2011年11月11日金曜日

近江兄弟社という設計図(中)

Winter Blumen in Deutsch by Keiko.A
(全体の総合計画で大切な要素は、ある種の「失敗」である。そのときは大失敗だと思って意気消沈していたことが、後に、ときには何年もして、それが基本となる、重要な神のよきご計画だとわかって感謝することが、たびたびあった。)

その第一に、かぞえられるものは、明治39年の春から夏にかけての病気であった。私は医師の忠告に従って、保養のため帰米することになった。その間の学校の授業は、京都にいた宣教師の好意で臨時代理をしてもらった。五月から八月にかけての四ヶ月間の帰米は、病気療養の目的を果たした私のためにも、また種々な 面で非常に有益であった。また校内の伝道の責任を感じていた生徒たちにも、よい成長の機会になった。それは、ここまで発展してきた計画の前途に明るい見通しを与える上にも役立ったのである。

ただし次の事件は、もっとも深刻なショックでだった。それは明治40年の春、私が学校教師を解職された事件である。これは二カ年半にわたってやってきた、すべての基礎工事を破壊してしまう心配があった。この事件の影響は、第一に、私が生活の収入を失ったことである。当時私は八幡の学生YMCA会館の建築のために、すっかり財布をはたいてしまったときだった。第二の影響は、私が個人的信用を失ったことである。たとい、解職の理由が、学校当局からどのように説明されようとも、世間では、何か私のがわに不始末があったという疑いを持つ心配があった。第三には、キリスト教運動に、大とんざをきたすことである。会館ができてこれからというときに、これは痛い打撃であった。しかし、後から起こったできごとによって、明らかになってきたように、一見して行き悩みと思われたこれらのことは、かえって推進力となった訳である。もしそんなことがなかったら、私は基礎工事ばかりに熱中して、自己陶酔に陥り、明治35年に私が受けた幻の設計図の中の一部分だげが落着して、全体の総合計画の完成は、見ずに終わってしまうおそれがあった。神はこうした状態から救い出そうとして、充実したプログラムに向かうように、慈愛深く私を投げ出されたのである。

感謝すべきことに、一見失敗と見えるこの事件は、私の若い協力者の上に、健全な効果を及ばした。これらの青年たちは、父祖伝来の家業を継いで商工業で立つために、この特別の学校に送られてきたのである。彼らのいだいてきた理想の精神は、急にくずされて、従来の金もうけ主義の夢から、国家社会のため精神的な奉仕をしようという、新しい理想に彼らを転向させたのである。

そうなると、彼らの親や教師の中には、生徒に向かって、キリスト教はあまりにも理想だけに走り、現実離れのした白昼の夢だという者がたくさん出てきた。しかし、こうしたことに対しても、青年たちは意外な反響を示した。事実彼らはみな私の解職に同情し、キリスト教運動の中止を望む者は一人もなかった。たとい生活の資金はなくても、私と事をともにしたいという生徒も、少なからずあった。しかも、それは、これから有利な職に就こうとする卒業学年の中にあった。その中の一人である吉田悦蔵君は、私と共同生活をしながら仕事を一緒にしようと言ってくれたばかりでなく、一人暮らしの母親を説得して、引き続きもう一年だけ毎月の送金を続けてもらい、私がなんとか生活の道を講ずることができるまで、その金で共に生活しようと申し出てくれた。

私たちの仕事の初期に、これ以上に有用なことはなかったし、いまから考えても、こんなことが起こったことは、実に不思議である。(中略)私たちには、最初失望と見える経験でも、ついには私たちを成長させ、訓練するための建設的な力となっているという事実である。だから私たちの本来のスローガンである「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」という聖句に、マタイによる福音書6章の残りの聖句「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」を付け加え、文字どおり、いっさい、あすのことは思いわずらわぬようにすべきだと思う。

「きょう」という日が、私たちには、神と隣人に対して唯一の責任ある日なのである。ただ24時間を聖霊のお導きに委ねさえすればよい。そうすれば、神は私たちを用いて神の国 の建設のため、働かせて下さるのである。日常起こる小さな事がら、たとえば汽車に乗り遅れたとか、暑い日であったとか、ひどい風が吹いたとか、突発的な事故のために予定を変更したとか、出発が遅れたとかいうことが、予期しなかったことになり、それが人間の考えにまさる結果を生じる事実は、いくらでも持っている。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著212〜215頁より。ヴォーリスさんがいかに神の道具として、また聖霊なる神様に従って来られたかがよくわかる文章であ る。しかし敢えて言わせていただければ、「神の国」建設、「キリスト教運動」と言われることのなかに、すでに主なる神様から離れて自立的に歩む人の姿が見られるのでないかということである。ヴォーリスさんに主なる神様が与えられた幻は、近江の人々が一人でも多く主イエス様を受け入れること、そのためには主イエス様がどんなお方であるかを体験しながら、兄弟社のコミュニティーが成長することにあったのでないか、と私は考えるからである。「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」使徒1:6〜8 主が私たちに下さる幻はあくまでも私たち一人一人が主の証人になることである。)

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