生家の井戸のつるべ、昔は一日に何回も回転し、その都度豊かな水を汲み上げた! |
さらに私は、あたかもイスラエルの子らが日ごとにマナを集めたように、日々聖書を読みます。あなたが知っておられるように、イスラエルの子らは毎日その日の分だけのマナを集めたのみで、一日に二日分のマナを集めることはできませんでした。彼らは毎朝毎朝出て行って、マナを集めねばならなかったのです。これがあなたの霊的生活を養う唯一の方法です。あなたは日々御言葉を学ばなければならないのです。神は「昼も夜も」(ヨシュア1:8)と言われまし
た。
あるいはあなたは、理解することができないという理由で、神の御言葉を読まないかもしれません。あなたは意味のわからない章句に出会うのです。親愛なる友よ、あなたは魚を食べる時のように聖書を読まなければなりません。
さて、私はどのようにして魚を食べるでしょうか。私が魚を食べていて骨に出会った時、骨があったというだけの理由で魚を全部捨ててしまうでしょうか。もちろん、そんなことはありません。私は骨を取り出して皿の横へ置き、さらに魚を食べ続けるのです。すると私は別の骨に出会います。私はその骨も取り出して皿の横へ置き、魚を食べ続けます。私は骨があったからといって、魚を捨ててしまうことはしません。あなたは理解することのできない個所に出会ったからといって、神の御言葉を捨ててしまおうとするのですか。もちろん、そんなことはありません。わからない所を放っておいて、御言葉を読み続けてください。しばらくわからない個所を残しておいて、研究を続けてください。魚を食べ続けてください。御言葉を読み続けてください。
私は手紙を読むように神の御言葉を読みます。私は手紙をもらった時、最初のページを少し読み、手紙を分類棚に投げ込み、一週間後、再びそれを取り出してこんどは三ページから読んで分類棚に返し、さらに数日後署名を見てだれからその手紙が来たかをたしかめる、というような読み方をすることはありません。決してそんな読み方をすることはありません。私は手紙を読む時、はじめから読みはじめ、終わりまで一気に読んでしまいます。このようにして、私はその手紙の内容を知るのです。神の御言葉を読むにも、これ以外の方法はありません。私は「日々の光」やその他の種々な書物が出版されているのは結構なことだと思います。
私自身それらの書物を用いています。しかし、私は、人間の作った「日々の光」その他の書物をもって、聖書にかえようとは夢にも思わないのです。もしあなたがそうするならば、あなたは決して聖書の内容を知ることはないでしょう。あなたは、聖書そのものを読まなければならないのです。
私は創世記の最初の言葉からはじめて、毎日二章か三章を読み、黙示録の最後の言葉まで読んでしまいます。そして次の日には、私は創世記の最初の言葉に返り、再び黙示録の最後の言葉まで読むのです。私は何度読んだかおぼえていません。私は読んだ回数を数えることを決してしないのです。しかし、私は、聖書全体をはじめから終りまで、何度も何度も、くり返しくり返し読んだことを知っているのです。このようにして、私は聖書の内容についていくらか知っています。もしあなたがほんとうに聖書を知りたいと思うならば、あなたは私がとったような方法で聖書を読まなければなりません。あなたは、聖書をはじめから終りまで読み通さなければならないのです。そうすれば、あなたは聖書に精通するようになるでしょう。あなたが手紙を読む時のように、聖書を読んでください。
(『真理のための戦い』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳70〜72頁より。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」旧約聖書 エレミヤ15:16)
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