私の近江における第二年めは、事実は、明治39年の2月1日からであるが、第一年目は明治38年の早々から始まったのであるから、私の在日年次を数えるときは、八幡到着の日から数えるよりは、暦年による方が、はっきりする。
明治38年のクリスマスの行事は、確かにその年の経験中の最高峰であった。もっとも年末から翌年の正月にかけての、いろいろの経験は、何一つ興味のないものはなかったが、それらは多少とも、明治38年の一年間に発展してきた、私の生活様式の延長みたいなものだった。だから最初の二年間は、基礎工事時代とも考えられる。
建築家になりたいとは、私の少年時代からの願いであった。だから私は高等学校時代の思索も研究も、みなこの目的のためにと時間を使ってきた。またデンバー市内の建築中のあらゆる工事を見て歩いた。建物が、だんだんでき上がって行くのを見るのは、私の目には押さえ切れない誘惑であった。それは半世紀以上もたった今日でもなお変わらない。だから近江兄弟社の創立と成長を、一つの建築計画だと考えても、あながち不自然ではない。
近江兄弟社という設計図と仕様書は、宇宙の創造主、本来の大建築家たる神ご自身によって、早くも明治35年から明治37年の間に作られていた。その期間には、神は私を製図者としてお用いになって、その設計図を書かせ、これを私の良心の奥深く青写真にとっておかれたのである。それから明治38年のはじめになって、神は私をこの遠くの地への現場監督としてお送りになり、敷地と基礎工事との準備に当たらせて下さったのである。
これは神の総合計画書の中の、大切な部分であったばかりでなく、私自身のためにも、必要な訓練だった。建築というものは、すぐれた計画者のまぼろしや熱心や経験と同時に、責任を分担する協力者の腕と頭と心が必要である。基本原理を知ることが絶対に必要である。たとい建築主任であっても、新しい建築を引き受ける場合には、建物と敷地との釣り合いとか、その家に住もうとする人の生活様式や職業などを理解するために、十分時間をかけて研究しなければならない。そうでなければ、たとい建築家の評判を高めるような、壮大な建物を作ることができても、かんじんの中に住む人は、建築家の幻想の所産にすぎない芸術作品のおかげで、自分らの生活や職業を、その建築物に合わせて調節せねばならないという不便な結果になってしまう。
明治38、9年に、終生役に立った貴重な教訓を与えられた。その期間に、私は将来の協力者たちを探し求めて、ある程度まで訓練しておくことができた。これらの協力者がなかったら、私は、ほとんど何もすることができなかったであろうし、多く取りかえしのつかぬ大失敗をしたことと思う。
私が教師として教えていた期間は、私が教えられた期間であった。あとで明らかになってきたことは、大建築家たる創造主は、実施設計図や詳細図を作っておかれただけではなく、同時に、もっと大切な働き人を備え、その協力が必要な場合がくると、一人ずつときに応じてこれを派遣して下さったのである。こうして歳月を経るに従って、兄弟社の事業の拡張と、同時に、特別の才能を持ち、無私の情熱をもった多くの男女が、次々と加えられてきた。
全体の総合計画で大切な要素は、ある種の「失敗」である。そのときは大失敗だと思って意気消沈していたことが、後に、ときには何年もして、それが基本となる、重要な神のよきご計画だとわかって感謝することが、たびたびあった。
(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories
Hitotsuyanagi著210〜212頁より。私の高校の同窓生の中には何人かの近江兄弟社学園の出身者がいる。また現にその責任を負っている方を数えることもできる。彼らは私と違って直接晩年のヴォーリスさんの聲咳に接しており、今も限りない尊敬を持っている。しかし、押し並べて主イエス・キリスト様に対する信仰は表面を見る限り持っておられないように見える。ほぼ100年以上前の創立者を支えたものが創造主による「近江兄弟社という設計図」であったとすれば、
このことは何と説明すれば良いのか。私が前回ヴォーリスさんの愛弟子吉田悦蔵氏の「近江の兄弟」を連載しながら途中で中断した疑問が、このヴォーリスさん自身の筆になる自叙伝を写すにあたって再びよみがえってきて、この連載を続けるかどうか迷い始めた。ただ一つだけ言えるのは、ヴォーリスさんは意識されなかったことかもしれないし、不遜な言い方になるかもしれないが、父なる神様、聖霊なる神様への言及は多いのだが、主イエス・キリスト様への言及が少ないように私には思えてならないのである。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」新約聖書 ガラテヤ3:3。とは「近江兄弟社」という世にも稀なるネーミングをヴォーリスさんに与えられた創造主の声ではないだろうか。)
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