途中もう一つカルフォルニヤのパサデナに立ちよった。私の家族は、9年間もアリゾナに住み、そこから数回東へ旅行した。私が、カルフォルニヤを見たのは、このときが初めてであった。乗船する前の三日間を、このパサデナで過ごしたのは、かつての大学の同級生であり、懐疑主義から脱けて、信仰生活に転向してくれた(※1)、かのH・C・Aに面会するためであった。私が少しでも外国伝道に適する生涯に導かれたのは、彼を改心させようと努めた影響だといえる。その私が、外国伝道に出発する途上で、彼と地上で再会を許されたのである。彼は、元来健康上の理由で、シカゴからコロラド大学をえらんできたのであった。その後、病状が思わしくなく、カルフォルニヤに転地療養していたところ、最近病勢が、さらに悪化したので、母親がシカゴからかけつけて、病床に付き添っていた。
私はサンフランシスコから、日本行の汽船に乗り込む前に、彼の病床を三回も訪問することができたのは、ほんとうによかったと思う。
この事も、故国を離れるにあたっての深い思い出となった。彼が、卒業を前に、病気のため大学を中途退学して後も、私と彼とは文通はしていたが、ここ二年間というものは相会うことが無かった。もし私が、彼に親しい別れを告げずに、アメリカを去らねばならなかったとしたら、さぞ心残りだっただろう。
私が、日本に到着して幾日もならないのに、彼は早く世を去った。だからこの会合は、私にとって意義深いものとなった。私たちの友情の記念碑として、今も近江八幡に、ハーバート・アンドリュース Herbert
Andrews・YMCA会館がある。これは、近江兄弟社の事業のために建てられた、最初の建物であり、昭和25年(1950)までに設計監督した、千二百に余る建築の、最初のものである。現在のYMCA会館は、後年改装になったが、その建物は、今なお彼を記念する意味で彼の写真をホールの正面に飾り、その感化は、私たちの中に働いている。
私が、しばしば感じることは、私という人間は、大学の同窓H・C・AとA・C・H(※2)と、それに私を加えた三人の仕事を、一身に委託されているようなものである。あとの二人は、公生涯にはいる前に、早逝したので、私一人が現地に派遣されたというわけである。しかし、この二人の感化と助力なくしては、今日の私の仕事も、おそらくなかったであろう。
※引用者註1 ハーバート・アンドリュースは学内きっての懐疑主義者であり、誰も彼に福音を伝える人は出て来ず、ヴォーリスだけが学内の代表として彼のところに友人たちの手により派遣されたのであった。つっけんどんな彼に近づくために恐る恐る部屋をノックして入ったとき彼は部屋の片隅にある一台のギターを見逃さなかった。何の共通点も見出せない彼との間で音楽を橋渡しとして用いたからである。その後、さらに病臥中の彼の便器を進んで処理した。さしものキリスト嫌いの彼もやっとヴォーリスに心を開き始めたのであった。(この項は47〜48頁による)
※引用者註2 A・C・Hはヴォーリスのもう一人の親友で学内きっての優等生で建築家志望であった。しかし、若くして彼は死に、その志は遂げられなかった。ヴォーリスはその分を果たそうとしたのである。
(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories
Hitotsuyanagi著83〜84頁より。これほど友情に厚い人はいないのでないか。真の友情の源流は言うまでもなくイエス様にある。その愛を受けたパウロの言。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりまし
た。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下
にある人々を獲得するためでした。・・・弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」1コ
リント9:19〜23)
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