2012年4月30日月曜日

日中戦争終結と新しい出発

 このようにして、ウオッチマンは二つの任務を果たし、かつてなかったほど知性面で伸張し、そのことを満喫さえした。しかし、彼のもっとも良い時でももろい体は、課せられたストレスの大きさをすでに示し始めていた。しばらく事業の要求が大変大きくなったので、主のためにはもうそれ以上直接働く力をほとんどあるいは全然持っていなかった。彼の一番上の姉の息子であるステファン・チャンはフ・タン大学の学生だったが、1945年に重慶のレストランで、ある日二人で会い、その時にウオッチマンが世的なことに余りにも夢中なので、かつての精神のうち残っているものを失う危険性があるように感じた。明らかに気分転換が必要な時だった。

 そうしている間に上海ではハードゥーン・ロードの集会は減少する員数と格闘していたが、一面では落胆から、他面では(日本)占領軍によって支援された宗教団体に加盟するのを避けるためにチリジリバラバラになり、信者の家庭で一緒に集まっていた。このことは賢明な予防措置ともなった。日本軍はそれぞれの都市ブロックで道路境界を複雑に封鎖してしまった。そこでは信号で突然全日あるいは数日間も封鎖されることもあった。厳しい報復措置の場合には日本軍は数週間閉鎖したままにさえしたのだった。それは誰も捕まえられた地区からは出て行けないので、口で言うことの出来ない苦痛をもたらしたものだったのだが。それゆえに上海のほかのクリスチャンのグループのようにハードゥーン・ロード教会はたとえ個人の家々であったとしても生き残った。家々では御霊が動かす人々がなし得るように行動した。(where those whom the Spirit moved took what lead they could)

 しかし八年間にわたる長期の戦争はだらだらとその終末に近づいていた。最後の日本軍はかろうじて重慶政府を倒し中国を二つに分断し、漢口から南方へ猛攻撃を加えた。しかし、当時、日本軍は母国の島が激しい空爆に会い、アメリカ陸軍は侵攻の準備をしており、1945年8月16日 連合軍の降伏文書を受諾した。中国との停戦条約は南京で9月9日に調停された。

 ウオッチマンはもはや危険を感ずることなく旅に出ることができ、重慶を離れた。クリスマスには香港にいたが、すぐに上海に戻った。しかし依然として説教に戻るばかりか、回復された教会に戻ることもなかった。聖徒たちは霊的な必要があったが、依然として彼についてのうわさに困惑させられていた。彼は教会の資金の不正使用をしたとか、あるいはもう一つはそれに置き換わって日本軍に協力していたということがまことしやかに言われていた。彼の親しい仲間でさえこの世での働きぶりには困惑していた。はっきりしていたことは彼自身一切口出ししなかったことである。「私はゆだねました、」と彼は一人の友に語る「神様の御手にです」と。(Clearly he himself could not interfere. "I have put it," he told a friend,"into God's hands.")

 続く数ヶ月の間に彼は静かにC.B.Cから離れる計画を立て始めた。 株主を満足させて、彼とジョージは取り決めどおりに蓄積された利潤の大部分を取りのけて働きのために移し、働き人の将来の準備とした。次に彼は福州に出かけた。福州のナンタイの17番カスタム・レーンにある家が空っぽになっていた。大きな庭と離れがあり、働き人の訓練センターとして理想的に改装することが可能だった。家長として彼は今やその家を再占拠し、チャリティーの助けを経て主のために有用に用いようと着手した。

 少年時代の環境に戻って、彼は断食と祈りと目の前に開かれた聖書を用いて考えを整理しようと試みた。数年の困難な年々を一貫して彼はみことばを学んだり福音を伝えるために前進する計画をやめはしていなかった。問題は今やどこで始めるかであった。上海の混乱は彼が静かに神様がどのように御わざをなされるかを見て待つことを求めていた。信仰に富むC.H.ユ博士はそこで説教に戻り、困難にもめげず、ゆっくり信者たちを一緒に引き出しつつあり、人々がお互いに和解するようにとキリストを内に宿す土台に立つことを勧めたのであった。しかし前進は痛ましいほどに遅々たるものだった。もっと何かが必要とされているようだった。

(『Against the tide』P.175~177より。英文を示した前半部は意味が不明瞭なところ、後半部はウオッチマンの決心を味わっていただきたいために併記した。)

主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(旧約聖書 申命記32:10)

2012年4月29日日曜日

田圃に働く少年でも・・・

しかしそれ(=聖書翻訳)をなすことは如何に危険なことであるか。法王は法律をもってそれを禁じている。実にそれは当時においては何にも勝る冒険である。これに比しては大西洋を横断して新大陸を発見することなどは冒険ということは出来ない。彼は今まで幾度か決心しつつ、幾度か断念した。しかし今や猛然とその目的に向って進まねばならなくなった。彼を導く摂理の手はそれを彼に強いるのである。チンデルはこの聖書翻訳の決心をした心境について、後に訳した『モーセの五書』の緒論の中に次のごとく言っている。

私は経験によって、聖書をわかりよい母国語に訳して国民にあたえ、その過程と秩序と意味を知らしめる以外、彼らをいかなる真理にあらしめることも不可能であることを認める。そうしなければ、彼らに教えられたいかなる真理も、真理の敵は再びこれを蹂躙する。あるものは諸君が黙示録9章で読む底なき坑の煙、すなわち外観のみととのえる詭弁学的理論と、彼らの造った伝統(それは聖書には何らの根拠なきものであるが)をもって、また他の者は聖書を瞞着して、それはもしも聖書の過程と秩序と意味を総合的に観れば、とてもそんなふうには解せられないような曲解をもって真理を蹂躙する。

 一語一語、読む者の肺肝を衝く言葉である。聖書の曲解! これほど恐るべきことはない。虚心坦懐、真実なる心をもって読めば、決して解することの出来ないような聖書の解釈をして、自己自派の主義主張を弁護して、聖書の真理を蔽う、これほど大なる罪悪が又とあるであろうか。チンデルは更に語をついで言う。

彼らは、諸君に聖書の知識を与えまいとし、母国語の聖書を持たせまいとし、世界を暗黒に閉じおくことに一致している。それは彼らが諸君を暗黒の中に置き、彼らの卑賤なる欲望と、高慢なる野心と、満足を知らぬ貪欲を満たして、彼らの名誉を王以上、皇帝以上、然り、神以上におくために、空しき迷信と虚偽の教理をもって人民の良心の中に座せんとするためである。彼らは聖書を光明に持ち出すよりも、彼らのいまわしい行為と教理に関して、数千の書を発行する。そして彼らは論理を弄び、互いに論争することによって聖書を曲解し、無智なる人民を迷わしている。故に聖書の意味を単純に明示することによってのみ、彼らを暗黒より救って、職業的宗教家をして乗ずる余地なからしめるのである。この考えが、私を新約聖書を翻訳すべく、決心させたのである。

 彼の聖書翻訳の決心の動機は、ただ母国民に真の福音を知らせたいとの唯一の願望にあった。 何時の時代でも聖書の蔽われた時代は、最も宗教の堕落した時代である。聖書こそ、一人一人がただキリストによってのみ救われることを啓示せる、生命の書であるからである。この聖書を無視して何処に真実の信仰があるであろうか。しかし世の職業的宗教家にとって聖書ほど妨げとなるものはない。これ一人一人が聖書を読めば、かかる宗教家のなしていることが何よりも非聖書的であることを第一に知るからである。そして彼らは人々にそれを読ませないのみでなく、自らも読まず、ただ伝統と教会律のみを固守していた。その頃チンデルがある牧師と会った時、彼は「我らは神の定律よりも法王の定律を重んぜねばならない」と言った。それに対してチンデルは「私は法王の定律を軽んずる。若し神が私をながらえしめば、数年ならずして田圃に働く少年でも、君よりもよく聖書を知るに到らしめるであろう」と言った。

(『ウイリヤム・チンデル伝』藤本正高著作集第3巻P.429~431所収。"Reading this book will keep you from sin; sin will keep you from reading this book "バンヤンは後にこのように記した。かのウオッチマン・二ーはこのことばを婚約者の聖書に書き留めた。私自身も結婚前、婚約者からこのことば「聖書は私を罪から遠ざけ、罪は私を聖書から遠ざける」と書き記した聖書を受け取った。それぞれ過去のブログで紹介した通りである。しかし、大切なことは私自身が今もつねに聖書に心を開いているかだろう。この世の背後にいて主の御わざを見えなくさせようとする悪魔は法王を用いるだけではない、私の心を絶えず聖書から遠ざけようとするのだ。)

ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。・・・「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主はあのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(旧約聖書 1サムエル17:34〜36、37)

2012年4月28日土曜日

ああ聖書翻訳!

かくチンデルは、ウォールシュ家に集う宗教家を打ち負かすと同時に、一方では正しと信ずる福音の伝道に邁進した。彼はかくも偽物が横行して、真の福音をつたえるものが一人もなく、パンを求めて石を与えられた民衆を思う時、居ても立ってもいられなくなったのである。彼はその附近の村々を廻り時にはブリストルまで出かけて福音を説いた。彼には集会する家もなかったので、多くは広場に人を集めて語ったということである。

 人々はこの真実にして単純なチンデルの語る福音に、如何に打たれたことであろうか。彼は人に頼まれてこれを始めたのではない。勿論月給をもらってなすのではない。彼の衷(うち)には、パウロのごとく福音を伝えずにはおれない「已むを得ざる」ものがあったのである。ところがこれを聞いて怒ったのが附近の職業的宗教家である。彼らは、伝道は自分たちの専売特許と思っていたのである。基督の福音が何であるかを知るものは、一人でも多くの伝道者が起って福音を伝えることを、何よりの悦びとせねばならないのであるが、伝道を商売としている者らは、自己の縄張りが侵されるとでも思ってか、かく怒るのである。

 フォックスの言葉を借りると「彼ら盲目なる野卑なる牧師たちは、彼らの集合所である酒場に集まって、盛んにチンデルを罵り、彼の言わぬことまで彼の説としてつけ加え、彼を異端として訴えることとした」のである。チンデルはかくして牧師組合から訴えられた。彼は大法官の前に召喚せられた。附近の牧師たちは勝利の笑みを浮かべて、威厳正しく列席している。チンデルはこの時の事情について後に次のごとく言っている。

私が大法官の前に出た時、彼は激怒をもって恐喝し罵倒し、あたかも私が犬であるかのごとく叱責した。しかもその日、附近の牧師が皆集まっていたにもかかわらず、私を訴えた理由について、何ら説明し得るものがなかった。

 彼はこの裁判において、充分自分の立場を弁明して、刑罰より逃れることが出来た。されどこの事件は彼の心に非常な影響を与え、やがてはこの福音の敵との戦いのために、死する日がくるのではないかと思うようになった。

 彼はその頃、近くにいるある老博士を訪問した。この博士は以前に大法官や監督もしたことのある人であるが、何に感じてか今は野に下り、この田舎に悠々として日を送っていたのである。チンデルは日頃からその博士を尊敬していたので、いろいろと質問して指導を仰いだ。老博士はこの真実な青年の態度に動かされ、胸襟を開いて語った。その中には次のような言葉があった。

君は、法王こそ聖書に言っている非キリストであることを知らないか。しかし君はそれを言うことに注意せよ。これを認めるには生命を代償とせねばならない。私はかつて彼の一役人であった。しかし私は今それを止めて彼とその事業に反抗している。

 この言葉はチンデルに深い感銘を与えた。法王が非キリストであるならば、彼が人々に聖書を読ませまいとするのも当然である。真の福音を伝える者を迫害して、儀式や迷信が重んぜられるのも当然である。彼は全生涯をもってこの法王に挑戦し、如何にもして真の福音を人々に知らせねばならないと決心した。そしてこの真の福音を知らせるのに最も大切なことは、聖書を母国語に訳して人々に知らせることである。

 ああ聖書翻訳! これは少年の頃から、幾度か彼の脳裏を往来した目的であった。

(『ウイリヤム・チンデル伝』藤本正高著作集p.427~429より。この時はチンデルがリトル・ソードベリにいる時でちょうど1521~23年頃、彼が26,7歳の頃であり、今から500年ほど前の英国での話になる。藤本氏がさかんに「牧師」ということばを使っているが、正確には司教がふさわしいのだろうが、恐らく、既成の教会批判が含意されての用語であろう。この項は明日も続く・・・)

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(新約聖書 1ヨハネ4:3)


2012年4月27日金曜日

日本軍の占領と散らされた人々の生き様

 1943年の当初の数ヶ月間までに日本は捕虜収容所、文民集会所(Civil Assembly Centers)を用意し、外国人は一団となってそこに連行された。ウオッチマンは友人たちのために出来る限りのことをした。これから先の厳しい日々に価値があると思われる物品を丹念に捜した。特に病院に入院しており、実際に病状がひどいので家族と一緒に収容所には入れないスターン博士を気遣った。

 3月16日、エリザベス・フィッシュバッハとフィリス・デックが上海の南、Lunghuaの収容所に入ることになっている前の夜、ニー夫妻は彼らを自分たちのたった一つしかないストーブと赤と黒のカーテンをかけた小さな家に招待した。粗末な食卓を囲んで、彼らは神に祈り、一緒に神の真実さをほめたたえた。それから婦人たちはベッドフォード・テラス17番のアパートへ夜遅く戻った。その時、フィリス・デックは鍵を家の中に置いたままであることに気づき、時々しているように裏口の窓のところに行こうとして、小屋によじのぼった。ところがそうしている間に脳卒中を起こし、彼女は落ちて死んでしまった。彼女は同労者であり宣教師のもっとも信仰に富んだ穏やかな人の一人であったがこのようにして死んだ、ただ微笑んでいたと言われている。

 ウオッチマンは C.B.Cのために中国名「シェング・フア 薬品製造会社」と命名し、販売戦術として薬の効能を表現するのに巧みな対句を正式に表した。マーキュロクロムのような基本的に抗菌性のあるものを製造する以外に、スルファチアゾール、スルファグニジン、ビタミンBの濃縮物、そしてヤトレンを製造し始めた。もちろんそこには彼が先を見通していない問題があった。そのプロジェクトはすぐに彼の時間に食い込み始めた。一般にビジネスにあっては人は自分自身の主人たり得ないのが普通なのだ。新薬品を最初に送り出すために追いつこうとそれぞれが競い合っている他の大手の会社との激烈な競争や商業上の気配りがあった。

 株主からの不満もあり、ビタミンBの投入をめぐって神経過敏からなされ報告された案件もあった。それに加えて家族企業としての面倒さもあった。新製品の最初のものを卸す段取りになるといつでも彼が疑惑のもとに置かれた。彼の組織能力やまとめあげる能力は今や戦争状態が悪化する中、どんな時でも微妙な舵取りはどうあればよいかを処理するのに役立った。その結果ウオッチマンは絶えず上海には不在がちになった。

 働き人への送金流入のために弟のジョージと手配してから、彼はもっと長期にわたる(上海)不在を計画した。日本軍は蒋介石の拠点に対して西側を攻撃したが、中国民間人が飛行機を使って自らルートを選んで戦争の最前線を横断することは可能だった。彼は重慶に向けて出発した。その地の報告がすでに上海に届いていて、まだ自由な地帯において人々が霊的に目ざめているということだった。そこにはもっともすぐれた避難してきた大学生たちや土地の投機を手がけるに敏な商売上手な人や銀行家がはるか西に20世紀を素早く持ち込んでいた。ウオッチマンの計画には日本軍に薬を売り込む手はずはなかったので、それに置き換わる需要が最大である地域に売りさばく販路を探し始めていた。 こうして彼はすぐに政府との協約を取りつけて成功をおさめた。その協約によりC.B.Cは徐々に、もっとも小さい企業の一つから中国の薬剤輸入および製造卸の最先端の位置にまで成長した。

 彼は二年半上海と重慶との間を絶えず行き来して過ごし、重慶に小さな住まいを借りた。チャリティーは彼と一緒だったし、彼女の年若い弟もSzechwan(四川?)で営業上の利益を得た。重慶の信者の集会は追われたクリスチャンが入って来て増えており、ステフェン・カウングの宣教のもと成長していた。彼は妻のメリーとともに日本軍のシンガポールの占領にともなってインドを経由して脱出して来ていたのだった。ウオッチマンはクリスチャンの難民の何人かを製薬会社に雇い援助することに全力を尽くした。時々彼はみことばを元気にあふれて明快に語った。1945年には一連の「アジアにおける7つの教会」の話をした。これらは神の宣教戦略における地方教会の特別な地位に関する彼自身の見解を補強する方法で(引用者註:黙示録)以後の教会歴史の場面と一致するものと考えた。

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.173~175より。)

使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。 散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。(新約聖書 使徒8:1、4)

2012年4月26日木曜日

ロンドン発の手紙

 御無沙汰申上げて居りまして相済みません。十二月十八日附御礼状有難く拝読いたしました。新聞で日本の物資不足を見ますが、米炭に困るようでは日本の経済もどうかと思います。尤も日本の御役人は統制経済がお好きで、一片の法令で一切合切杓子定規に取締るのが得意の様でありますが、取締られる国民は堪らないと思います。皆様お困却の処、私共は肉屋等割当制がありますが、困ることもなく、日常生活多少不便でも、贅沢をしている様で相済まぬ心地であります。

 御令息盲腸手術されました由、藤本先生からの御申越しで知り、何とか送金をと思いまして、兎に角送金許可出願いたしましたのですが、不許可となり誠に申訳ございません。国際情勢がこんな処にも敏感でありまして「日本が支那に於て英国をBlockadeするのに積極的に日本国民を支援する理由はない」と云う意見が当国の政府の出方ではないかと思います。

 浅間丸臨検に対する天津租界Blockade強化等は直に銀行を通じて商売に支障を来らす様なことになります。当国為替管理は英蘭銀行でやって居ります為、実務家のやることですから緩い様でも時には辛辣であります。英国が財的にその優位を保たんとする努力は目覚しいものであります。此度の戦争勃発以来その実例を、或は露骨に或は婉曲に商売を通して味わわされて居ります。

 内村先生の原稿を御恵送下さいまして何とも御礼の申様も御座いません。一片の古びた残片、そこに印せられた先生のfoot-print、これも亦天の都へ登る巡礼の旅を行った先輩の足跡。(昨日のラヂオでバンヤンの「天路歴程」の劇放送がありました)Longfellowが申しました様に、失意の時に、私も亦この原稿の一片を通して、勇気をとり戻して行きましょう。

 今日の旅、明日の旅、死に至るまで私の生涯が「神がキリストに由りて上へ召して賜う所の褒美を得んとて標準に向かいて進む」旅であります様に。However hard it may be.最も大切な「唯此一事を務む」ればよい部分を御割愛下され、御礼の申上様もありません。古本の送れない当国現状でありますが、何か見付けて当方よりも御送り申上度いと思います。何ぞ御所望の本でも御座いましたら御申聞下さる様御願い申上ます。

 毎日仕事に追われてキュウキュウして居りますが地上の旅はいよいよ暗かれ、天上の悦びの増さん為、と覚悟をしなければならん様に追詰められまして、余り苦にもならなくなりました。基督者でない当国の人でもよく「平和を求むる声が充溢しているのに我等は何の為に戦わねばならんのだろう」と申します。永遠の生命誌十二月号の第一頁下段に黒崎先生の明快な御教示があります。善と悪をハッキリさせるヨハネ文書の明快さを見ます。

 日本も寒さ酷しきことと思います。炭も節約せねばならぬ日本の冬、奥様御達者でいらっしゃいますか。ドイツではどんな暖房方法か存じませんが、石油の不足で寒さに苦しんでいると新聞で云って居ります。日本で石炭を節約したらoffice manは参ってしまうでありましょう。当国でも百五十年来ない寒さだとか申して居ります。前の大戦の時も大そう寒かったとのことでありますが、人類の罪と自然現象の関係がここにも表れたのではないかと思わされます。

 欧州戦争は行くところまで行かねば止まぬのでありましょうか。欧州文明の破壊を恐れつつも各国の指導階級に罪の悔改を提唱する者のないのは淋しいことであります。当国に見る和平運動も此処に立脚しているかどうか疑問であります。理性に訴えて止めるのでもよいから早く止めて欲しいのでありますが、之は望まれて居りながら出来ないでいます。物資の最大消耗者が日本を捕えているかぎり日本は借金を盾に入れて金を借りて行かねばならぬと存じますが、血の妖魔、戦争に借りた金を注ぎ込んで居る限り平和産業に従事せらるる方々はどんなにかお苦しみのことと存じます。しかし今までの御苦心は日本の為、人類の為決して無駄ではないと(失礼ながら)存じ上げます。どうか血を流す以上の御苦境にも達者で居られます様に。また新しい道が示されます様祈り居ります。

 「そして君はローマ皇帝ドミチャンが来る日も来る日も終日どんなにして暮らしたか知っているかね?彼は宮廷に居る蝿をとらえては彼等が飛ぶことが出来ない様にその翼をもぎとって居たのだよ。ハ・ハ・・・・・、ローマのカイザルとしての偉大なる職務、何ですって? だが、お若い人、それは只例えだがね、もののたとえだがね、・・・・」ナザレ人と云う小説の一節でありますが、ローマ皇帝ドミチャンを戦争そのものに置きかえますと現代のみならず何れの時代にもあてはまる様に思われます。黙示録の必要な時代がまた参りました。
 先は右御礼旁々御無沙汰御詫まで。

 (以上は1939年2月4日日付のロンドン駐在の小林氏が知人に宛てて出された私信である。遺族の了解を得て、公開している。文中、藤本先生とあるのは、先頃ご紹介した藤本正高さんのことである。戦争は国の内外で様々な問題を引き起こしている。中国人ウオッチマン・ニーの歩みを追っているが、沢崎氏のような日本人、またこの小林さんのような人もいたのだ。小林さんはこの時、28歳であり、翌年にご結婚される。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(新約聖書 ヤコブ4:1〜2) 

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13〜14)

2012年4月25日水曜日

「虚栄心の強さ」(亡母の誕生日にちなんで)

 私の母は1917年(大正6年)4月23日に生まれ、1961年(昭和36年)5月22日に亡くなった。5月22日は、東京スカイツリーの開業日だと某会社はその宣伝に躍起になっている。しかし私にとってはこの日は母が亡くなった日として、忘れることのない日である。ところが、母の生まれた日も忘れることがない。しかも何時のころか、この母の誕生と、シェークスピアの亡くなった日が同じであることを知り、二つを結びつけ、母はシェークスピアの生まれ変わりだと奇想天外なことをまじめに考えた時があった。先頃もその話を紹介したところ、「お母さんは文才があったの?」と聞かれた。確かにそう言われてみると、小説を書いたわけではない。字は大変上手であったし、日記など残してくれている。ただそれだけである。いわゆるマザーコンプレックスというもののなせるわざかもしれない。

 しかし、この母が私に言った言葉は今も絶えず念頭にある。「おまえは虚栄心の強い子だ」これほど私の心を心胆寒からしめることばはない。すべて思い当たるからである。多分、母は私が絵が描けなくなったことを揶揄して言ったのだと思う。小学生の低学年、絵を無心に描いた。絵の指導教官に恵まれたのであろう。その作品は県や国内の絵画展で評価され賞をたくさん受けた。ところが、ある時からサッパリと絵が描けなくなったのである。母は焦った。何とかしたいとわざわざ遠くまで電車に乗り、絵の先生につかせた。それでも絵はものにならなかった。うちに残ったのは自我のどうしようもない葛藤・苦しみだけであった。小学校卒業のおり、教頭先生から「あなたは大きくなったら絵描きさんになりますか、それとも科学者になりますか」と過分の励ましのおことばを頂戴した。絵と同時に、様々な科学研究発表をして評価されていたからである。(けれども、これももとを正せば、母の全面的なお膳立てで私は母の示すがまま「柿の種」の研究など、研究まがいのことをしていたにすぎないのだが・・・)

 もう一方で私の家は友達もうらやむ家であった。 1940年(昭和15年)に建てられた家であった。国策では認められない普請であったが、子孫を絶やさないために養子を家に迎え入れたい、そのために建設するんだという母と祖父のお上への嘆願書が功を奏したのか、許可が下りたようだ。当時は全然意識しなかったが、それこそ檜の香も薫り、床はピカピカ、和室の襖はそれぞれ奥ゆかしくあつらえられ、すべての調度がそうであった。その家をひとり息子の私は縦横無尽に背の届く範囲で引っ掻いた。玄関の壁は無惨にも友達と壁をひっかいた痕が今も残っている。母はどんな気持ちであったかと思うと、申しわけない。今、見ても昭和建築の妙が生かされ、ロマンを感じさえする。ところが問題は内実である。

 戦後、農地解放をはじめとする様々な激変のうちに家は困窮を極めた。その上、大黒柱である父が肺病で倒れ、京大病院に入院せざるを得なくなった。そのころ、聞きつけた友人がたまたまパン屋であり、その家のお母さんがパンをたくさん持って玄関にかけつけて下さった。嬉しかったが、そこまで我が家はすでに駄目になっているのだと子供心に改めて思わされた。神社からは家が立派であると言うので町の祭典費はどの家よりも高く割り当てられていた。その時は母は悔しがった。外面と内実が異なっていたからである。そういうおりに私に発した言葉があの「虚栄心」と言うことばであった。考えてみると、あれは私への言葉だけでなく、母の自戒の言葉でなかったかとこの歳になって思う。以来、このことばは私の人生観の根底にある戒めの言葉となっている。ところが昨日のウオッチマン・ニーの話を読むと、彼は主イエス様ご自身から来る生き方、それは「一切、自己弁解をしない」という生き方を身につけているということであった。それもマーガレット・バーバーという一人の姉妹から教えられことだと書いてあった。

 聖書は男性が主の前に責任を負っていることを強調している。けれども女性のこのような素晴らしさを見過ごしているわけではない。母を思う時、女性として懸命に自分に関わってくれたことを改めて感謝したい。また、ウオッチマン・ニーの素晴らしい生き方もたくさんの姉妹の祈りがあったことをしみじみ思わされる。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。(新約聖書 1コリント 4:7〜8)

2012年4月24日火曜日

自己弁解の道でなく・・・

 けれども彼の新しい生活方式はすぐに4人の上海の教会の長老たち、チュー・チェング、ツ・チェンチェン、ユー博士、あともう一人のもはや名前のわからない人に疑念を抱かせた。彼らのウオッチマンのイメージは傷つけられてしまい、今では彼らの目には背教者と映った。また、比喩を代えるならば、畦道から振り返っている田舎者となった。彼らはそのような人はみことばを伝えるのに適しているのか、と問うのだった。だから1942年の終わる少し前に、彼らは彼にウェン・テー・リ(Wen Teh Li)での説教はやめるように要請した。思いやりのある人であるユー博士が自分自身で説教から即座に退いていたので、異議を唱えた可能性があるにもかかわらずである。

 ウオッチマンは落胆し、どうすべきかわからなかった。「私はうらやましい、」とC.L.ユィンに、一緒に福建のおいしいオレンジを分け合って食べながら言った。「あなたは工場内でしたいことをやる自由があり、その時、集会に出かけて行き、二言三言、言うなら、あなたは大変熱心な兄弟だと賞賛されるでしょう。誰もあなたのことを問題にはしないでしょう。ところが私はどうでしょうか。一日の24時間、彼らは私がどのように自分の時間を使っているか正確に知ろうとしています。私は注意人物なのです。」

 普通の信者にとって自分たちの長老たちの行動のショックは大変深刻で、知らされていることよりももっと厳しい背景があるという憶測を引き起こしたのも不自然ではなかった。他人の不幸を願う者たちはウオッチマンが世間の人々とともに昼食をとっている仕事を問題にし指摘した。その手の人々は過去においてウオッチマンの証がよく実を結んだ人々であった。責任ある兄弟たちが沈黙を維持したので、彼は彼と一体となっている証が疑問を抱かれていると感じた。それにもかかわらず、ウオッチマンに依存しているたくさんの働き人のゆえに、彼には踏み出した道を捨てる自由はなかった。続く二年間のうちに彼らが彼にどんな取り組みをしたかは明らかでない。一方ウオッチマンはマーガレット・バーバーが彼の長広舌に直面したときに示した柔和さを思い起こした。そしてもう一度、彼は自己弁解をしようとせず、ご自身の方法で自らの義をあらわされる神からの訓練として、人々の自らに対する行動を受けとめた。

 当然のことだが、仕事の面でウオッチマンを活発に助けていたチャリティーはこの態度をすぐには理解しなかった。ある日、彼女はウオッチマンが先方で声が段々大きくなっていく電話の呼びかけに答えているのを聞いていた。ウオッチマンはそれに対して全部、ただ聞くだけで、たまに「ハイ、・・・ハイ、・・・ありがとう、・・・ありがとう」と答えていた。「あれは一体誰だったの」と彼女はウオッチマンが電話を切った時、尋ねた。「私がやってきたことは全部間違いだと話す兄弟だったんだ」「あなたは、そのことに全部、責任があるの?」と彼女は尋ねた。「いいや、」と彼は答えた。「それなら、なぜ、あなたは『ありがとう』と言うかわりに説明しなかったの」と我慢できなくなって叫んだ。
 ところが、「もし誰か人がニー・ト・シェング(Ni To-sheng 註:ウオッチマン・ニーの中国名)を天にあげるまでほめそやしても」というのがその答えだった、「彼は依然としてニー・ト・シェングである。また誰かがニー・ ト・シェングを地獄に突き落とすまでこき下ろしても、彼はニー・ト・シェングのままだよ」

 神様は正しいお方である、彼にとってはそれで十分だった。いかにも彼らしいのだが、ウオッチマンは彼に反対していた兄弟たちの数人に対して秘かに財政面の援助を与えていたことが知られている。

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.172~173より。)
キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。(新約聖書 ローマ15:3) 

2012年4月23日月曜日

働きながら、人々を支え、みことばを伝える

 彼の弟であるジョージはセントジョン大学出身の化学の学士だったが自らの実験所を持つ化学研究者として独立していた。彼はまた上海に製造・販売の薬品会社、ニー・ブラザーズを設立していた。その会社に家族のうち何人かが出資していた。ジョージは先生であって、実業家と言うより、科学者であったので、商売は繁盛していなかった。しかし、ウオッチマンはここには何か可能性があると見ていた。特性は非軍事であったが、戦時の必要を満たしたのでまだ将来性のあるものとして存続できた。

  1938年のずっと以前、ロンドンでウオッチマンは、弟のスルファニルアミド製造の特許を獲得する件に関して助言を求めたことがあった。今や彼は高品質の合成医薬品の製造のための同族会社を提案する考えを抱き、化学者としての弟の経験を用いて、余剰利益を主の働きのために運用して行こうとした。そのようにして中国生化学実験所(CBC)は上海のキアオチョウ通り(Kiaochou Road)に誕生した。支配人としてウオッチマンは香港からC.L.ユィンを招聘した。彼は数年前には廬山サナトリウムで患者であった時はウオッチマンの(主の)証を拒んでいたが、ジョン・サングをとおして主に心をとらえられたばかりであった。まず取締役会会長として、ウオッチマンは経営は(他の者に)まかせ、ただ事業計画に目配りをするだけであり、仕事の打ち合わせに出席するためには現代風の正装に身をすべりこませ、それが終わると普段の服に着替え、古びたスローチハットをかぶっては聖徒を訪問するのであった。

 彼のもっとも親密な友達でさえ彼の外見上の方向転換に当惑させられた。フェイスフル・ルカはどのようにしてダビデ・タンとフィリップ・ルアンと一緒にウ オッチマンとチャリティーが住んでいるユーフア13番別荘の簡素な家庭を訪問したかを語っている。夫妻は暗幕カーテンをつるし、窓に細長い布を貼り付け、 ほとんど暖房のない部屋に座っていたのだが、そこで彼は多くの人が知りたがっていた質問をした。なぜあなたは神の働きをほったらかしにして商売に一生懸命なのか。「私はパウロがコリントやエペソでなしたことをしているにすぎません」と彼は答えた。「仕事は例外的なものであり、パートタイムです。一日に一時間会社の販売員たちの訓練のために時間を割くが、その後は主の働きをしています」そして販売員たちは忙しい「使徒たち」であり、彼らは今や福音の証と賃金雇用を一致するように励まされた。しかし彼は友人たちの質問に追いつめられて、悲しそうに付け加えた「私は夫を失った未亡人のようです。(宣教)財政の必要のために働きに出かけなければならないのです」

 しかし意義深いことは彼はのちに貢献することになる道理を認めた。すなわち日増しに増す退屈であった。才気ある人として彼は恐らく二流のものに悩まされ、もっと大きな精神に入れ替わる刺激が失せていくのを感じたことだろう。その時の彼の悩みは古くからある無感動の罪(sin of accidie)と見なされるものかも知れない。「聖なる訓練の侮蔑、人の告白の嫌悪・・・詩篇が今まさに歌われようとしているときに、折悪しくあくびをもってその詩を妨害するようになるような特殊性」したがって彼の反応、 すなわち最初は反抗、そしてそれからは逆境にあっての不動はチョーサーの療法の光のうちに説明され得るものである。「この無感動というひどい罪とその同じものから発する感情に反して、堅忍不抜と呼ばれる徳があります。この徳は人々に自らの意志という厳しく最悪なものを、賢明に理性的に引き受けさせるものです」

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.170~172より。訳していて後半は残念ながらほとんど意味が分からない。チョーサーのカンタベリー物語の「牧師の話」が下敷きになっているのでその話をよく読めばわかるようだ。)

自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。・・・あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。(新約聖書 使徒18:3、20:34)

2012年4月22日日曜日

経済的苦境と宣教のはたらき

 リバイバルを唱える説教者が満喫する一つの利点は彼が自由に行動できることであり、働きの実の面倒を見ることを人まかせ、神まかせにすることである。ところが、ウオッチマンは一人の使徒として働き、教会を立て、自ら築き上げることに心を配り、はるかに重い霊的責任を負い、政治的な危機や交流がなくなったこの二、三年の間、彼に重くのしかかる責任を負うのを当然としたのだった。すべてのうちでもっとも深刻なことは彼が若いフルタイムの同労者に対して覚えていた道義的な責任であった。彼らは何の確かな報酬も得ず、国中のいたるところに散っていき、忠実に福音に仕えていた。

 彼自身の初期の経験、すなわち神様が実際的な必要をご存知だったということは、若き働き人が神様に対する犠牲的な奉仕の中で経験する試みに何らかの理解をもたらしたのであった。ウオッチマンが彼らのうちの一人が厳しい信仰の試練を通過しているのを見て指摘したように、「涙を拭いながら手を鋤につけることーそれがキリスト信仰なのだ」(註:ルカ9:62)そこで彼は同労者に次のように書くことができた。「教会の関心事と世界のこの地域に関する事情は私にとって重くのしかかっている。私は楽天家ではない、主に信頼して地道に歩くものだ」

 この急速に拡大する働き、およそ二百人のフルタイムの働き人をかかえ、広がる旅行、書物発行のプログラム、借り入れられた土地、自らの地所とする計画はどのようにしてその台所が支えられたかと問われるかも知れない。主原則は各個人の収入の十一献金であった。これは決して律法的には行なわれなかった。十一献金は人が自分のすべてを神に捧げるしるしだと見られていたからである。ただ与える原則は教えられ、勤勉に実践された。その結果あらゆる各地のアッセンブリー・ホール教会は自給であった。しかし、私たちが見て来たように、長老を持つ教会と必ずしもどの地方教会にも責任のない同労者が仲間としてともにいる働きとの間には違いがあった。

 福音を新しく開拓するとき、こういう人たちは家族の家計に加えて一時的なホールの借り賃や聖句集やトラクトの印刷のような支出のしわ寄せが生じた。彼らは教会や個々のクリスチャンから贈り物を受け取ることがあり、信仰生活を実地に教えられた。しかし彼らは霊的な相談事や物質的な支えにおいて、ウオッチマン・ニーにある程度個人的にお世話になった。彼らのうち約40人は現実にウオッチマンが直接責任を担った。だから働きのための資金は教会の捧げものと切り離した資金として取り扱われ、ウオッチマンと二三人の年配の同労者により管理されていた。

 中国人は商売の特別なセンスを持っていて、救いの福音により多くの成功した実業人が教会に来るようになった。(the saving Good News had brought many successful businessmen into the church.)こういう人たちのうちの何人かは働きを拡大するために気前の良い融資をして主に対する愛をあらわした。この時になされた「不正の富」についての透徹した話の中でニーは、もし(引用者註:富を持つ)エジプトが神の御顧みという点からは「役に立たない」ものとされるのなら、どのようにして私たちの富はもたらされねばならないか、富は神の領分とこの世の領分を分かつ境界線を横切って送られてはいけないかを示している。つまり私たち自身がその境界線を越えなければならないということである。

 したがって彼はこの世の仕事に反対しなかった。むしろ彼は使徒パウロのテトスへの勧めに従った。「確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(テトス3:8)「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。 」(テトス3:14)(註:ルカ16:9参照)

 しかし、日本軍の東方海上の占領による揚子江貿易の初期の破壊にともなって、多くの中国人の商業上の利益は損なわれ、こういうものに依存していた限り、 主の働きの台所事情は全て厳しい打撃を受けた。危機的な時期に、二回、海外から戻ってきてすぐ、ウオッチマンはイギリスから働きのための捧げものを受け取った。今や日本と合衆国との対立が激化したことにともない、インフレーションがかなり急速に進行し租界地における中国貿易はほとんど行き詰まりに達した。キリスト者の事業のための資金の放出や移動はどんなものもほとんど不可能になった。

 彼は今やこういう忠実な若い「使徒たち」の多くが、その上、その家族が飢えており、身体を悪くし、家計が貧窮しているのを見た。普通の教会員がかなり暮らし向きが悪くなり、彼らも彼も困っている人のために助けとなる残された資金を持ち合わせなかった。

このようにしてウオッチマン・ニーの物語は今や予期せぬ転換にさしかかり、数人の者には人が変わったように感じられる事態が発生する。この悪化する問題に落胆して、彼は数ヶ月間にわたり解決を神に求めた。1942年の初頭、今や、彼は神が導かれると確信していたのだが、彼の友人たちの数人の心には大きな疑問を起こすことになった歩みをはじめた。

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.168~170より。全体的に訳しにくいところばかりなのだが、取りあえず英文を併記したところは意味が通ぜず、果たしてその訳で良いのかどなたかに教えていただきたい。)

2012年4月19日木曜日

果報者

中々字は上手にならない、恥っさらしだが記録のため
 昨日の家庭集会は午前中曇っていたが、午後は晴れ間が見えた。メッセージをなさるベック兄にとっては今のご病気(皮膚がん)に対して紫外線がもっとも大きな害を与えることを知っていたので、比較的陽の当らない、部屋の片隅に腰掛けていただいてお話をうかがった。初めて来られた方が今日メールを下さったが、「集会に、あまりにたくさんの人たちがいらっしゃったので驚きました。兄弟姉妹とのよき交わりも与えられ、感謝です。また参加させてください。」とあった。

 来て下さった方のお一人お一人のお顔を思い浮かべながらお名前を書き出してみたら、ほぼ前回と同様に90名余の方が集まられたことが分かった。もとより普通の家だからそんなにたくさんの人が入れるわけがない。皆さんに詰め合わせていただき、窮屈な思いでがまんしていただくしかない。それでも皆さん、みことばに静かに耳を傾けられる。もちろんこの私自身もその中の一人だ。

 私自身、イエス様の福音を聞いて欲しい人はまわりにおられるのだが、中々それらの方々に直接家庭集会の案内をお知らせできないうちに当日を迎えてしまう。しかし、フタを開けてみると、不思議と他の皆さんが誘い合わせて遠くから集まって来て下さる。本当に感謝である。毎回毎回集われる方の二、三十人前後の方が入れ替わる感じなのに、総数ではほぼ同じ人数になることには驚かされるが、喜びでもある。

 みことばは昼間は民数記23:19、ルカ18:27であった。主がどんなに何でも出来るお方であるか、ルカ18章の一つ一つのみことばを通して解き明かされた。そして、祈りは必ず答えられること(1〜8)、どんな罪人でも救うことがお出来になる(9〜10)、預言はこの方にあって必ず成就すること(31〜34)、そして奇蹟を行なうことが出来る方(35〜43)としての主イエス様の御力が明かされた。

 夜は会場を別の方のお家に移して行なわれる。こちらの方は昼間は出席できない会社勤めの方が集われる。7時から始まる。夜のみことばは1コリント15:3〜9であった。私自身、途中うとうとしてしまったが、コリントの教会の一人一人のうちに忍び込んで来た「憎しみ」や「汚れ」のようなものに、いかに対処することができるのか、それは決して人の生まれながらの善意でもって太刀打ちできるものではなく、イエス様のよみがえりの力をもって対処するしかないことをパウロが示していることを、この心で聞かせていただいた。そして、そのよみがえりの力こそ、七つの悪霊を追い出されたマグダラのマリヤがイエス様の十字架を経験して絶望の淵に瀕していたが、力を得て生きて行くためにも、また迫害を続けたパウロが新しく生きるためにも必要なことであり、現に彼らはそのようにして生きたことが明らかにされた。

 メッセンジャーのベック兄は12時ごろ東京を出て、23時ごろ東京に戻られるはずだ。この間、二つのメッセージとその合間には主を求める方々との交わりのために時間を割かれる。82歳にしてこの奉仕を続けられること、そのことは人間の力では不可能である。全面的に主により頼んで、主の全能の力を信じ、よみがえりの力を実際の働きでも示されている。この生きた証を私たちは聖書が人の実生活にあらわされるものとして喜んで受け入れさせていただいている果報者である。

 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(1コリント15:10)

2012年4月17日火曜日

ベニテンズの叫び

「しろいすみれもあるよ」と言われて・・・

 ベニテンズはビジネスマンとして成功した男でしたが、35歳の若さで死にました。死の少し前、何人かの隣人が見舞いに来たとき、彼は言いました。

 「友よ。あなたがどんなことを考えているか、わたしは知っています。せっかく仕事がうまくいっている若い人間がこうして死ななければならないのを見るのは、何とあわれなことだろう、とあなたがたは考えています。こういう状況にいる人を、もしわたしが見舞ったならば、わたしもおそらく同じように考えるでしょう。

 「けれども今わたしが思っていることは、そういうあなたがたの考えとはかなり違います。若いうちに死ななければならないこと、商売が軌道に乗りかけたときに死ななければならないことは、あまり苦痛ではありません。あと数時間すれば、わたしは土に葬られるでしょう。そのときわたしは神の御前で永遠に幸せな自分を見出すか、それともあらゆる平安から永遠に突き放されてしまうかの、どちらかです。この二つ以外のものはたとえどんなものであっても、全く取るに足りないくだらないものにすぎない・・・・。ああ、このことを十分に表現することばをわたしは見つけられません。

 「死はこの世の喜びに別れを告げること、だから悲惨なことだと考えがちです。けれどもその死の結果、そのあとどうなるのかが問題なのであって、肉体の死そのものにどんなあわれなこと、恐ろしいことがあるのでしょう。人が死の状態にはいったときに、その状態がどういうものかが重要なんです。それ以外のことはどうでもいいことです。

 「ご承知のようにわたしたちの友ラリーは、パーティーに出かけようとして服を着かけているときに死にました。パーティーが終わるまで生き延びなかったことを彼は今悲しんでいるなどと、考えることができますか。

 「もしわたしが今、神と共なる永遠の喜びの中にはいろうとしているのであれば、あともう少し生き延びて取引を二つ三つ成功させることができないからといって、そんなことを残念がるはずがないではありませんか。またもし失われた魂の仲間に加わることになっているとするならば、財産をたっぷり持った老人として彼らに加わるほうが幸せだなどと考えられるでしょうか。

 「今のわたしと同じくらい死が近づいてきたときには、あなたがたも年齢や財産や地位というものが全く何の意味も持たないことがわかるでしょう。死を迎える部屋がどれほど多くの家具で飾り立てられているかなどが、全く意味を持たないのと同じです。どれほど莫大な世の富を持っていたとしてもそれらを全部捨てて、その代わりに、デボーションと良い働きのために過ごす一年間を手に入れられたらいいのにとわたしは今思っています。

 「わたしは一応は教会に籍を置き、スキャンダルのない生活をしてきました。そのわたしが今このように考えていることをあなたがたはふしぎに思うかもしれません。けれども今まで殺人や姦淫の罪を犯したことがなかったとしか言うことができないならば、それは何と貧しい聖潔でしょう。そしてまさにわたしについて言うことができるのはただそれだけです。

 「商売のことではこれまで知恵をつくして努力してきました。本をたくさん読み、経験豊かで判断力を備えた人たちと喜んで会話を交わしてきました。そのような努力を、なぜわたしはキリスト信仰のほうに向けなかったか、と今は悔やんでいます。最善をつくした末に、人間としての弱さと至らなさを今悲しんでいるのならば、神の恵みを信頼して、謙虚にしかも心安らかに、このベッドに横たわっていることができます。けれども信仰的に成長する努力をわたしは全く怠ってきたのです。それを弱さとか至らなさと呼ぶことがどうしてできるでしょう。」

 そう言いかけたとき、ベニテンズにけいれんが襲いました。そして帰らぬ人となったのです。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』ウィリアム・ロー著棚瀬多喜雄訳23〜25頁より引用。今日の火曜の学びは、28年前、ベック兄が福音を大切にしている人々の集まりで外部から要請されたメッセージを、今回は集会内のどなたかに要望されて再現されたものだ。その中で幾人かでも主のみもとに人々を連れて来ようとしない信者の怠慢には三つの要因があると言われ、それは人々の霊的状態の認識不足、配慮不足、想像力不足にあると警告された。先ずは上記の「ベニテンズの叫び(霊的状態)」を心から受け止め、悔い改めることから始めたい。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」新約聖書 マタイ7:14

2012年4月14日土曜日

生命を賭して

今日は生憎雨だったが、昨日は穏やかだった。線路際の今年のすみれ。
(この)チンデルの英訳聖書は実に立派な訳で、欽定訳聖書は凡てこのチンデル訳を基礎としてなされたのである。この二つの聖書を一頁でも比較してみると、いかに欽定訳聖書が、チンデル訳に負うところが多いのかがわかるのであるが、今ここでそれの出来ないのは残念である。所々言葉が変わっているくらいでほとんど同じところもある。そしてこのチンデル訳の特長は、出来るだけ単純なわかりやすい言葉をもって訳して、しかもその意味を適切に現わしているところにある。これ彼が聖書を平民の書として、牧師の専有より取り返さんとの祈りのあらわれである。元来聖書の原文は、平民のためにわかりよく書かれたものであるが、それをカトリックの牧師たちが貴族語のラテン語に祭り込んでしまったのである。またさきにも述べたごとくクォート版の方には序文と脚注がついていて、この註解をタンスル等は「有害な註解」と言ったそうであるが、その価値は今日誰でも認めるところである。またその序文には彼の信仰の正しさがあらわれている。今その数節を引用する。

我らが、神の律法が正しく説かれて、いかに心の底より、精神を尽し、力を尽して、神 を愛さねばならないか、また隣人を(しかり敵までも)愛さねばならないか、また神の命令はいかなることでもなし、禁じられたことはいかなることをもなしてはならないのを知るとき、我らの良心はむしろ神とその律法に対して怒りを抱くものである。生まれながらの人間は、律法が善でありまたそれを与え給うた神が義であることを、認めることはできない。人間の慧い理性も、意志も、堅く悪魔に捉えられている。キリストの血潮以外いかなるものも、この束縛より解き放つことはできない。

 チンデルは人間の罪がいかに根本的であるかをよく知っていた。隣人を愛し、神を信ずる力さえもなくなっている本当の人間の状態を、彼はよく知っていた。儀式や伝統や形式の宗教で満足し得る人は、真の深い罪の自覚がないからである。この深い罪を知るものは、ただ基督の十字架以外、それより解き放つもののないことを知るはずである。

憫れむべき良心が、基督のいたましい死がいかに有難いか、また彼の贖いといさおしを通して、いかに神の愛と憐れみが溢れているかを知る時、我らは再び愛することが出来るし、また神の律法が善であり、それを与え給うた神が義であることを認め、病人が健康を願うごとく、神の律法が満たされることを願うようになる。

 なんと深い言葉であろうか。人を愛することも、神を信ずることも出来ないまでに堕落したこの人間が、基督の十字架の愛の迫りに目を開かれて、はじめて他を愛することも出来るし、神を信ずることも出来るというのである。しかもそれのみでなく、自らの救いの問題を越えて神の律法の満たされることを、本質的自然的要求として願うようになるというのである。

 また彼がこの聖書を訳すのに、いかに謙虚な心をもって、誤りなく真実の福音を伝えんとしたかがこの序文にあらわれている。

基督にあって最も愛する兄弟姉妹のために、その信仰を起こし、慰め励まそうとしてこの新約聖書を訳した。もしも私より以上に語学に通じ、私よりもより深く聖書の意義、聖霊の意味を解する、より高い賜物を与えられている人があれば、私はその人にこの訳書を平和な霊をもって考え調べることを奨め、また願う者である。そしてもし彼らが、私の言葉の不適当な点、英語の不正確な点などがあるのを発見すれば、それを改めるのが彼らの義務であると考えるべきである。なぜなら、神の賜物は我らのみが受けて彼らには隠されているのでなく、神と基督の栄光のために、また基督のからだなる集会の信仰を増すために、彼らにも与えられているからである。

 かくチンデルは、誰かより以上の賜物を与えれている人にその改訳を願うとともに、彼自らも絶えず努力した。彼は死刑に処せられる時まで、この改訳の筆を棄てなかったのである。実にこの努力は聖霊の導きと、生命を棄てても母国民によりよく福音を伝えんとする押さえ切れない愛とがなかったならば、到底出来ないことである。最後に有名な聖書註解者ウェストコットが、このチンデル訳の聖書についていっている言葉を引用して、この章を終ることとする。

聖書翻訳において、彼が学者であったと同時に徹底せる信仰の人であったことがわかる。始めより終りまで、その文体において、解釈において、彼独特なものがある。チンデルの独創性は今日我らの聖書の独創性として多く遺っている。されど彼の精神が聖書全体を力づけている影響は、その言葉がそのまま遺っている以上永久的なものである。彼は信仰に溢れて努力した。彼の足らざるところに対しては、その成功の秘訣を後継者にのこしている。彼の功績の決定的なものは聖書を一般化したというところにある。学問的用語でなく、簡単な普通語において語っている。この功績は永遠に認められるべきである。

(『藤本正高著作集第三巻』〈ウイリヤム・チンデル伝—新約聖書を翻訳す〉458頁〜462頁から引用。All scripture is given by inspiration of God, and is profitable for doctrine, for reproof, for correction, for instruction in righteousness: That the man of God may be perfect, throughly furnished unto all good works. この聖句もチンデルによる英訳なのだろうか。チンデル訳聖書をお持ちの方に教えていただきたいところである。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」新約聖書 2テモテ3:16

2012年4月13日金曜日

英語訳聖書のパトロンは誰?

(それは)1529年の夏のことである。英国は長らく不和であったフランシス一世及びチャールズ五世と、平和回復の商議をカンブレ—に開くこととなった。その会議にトマス・モーアとタンステルも出席した。そしてこの会議で締結された条項の一つには、相互の国に流布を目的とする異端の書物の印刷を、互いに取り締まることというのがあった。これはチンデルの書が大陸で印刷されることを禁ずるために、特に提出されたのであった。

 これに成功したタンステルは、帰路わざわざ迂回してアントワープに立ち寄った。そこには当時チンデルがいて、英国に聖書を送り込む本拠地としていたからである。彼はここで聖書を買い占めれば、これを絶滅するのにより効果的であると考えた。それで彼はそこで出会った英国の商人パッキングトンに、もしここでチンデル訳の聖書を手に入れることができれば、いかなる代価を払ってもよいと言った。ところがこの商人は以前よりチンデルを尊敬していた人である。

 彼は「あるオランダ人がその聖書をたくさん持って売りたいと言っているのを知っています。もし御必要なら全部買い占めて参りましょう」と言った。監督はそれを聞いて非常に悦んで「それなら是非その全部を買い占めてくれ、代価はいくらでも出す」と言った。そこでパッキングトンは、早速チンデルを訪ねて「貴殿は非常に貧乏しておられますが、一つこの聖書を全部売りませんか、よい買い手がありますが」と言った。

 チンデルは不思議そうな顔をしていたが「その買い手は誰ですか」と尋ねた。「買い手はロンドンの監督タンスルです」と商人は答えた。「やあ、彼は私の聖書を焼くために買うのです」。「たしかにそうです」。そこでチンデルはしばらく考えていたが、微笑しながら「おお、それは嬉しいことです。私は全部売りましょう。それは二重の恩恵です。私は借金から救われ、全世界は神の言葉を焼くことに反対の叫びを挙げるでしょう。そして私はその余分の金でもっと勉強して今度はより立派な訳を出します」と言った。実直そのもののごときチンデルにも、かかるユーモラスな一面があったのである。

 タンステルは鬼の首でも取ったように悦んで、英国への何よりの土産としてその聖書全部を持ち帰った。そうしてパウロ十字街で、公衆の面前においてそれらの焚書を行なった。ところがそれによってチンデルの予想したごとく監督たちに対する国民の反感は増して、チンデル訳の聖書は益々有名になった。そして数年後には、より立派な版がどしどし英国に輸入された。そこでタンステルは非常に憤激してパッキングトンを呼んで詰問した。彼は「私はたしかにあの時に全部を買収したのですが、彼がなお原稿と原版を持っていて再版したのでしょう。何ならその原版を買収なさったらさらに効果がありましょう」と答えた。

 監督はただ苦笑するのみであったということである。その後仲間の一人であるコンスタンが捕えられて、「誰がチンデルに再版の資金を提供したか、それを告白せよ。そうすれば釈放する」と訊問された。そのとき彼は、「その資金を提供した人は、この世界中の誰でもなくロンドンの監督その人です」と答えたということである。

(『藤本正高著作集第三巻』454〜456頁より引用。文中チンデルとあるのは「ティンダル」監督とあるのは「主教」である。『言語変容の基礎的研究』寺田正義著の労作によると英国欽定訳聖書はその80パーセントが「ティンデル訳聖書」に即していると言うことだ。上記のエピソードは藤本氏が「ウイリヤム・チンデル伝」として昭和11年〈1936年 〉という日本が思想統制のもと大きく日中戦争へと舵を取りつつあった時に出版されたことも覚えるべきであろう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」新約聖書 マタイ10:16

2012年4月12日木曜日

わが師わが兄、沢崎堅造(下) 飯沼二郎


 蒙古語の勉強もはじめられた。いろいろの準備をされて、(昭和)19年5月、蒙古伝道者の李達古鐸氏とともに、深く蒙古人地帯に入り込んだ。「初めての蒙古地帯の伝道旅行、日本里にして約百里を、毎日徒歩しました。生涯初めての感謝と苦痛の旅行でした。文字通り、使徒時代の旅行です。二枚の下着をも持たずを実行しました。蒙古犬にやられましたが、幸い大丈夫でした。ゲートルがやられて、脚は助かりました。云うことの出来ない三週間の旅行でした。」と昭和19年6月6日奥田氏あて書簡に記されている。このときの旅行の詳細を記したものが「巴林伝道記」である。蒙古人ひとり一人にイエスの愛を伝えるべく、村から村へ、包から包へと困難な砂漠の旅をつづけていく二人の伝道者の雄々しい姿が、生々と私たちの胸に伝わってくる。汚い着物で態度も粗暴だが、何ともいえない心安さをもつ多くの蒙古人、ひとたび病気になれば、一切の医薬をもたず、ただ病臥するほかはない無知で貧困な多くの蒙古人、しかも貧困のなかに心から客人をもてなす多くの蒙古人に、沢崎さんは心からの愛情を注ぎ、一方、そのような現状になんら救いの手もさしのべずに、ひたすら安逸をむさぼっている喇嘛僧たちに、烈しい怒りを記しておられる。

 私は、とくに、次の一節を引用せずにはいられない。それは、沢崎さんが、偶然、お茶を馳走になった茶碗が、梅毒で鼻の落ちた貧しい若い蒙古人のものであったことを知ったときの感想である。「彼の茶碗を、こちらの習慣に従って洗いも濯ぎもしないで、そのまま汚れたままで使ったのである。併し私は感謝の心が湧いて来たので、私自身が喜んだ。私はこうした機会を計らずも与えられたのだ。願っても叶えられないことだ。伝道の旅に出たればこそ、この深い味わいを得たのである。私は独り草の上に仰向けにひっくり返った。大空は真っ青で、眼に染み込むようだった。私の眼は思わずもうるんだのであった。」これほどまでの無私の愛がありうるということは、私にとってほとんど奇蹟に近い。

 こうして、疲れ切って林西に帰りついた彼を待ち受けていたものは、愛児の死であった。次男新君は、沢崎さんの留守中、あの地方特有の猛烈な風にあてられて肺炎を起こし、必死の看病もかいもなく、彼の帰る前日、天に召された。ちょうど納棺式の最中で、皆が祈っているときだった。彼は黙って皆の中に入り、満語で祈りを捧げた。「蒙古伝道は余りに困難。しかも自分は余りに無力。自分をはげます為に此の子は召された。神の御旨は余りにくすしい。今、自分の心は感謝で一杯である」と(夫人の昭和20年6月奥田氏あて書簡による)。 その夜、沢崎さんは、愛児の遺骸の横に、その手を握って寝た。翌日林西の西山で火葬にした。その翌日、親子三人でその場所に行ってみられたが、「我々は皆、満州の土になるのだから」といって、骨は拾われなかった。後日、西山に墓標を立てた。沢崎さんはそれまでは毎朝、東山で祈っておられたが、以後四キロほどある西山まで、毎日、出かけて祈るようになった。このとき、つくられた詩がある。私は、近代日本の文学のなかで、これほど深く、キリスト・イエスにたいする愛と献身とをうたい上げたものを知らない。日本のクリスチャンが生み出した最高の文学の一つといっても、決して過言ではないであろう。

(『新の墓にて』324〜325頁、所収。昨日、43歳で召された主にある聖徒の葬儀があった。愛の満ちあふれる葬儀であった。本日の主題である沢崎堅造氏の年譜には「1945年8月3日退去命令により家族、大板上を去る。後に残った堅造は、ソ連の参戦により脱出不可能となり、最後がよく確認されないまま、間もなく殉教したとみられている」とある。38歳であった。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」新約聖書 ヘブル11:4

2012年4月10日火曜日

わが師わが兄、沢崎堅造(上) 飯沼二郎


 林西は曠野の果ての町であった。はじめて満州家屋に住まれた。一家四人、荷物を土間に一杯おき、三畳位の「こう」の上に本棚とストーブをおくと、真っ直ぐに寝ようとしても、頭が土間に出てしまうので、足をまげて寝なければならないといった状態であった。林西教会では、毎日曜日、伝道説教の奉仕をされた。伝道説教というのは、毎日曜日、午前九時から二時間、教会の門戸を開け放して、大衆に信者が交替で説教するのであった。「礼拝はそのあと、夏でも冬でも十一時から始まってだいたい一時頃終る。」と夫人は記しておられる。「説教はないが毎週聖さん式があった。正面の机の上にパンというよりも白い丸いおせんべいのようなものと、ブドウ酒とがおいてあった。十一時になるとあつまってきた人が、誰がいうともなく、唱詩○○というと、みんながその賛美歌をうたい出す。そのうち誰かがお祈りする。また誰かが聖書をよむ。つづいて祈る人があり、唱詩という人がある。そのうち、田長老が立ってパンとブドウ酒をわけられる。また何人か祈りがつづき、賛美歌をうたい、自然に終りがくるのである。本当にみ霊にみちびかれた礼拝であった。『よくあんなにふかい祈りが次々できるものだ』と主人は感嘆していた。」

 「また毎週、家庭集会があった。(中略)家で集会をしたこともあったが、そのときは麻油の灯の蕊を五、六本皿のまわりに出し、あかりを明るくする。みんなそのまわりに顔をよせ、大きな活字の聖書をよみ、それについて語り、また祈るのである。それは何か使徒時代を思わせた。集う人達は使徒時代さながら、身分の高い者、権力のある者、教育のある者はなかった。しかし顔は生々としたよろこびにかがやいていた。家庭集会も司会者があるわけでなく、みたまに感じた者が祈り出して始まるのである。

 普段たずねてきて下さっても、『沢崎先生在家昵○』と、声をかけて入って来られると、挨拶などせず、すぐ祈りがはじまるのである。それが挨拶であった。カンの上で主人と話しておられるかと思うと、急に形を改めて祈りとなる。何と純粋な祈りの姿であろう。私はそういった祈りの姿に、どんなに不純な心を正されたことであろう。」

 沢崎さんは、林西でも相変わらず東の山へ祈りに行かれた。ときには望君をつれて行かれることもあった。帰ると食事をされ、午前中は聖書の勉強、午後はそれ以外の研究をされた。聖書の勉強はヘブル語、ギリシャ語の原語の意味をしらべ、その意味からみ言葉が何を語り給うかを考えるといったやり方であった。たとえば、イザヤ書三十五章などの「曠野」という言葉は「語る」という動詞から出ている。人の「語る」の聞えぬ曠野がどうして「語る」という言葉に通じるのか。曠野は人の声は聞えぬが、神の声を聞くところなのだ、そういった解釈をされた。・・・

(『新の墓にてーキリスト教詩文集ー』沢崎堅造著322頁以下から引用。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。〈イザヤ35:1〜3、5〜6、8〜10

2012年4月9日月曜日

新(あらた)の墓にて 沢崎堅造


 この静やかな心
 丘の上にて 
 青空に 陽は輝き
 牛群は 一瞬動かず
 天国の影

 わが児新(あらた)の墓は
 見はるかす丘の麓
 草畳み 海の如し
 一盛りの土塊
 木標細し

 牛の群 取巻き
 土を掻き 角をこする
 木標折れざるや
 されど我は心楽し

 昨日は 小羊の跡一面
 土塊は遂に無くなり
 或るは草地と化せん
 されど 我は楽し

 林西の西の山
 墓標は東に面す
 何か 東山の
 伊藤君の墓と向ひ合す心地

 旅に出でし時
 母に抱かれて 我を送りたりき
 我は顧みざりき
 そは基督の道をゆくものなれば

 最後の五分間
 東門の漸く見えしとき
 疲れし我は我を励したり
 知らず、 我が家には
 死にし児待てり

 白き棺を央にして
 人々は重なりて祈り居れり
 我は そと入りて
 祈りの中に感謝したり

 蒙古伝道—
 それは余りにも重々しき言葉
 小さき旅に
 小さき死が 供へられたり

 愚かなる父を励ますため
 この児は 死を以て
 再び帰へることなきよう
 我が脚に 釘打てり

 涙は湧かず
 ただ堅きものが
 胸も顔も蔽ひたり
 単り離れん

 あまりにも奇しき
 厳しき 神の御旨よ
 粛然として襟を正すのみ
 伝道とは 天国の業なり

 基督と共に
 基督の中に
 ああ基督に包まれて
 何処までも 何時にても
 何事が起きても 心安けし

 天国は 静かに近づき
 わが世に 垂れ交わる
 きよき、温き、心は充つ
 基督と聖徒とわが児はあり

 文は書けず
 書は読めず
 祈りも ただ黙するのみ
 僅に 基督の生命 湧き上る

 天国の便り
 これを想ひ これを述べん
 十字架は
 天国の窓なり

 「復活在我」
 「在基督裏 新造的人」
 木標の両面に
 風冷し

(『新の墓にて』沢崎堅造著未来社刊1967年270頁より引用。沢崎堅造と言っても知る人は少ないであろう。戦前京大人文科学研究所の嘱託のまま、単身蒙古伝道に献身し、敗戦直前に蒙古の大板上で消息を絶たれた方である。「在基督裏 新造的人」とは恐らく「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)であろう。)

2012年4月8日日曜日

ここにはおられません。よみがえられたのです。

使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。(新約聖書 ルカ24:11)

 我々にとって、ここは重要な場面です。最初のイースターの朝早く、弟子たちは戸を閉ざし、息をひそめていました。

 すると荒々しいノックの音がします。みんなは一瞬、息をのみました。—大祭司の捕縛隊ではないか? 主が十字架につけられたうえ、我々も同じ目に遭うというのか?

 ノックは一段と強くなりました。それから女の声が聞こえます。ひとりの弟子がそっと戸を開けます。よく知っている女の顔が、そこに並んでいました。興奮して女たちは叫びます。—「イエスのお墓が空です。御使いが、主は生きておられる、と言いました。」「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われた。」

 私はこの場面を想像します。ヨハネがばかにしたような笑いを浮かべて、「また女のおしゃべりだ」と言います。マタイは耳をふさいで、「そんなばか話で、我々の苦しみを茶化す気かい?」と言い、ペテロは立ち上がると、女を外へ締め出してしまいます。

 この知らせを耳にすると、知性は必ずそのような反応を示します。—「人がよみがえる! 大ボラもいいところだ。」

 こうして、かわいそうな女たちは戸の外に出されてしまいました。彼女らはうちのめされて、しょんぼりと立ち去ったでしょうか? 正直言って、クリスチャンは時に、人々が知性を根拠にメッセージを拒むと、萎縮し、狼狽することがあります。

 けれども—私は確信するが—女たちは笑ったことでしょう。「イエスさまが生きておられるのを本当に見たら、この人たち、びっくりするでしょうね。」彼女らの笑いは勝利を表しています。そして、イエスの弟子たる者はみな、ベンヤミン・シュモルクの詩のように、「義しき者の住み家には、/もう勝利の歌声が響きわたる・・・」と歌い、信じることができます。

 主よ! 盲目のこの世にあって、我らにいつも確信を与えてください。
                             アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本紘訳4月11日より引用。ヴィルヘルム・ブッシュ氏は4月の全日をとおして復活の主についての聖書よりのメッセージを載せている。ルターは『イースター・ブック』〈新教出版社〉で次のように書いています。「(よみがえられた)主がまずマグダラのマリアに、つまり女性にあらわれたもうたということは深く考えるべき事柄です。・・・福音に耳を傾ける人間の典型が女性であるということは、大いなる慰めです。御言葉を聞いた女性たちのうちには、悪魔のすべての攻撃にびくともしない、御言葉からひきだされた大いなる力があったのです。・・・かの女たち自身は弱くても、かの女たちが聞いた御言葉は死と罪の縄目を断ち切る力をもっていました。」挿絵は同書所収より。)

2012年4月7日土曜日

正直な祈りができるよう、主よ、教えて下さい!

いつまでも寒さに震える毎日である。ここ一週間ほど、机に向かうこともなく、外出がちで、ブログとも縁がなくなってしまった。久しぶりに机に向かい過日の家庭集会の様子を録音から追体験させていただいた。メッセージをお願いした方は現役の大学の先生であり、証をお願いしたのは私が教会に導かれた頃、すでに私より先に主のところに導かれた方であるから、信仰の先輩に当る方であった。しかしこの方とは教会時代、二三年ご一緒しただけでそれ以上のことは存じ上げていなかった。

 その後、私が教会を出て集会に導かれて何年かして、風の便りに、この方も集会に導かれていることをお聞きしていた。年に夏などに御代田でお会いするぐらいでそれほど個人的にお交わりがなかった。ところが今年になって毎週ほど火曜の学び会でお会いするようになり、彼女の顔に喜びが顔にあふれているように私には思えてならずお証をお願いした。祈って下さり、今回のお証になった。

 再度お聞きして(4月5日当日お聞きしているので録音とは言え、二回目になる)この方の証のみことばに主の類いない愛を覚え涙させられた。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(新約聖書 エペソ2:14〜16)

 人間関係のうちでその最たるものは家族の関係であろう。ましてなさぬ仲の嫁と姑の間柄などどんなに立派な当人通しであろうともそこには何かと苦労が絶えないものである。しかし、上記のみことばはそのような関係をもたらす最大原因である私たちの「自我」というものをキリストが切開して下さったことが物の見事に描かれているからだ。これはイエス・キリストを信ずる者が一人の例外なく体験できるものである。そのことを彼女は証して下さった。

 一方、メッセージは「正直な祈り」という題で、正直な祈りを妨げる五つのことがらについて聖書から丹念に語られた。①自分でやらなければならないと思い込んでいる②神の前で間違いを言うことを恐れている③神の力を過小評価している④何かにこだわっていたり、問題を先送りすれば良いと思って祈らない怠慢⑤祈りが形骸化している。私たちが主の前に自分が罪人に過ぎない(たとえば、愛さなければならないと思うけれども愛することができない自分の本質)ことを素直に告白し、主の御わざを衷心より求めること。特に「主よ、祈りを教えて下さい」と絶えず祈り求め、主に対して形だけの祈りでなく、中味のある祈りとならなければならないと語って下さった。

 ひとつひとつ我が身に照らし合わせて自分がいかに不正直か、主との交わりを大切にしているか、問われた。そして同時に証された方の証が正直な祈りの積み重ねであることに瞠目させられた。メッセンジャーも証者もお互いに住む世界が違う。この場合は年齢も異なり、仕事も異なる。しかし驚いたことに証者のお孫さんとメッセンジャーのお子さんが仲がいい間柄ということをつい最近知ったのである。60名を越える人が集われた今回の家庭集会も主が私たち主に属する群れである教会の一人一人のたどたどしい祈りに答えてくださる方であることを証明して下さった。

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(新約聖書 ルカ11:1)