二週間ほど前に(10/20)近江からどっさり柿が送られてきた |
三月四日、私が学校で教えはじめてから、ちょうど一ヶ月がたった。この日の放課後、初めて学校の運動場で、一人の生徒が、聖書のある箇所について私に説明を求めた。その晩、私の家へ遊びにきた何人かの生徒が、私と一緒に教会へ行きたいと言った。次の朝十一名の生徒が、教会の礼拝に出席して、私が話す聖書の話を聞いていた。その午後、求道者会を催したところ、十五名の生徒が出席した。みな熱心であり、私は目前に迫る卒業をひかえて、何かの形でこの信仰を実らせねばならないと話し合った。
三月七日、聖書研究会の出席者は六十三名にのぼった。私の米国国旗につり合うような、大きい日本の国旗を購入したので、白地に赤く染めぬいた光栄ある日章旗を、生涯を通じて断じて汚すことなく、守り抜くようにと話した。生徒たちは、肝に銘じたようであった。
三月八日から四月十日までは、関係していた三つの学校の学年試験、入学試験、卒業式、春季休暇などのため、授業は休止状態であったが、私にとっては休業どころか、仕事を拡張するよい機会であった。というのは、その期間、私は近所のあちこちを訪問することができたばかりでなく、個人伝道のための、自由な時間とすることができた。これらの旅行を通じて、私の生徒たちとも深く交わり、京都、神戸、大阪などの学校の生徒たちとも、個人的に接触する機会が与えられた。
八幡・彦根・膳所の三校で、卒業する学級に、最後の授業をしたときは、ほんとうに悲しかった。別れのつらさは、私だけではなく生徒たちにも深刻で、いずれも深い感情をあらわしてくれた。彼らを教えたのは、ただの五週間に過ぎなかったが、一年以上も共に学び、共に遊んだように感じた。一人一人が、私にとっては大切な人物となった。そして彼らの心に、はっきりとキリストを植えつけずに別れてしまうことが、遺憾でならなかった。彼らは、真理と光と道とを発見したわけである。彼らの生涯は、ある程度まで改変せられた。少数ながら、あるものは永遠の道を見い出したであろう。私は、彼らが卒業後、どこへ行っても、私と連絡を失わないために、マンスリー・レターMonthly Letterと称する、謄写版刷りの手紙を作って、毎月各人に送ることにした。
三月十一日、学年最終のバイブル・クラスを催した。私は、ヨハネによる福音書第六章六十六節以下から、多くの弟子たちが、イエスを去って行った後に、イエスが忠実な弟子たちに向かって「あなたがたも去ろうとするのか」とお尋ねになった箇所を教え、私も生徒たちに対し、この質問をもって話を結んだ。このとき、
通訳の雨田先生は(この人はまだキリスト信者ではなかったが、みずから進んで、上級組バイブル・クラスの通訳をしてくれた)言葉を添えて、生徒に信仰を勧められ、自分もキリスト主義の実行を、心がけていると言われた。
翌十二日の日記に「今晩、天と地が一つになった。求道者会において、このたび卒業する三人の生徒が、これから一年間キリスト信者になってみようと言った」と書いた。その会で私はヨハネによる福音書十四章と同じく七章十七節などを引用して「キリスト者生活」の話をした。そして、実験をしてみないで、理論を受け入れる必要はないということを話し、とにかく一年間ためしてみることを勧めた。
この三人の生徒は、ためしてみることに賛成し、会の終わりには、膝まづいて一緒に祈りをささげた。そこには、聖霊のご臨在が明らかに感じられ、涙をたたえつつ、堅く手を握りしめて別れた。その学年の終わりに、私は英和対訳新約聖書を、関係している三校の最高学年と、次の学年の都合六組の生徒たちに、一部ずつ勉強のごほうびに贈った。
(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell
Vories
Hitotsuyanagi著135〜138頁より。彼は二月二日に近江八幡に到着して一週間後の水曜日二月八日には、第一回バイブルクラスを始めているが
「せいぜい十余名ぐらいと思っていたのに、四十五名もの生徒がきてくれた」と言い、その夜の感激をポケット日記の狭い紙面に、ただ一語Doxology!
と書いたと言う。Doxologyとは『神を賛美せよ』である。結局急遽東京に四十五冊の聖書の発注をした。日本に滞在して間もない、まだ海の物とも山の物とも分からない、この徒手空拳の若者を主は用いられたのである。結局このとき彦根、膳所の学校をふくめて都合三百二十二冊を分けたとも記してある。実に驚異的である。私の18年前の高校の同窓会名簿が手許にある。それを眺めてみると明治38年卒業生数は54名とあり、生存者四名の方のお名前が記してあった。何らかの意味でこの人たちはヴォーリスさんの聲咳(けいがい)に接しておられた方々であろう。ヴォーリスさんが引用したヨハネ7:17の聖句は「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」である。)
0 件のコメント:
コメントを投稿