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近江八幡、右側の山が八幡山、遠く見えるは湖西の比良山系の山並み(10.3.14) |
そして、2月1日の夜10時、汽車に乗って、いよいよ近江八幡に向かった。当時は、まだ東京駅はなく、私の出発したのは新橋駅であった。近江八幡駅も、八幡駅と言った。駅名が近江八幡となったのは、ずっと後年のことで、それは、日本のあちこちに八幡という地名がいくつもあるので、滋賀県の旧称である「近江」という言葉を加えて、区別するようになったのである。(中略)
三時半ごろ、汽車は一つの駅に着いた。それは小さな駅で、付近には運送店と、小さな旅館と、一、二の店など、都合十数軒しかなく、今まで通ってきた中で、一番小さな駅のように思われた。ここで列車の車掌は、私というこの荷物を下ろそうとやってきた。
私の心は、恐ろしい思いに沈んだ。これが将来のホームなのだろうか。赴任する学校は、どこにあるのだろう。その他のものは・・・。
寂しいプラットホームにおりて、私は茫然自失の状態であった。そのとき、中年の親切そうな日本人が、私の方へ急ぎ足でやってきて、英語で話しかけてきた。彼は、私が彼の探している本人であることを確かめて、自分は、私の赴任を待っている学校の英語の主任であって、学校を代表して私を迎えにきたのだと自己紹介をした。町は、北の方一マイルのかなたにあって、そこまで案内しようというのである。こうして私は、とうとうここまでやってきた。
あたりには、ほんの一握りの人家しかない、寂しい八幡駅に降りた私は、雨田先生に案内されて一マイルほど北の八幡の町へ向かった。私たちは徒歩だったので道すがら話すことができた。私の荷物を乗せた人力車は、後ろからついてきた。新しい外人教師への興味と好奇心から迎えにきてくれた生徒たちも、少しはなれて私たちについてきた。かい道は、肌をつんざく寒い北風が、容赦なく吹きつけていた。町の南端にさしかかると、少し左へ曲がって、雨田先生は私を学校へ案内して下さった。そのころには、胸に燃えていた大計画の熱情も、急に冷えだしていた。学校の玄関に着くと、暖房もない、ひえびえとした建物の中へはいるのに、靴を脱いでスリッパーにはきかえねばならなかった。これにはびっくりしたし、まごつきもした。スリッパーというのは、代表的な日本特有の履物で、踵
(かかと)の部分には、何の囲いもなく、足先の方にポケットのようなものがついて、その奥へ爪先を突っ込んではくのである。すこぶる簡単で能率的である。
慣れると便利ではあるが、足で自動的に、その履物をあやつるこつが覚えれるまでは、なかなかやっかいなしろものである。
私はこの難物を引きずりながら、冷え切った廊下を案内された。たびたびスリッパーが脱げるので、なんども行きつもどりつ、はきなおしながら、ようやく校長室にたどりついた。その日は運悪く、校長の安場先生が不在で教頭の山崎先生に出会った。
下宿で読んでおくようにと言って、教員職務規程のような印刷物をもらった。それには「教師の道楽は、学校の職責に支障を来さない範囲で」という、意味の文句があるのをみて、私はへんな気がした。
それから雨田先生は、私をその夜の宿へ案内して下さった。雨田先生によると、前任者のワードWard先生が、明日までこの地を去られないので、学校の方で町の一等旅館を契約しておいて下さったということであった。
これはどうも私にとって、ありがたからぬ前途の見通しになった。
すでに寒さと湿気で冷え上がらんばかりになっていたのに、紙障子にかこまれた冷蔵庫のような畳の寝床で、一夜を明かそうとは、思うだけで身の毛がよだってきた。英語の諺に、背負い切れぬ重荷を積んだらくだは、わら一本を載せてもくたばるという。この場合の私が、まさにそのとおりで、わら一本どころか、なれない日本旅館に敷きつめた、何十枚というわらの畳が、一挙に頭にかぶさってくるようで、生きた心地もしなかった。
この悪夢の道中に、雨田先生は、もう一度街角を曲がって、私をワード先生に紹介するため、その住居へ連れていって下さった。それは三百年も経った代表的な田舎家で、土間の部分に玄関と料理場とがあり、しめっぽい地面から一尺ほどの高さに床があって、畳が敷かれた幾つかの部屋があった。その家は道路に面していて、両がわは同じ形の家に、はさまれているので、外気に接するのは表の道路に面した部屋と、裏庭に面した部屋だけであって、その間にある幾つかの部屋は、
窓なしであった。従って、内部は暗くて、しめっぽい。しかし、何よりありがたかったのはストーブのあることだった。ワード先生は裏庭に面した部屋と、その手前の部屋の間のふすまをはずして、居間兼寝室にし、ブリキ製の薪ストーブをたいていたので、部屋は、気持ちよくあたためられていた。私ははじめて生きかえった。わずか半時間であったが、なんともいえぬやすらぎを味わった。(続く)
(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著90〜94頁より。はるばる太平洋をわたり1905年の1月29日横浜に到着した彼が眼前にしたのは富士山であったようだ。その後一週間もしないうちに滋賀県の一寒村八幡へと新橋から汽車で赴任地に赴く。
汽車の中の様子は残念ながらカットしたが、彼の滋賀県との出会いがいかに不安・恐れに満ちたものであったかがわかる。しかし教員職務規程の内容をへんに
思った彼の心がある。当然であろう。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」新約聖書 コロサイ3:23。彼の心はかつての幻と現実との違いに心は千路に乱れていたかもしれない。しかし全能の主は絶えず彼とともにおられ、この近江の地に導かれた。明日の続きはそのことを明らかにすることだろう。)