この時、八潮高校の三学年の担任、学年主任でしたから、どのように公私にわたるこの激務がこなされていったか、今から振り返ると家内をはじめとする家族に様々な犠牲があったことを思います。それを決定づけるかのように1981年には私たち家族にとって忘れられないこと(田舎にいた父の痴呆症発症)が起こりましたが、その時も、陰で支えてくださったのは井波兄姉を始め教会の皆様の祈りとご奉仕でした。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(旧約聖書 詩篇133篇)