2011年11月6日日曜日

八幡到着(下)

咲き競う「天使のラッパ」の群生
ワード先生というのは、親切な中年の紳士で、そんな寒い旅館なんぞにわざわざ行かないで、今晩は、ぜひここで泊まれと言って下さり、しかも、自分の寝室を私に提供して、自分は日本の習慣に慣れているからと言って畳の上で寝られた。こうして新参者の私をいたわって下さった。そのため、八幡の第一日の疲れと煩いは、この小さな家のあたたかみの中に溶けて行った。この家は、その後、相当長く私の住居となった。

ワー ド先生は、翌日午後一時半に八幡を去り、私はついに文字どおり天涯の孤客となった。その夜中に地震があった。もちろん私には、はじめての経験であった。 ちょうど毛の長い大きな犬が泳ぎから上がって、水を払うために、身震いをしているときのような感じを受けた。それまで私は一度も危険を感じるような地震に出逢ったことがなかった。

ワード先生は立ちぎわに、使っていた家具を私に売ってくれた。それは軍隊用寝台一個、たんす一個、安楽椅子一脚、普通の椅子二、三脚、ストーブ一個と敷物一枚であった。先生もそれを前任者から買い受けたのだと説明し、それだけを六十円(当時の米価三十ドル)で譲りたいと言った。私は、八幡に来るために借りた金も、すっかり使いはたしてしまったので、 あとは給料を前借りさせてもらわなければならなかった。後に生まれる近江兄弟社は、こうして資本金どころか負債(旅費及び家具代)をもってはじまった。

二日めの夕方、たしか四時と五時の間だったと思う。私にとっては一つの重大な事が起こった。それは暗黒の世界に光明をもたらし、心の恐怖を払いのけて希望を与え、巨万の現金や銀行預金にもまさる、大資本といえるものであった。それは一人の青年の来訪であった。その名は宮本文次郎といった。彼は私より二つほど年下であった。彼は私の赴任する学校を二年前に卒業し、在学中英語の成績がずばぬけて優秀であったので、卒業と同時に英語教師として母校に残ることになった。彼は、私の赴任を喜んで訪ねてきてくれた。彼の最初の質問は、天と地をひっくりかえしたほどに、私には思われた。それは「お尋ねしますが、あなたはクリスチャンですか」というのであった。

この簡単な一つの問いが、どんなに天地を揺り動かしたかは、とても筆舌では伝えられず、どういっても、十分諒解してもらえないだろう。

しかし、この場合、たとえ前夜の地震が、実際に八幡全体を揺り動かしたとしても、私にとってはこの一語の方が、はるかに大きな震動として伝わってきた。

思えば、太平洋上、チャイナ号の甲板で、ひとり寂しくささげた私の祈りは、すでに、ここで求める前に応えられていたのである。私は、この最初の一年間に、少なくとも一人の求道者が与えられて、私の事業に協力してくれることを祈り求めていた。それが、すでにその祈りにまさる応答が与えられていたのである。彼こそ備えられた通訳者であり、かわらざる友、あとあとまでもの協力者であった。それが宮本さんであった。

彼の語るところによると、私と時を同じに、期せずして同じ祈りをささげ合っていたのである。彼は校内ただ一人のクリスチャンであった。どうかして彼の受けた尊いキリストの福音を、学校や町の人々にも伝えたいとの念願に燃え、そのためには、今度アメリカから来る英語の先生が、どうか熱心なクリスチャンであって、彼と協力してくれるようにと祈っていたのである。

あとは何の問題もない。積極的に計画をはじめるために、歳月を待つ必要もない。今までの暗い影も、寒さも、今はみな神の摂理の前に、消え去ってしまった。私が八幡の日に着いた最初の日の孤独と寂しさの打撃が、あまりに深刻だったので、これではものごとが、軌道にのるまでに何週間も何ヶ月もかかるような思いがしたまでであ る。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著95〜97頁より。ややこれとは違うが、聖書中の記事には次のような記述がある。「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』 と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、 と確信したからである。」新約聖書 使徒16:9〜10 しかし、太平洋をはさんで見知らぬ人同士が同じ祈りをしていたとは驚かされることであり、聖霊の働きという点では無縁ではないのでないか。ちなみに我が先代は登場する人とは全く別人だが「文次郎」と言う。)

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