このようにして、ウオッチマンは二つの任務を果たし、かつてなかったほど知性面で伸張し、そのことを満喫さえした。しかし、彼のもっとも良い時でももろい体は、課せられたストレスの大きさをすでに示し始めていた。しばらく事業の要求が大変大きくなったので、主のためにはもうそれ以上直接働く力をほとんどあるいは全然持っていなかった。彼の一番上の姉の息子であるステファン・チャンはフ・タン大学の学生だったが、1945年に重慶のレストランで、ある日二人で会い、その時にウオッチマンが世的なことに余りにも夢中なので、かつての精神のうち残っているものを失う危険性があるように感じた。明らかに気分転換が必要な時だった。
そうしている間に上海ではハードゥーン・ロードの集会は減少する員数と格闘していたが、一面では落胆から、他面では(日本)占領軍によって支援された宗教団体に加盟するのを避けるためにチリジリバラバラになり、信者の家庭で一緒に集まっていた。このことは賢明な予防措置ともなった。日本軍はそれぞれの都市ブロックで道路境界を複雑に封鎖してしまった。そこでは信号で突然全日あるいは数日間も封鎖されることもあった。厳しい報復措置の場合には日本軍は数週間閉鎖したままにさえしたのだった。それは誰も捕まえられた地区からは出て行けないので、口で言うことの出来ない苦痛をもたらしたものだったのだが。それゆえに上海のほかのクリスチャンのグループのようにハードゥーン・ロード教会はたとえ個人の家々であったとしても生き残った。家々では御霊が動かす人々がなし得るように行動した。(where those whom the Spirit moved took what lead they could)
しかし八年間にわたる長期の戦争はだらだらとその終末に近づいていた。最後の日本軍はかろうじて重慶政府を倒し中国を二つに分断し、漢口から南方へ猛攻撃を加えた。しかし、当時、日本軍は母国の島が激しい空爆に会い、アメリカ陸軍は侵攻の準備をしており、1945年8月16日
連合軍の降伏文書を受諾した。中国との停戦条約は南京で9月9日に調停された。
ウオッチマンはもはや危険を感ずることなく旅に出ることができ、重慶を離れた。クリスマスには香港にいたが、すぐに上海に戻った。しかし依然として説教に戻るばかりか、回復された教会に戻ることもなかった。聖徒たちは霊的な必要があったが、依然として彼についてのうわさに困惑させられていた。彼は教会の資金の不正使用をしたとか、あるいはもう一つはそれに置き換わって日本軍に協力していたということがまことしやかに言われていた。彼の親しい仲間でさえこの世での働きぶりには困惑していた。はっきりしていたことは彼自身一切口出ししなかったことである。「私はゆだねました、」と彼は一人の友に語る「神様の御手にです」と。(Clearly he himself could not interfere. "I have put it," he told a friend,"into God's hands.")
続く数ヶ月の間に彼は静かにC.B.Cから離れる計画を立て始めた。
株主を満足させて、彼とジョージは取り決めどおりに蓄積された利潤の大部分を取りのけて働きのために移し、働き人の将来の準備とした。次に彼は福州に出かけた。福州のナンタイの17番カスタム・レーンにある家が空っぽになっていた。大きな庭と離れがあり、働き人の訓練センターとして理想的に改装することが可能だった。家長として彼は今やその家を再占拠し、チャリティーの助けを経て主のために有用に用いようと着手した。
少年時代の環境に戻って、彼は断食と祈りと目の前に開かれた聖書を用いて考えを整理しようと試みた。数年の困難な年々を一貫して彼はみことばを学んだり福音を伝えるために前進する計画をやめはしていなかった。問題は今やどこで始めるかであった。上海の混乱は彼が静かに神様がどのように御わざをなされるかを見て待つことを求めていた。信仰に富むC.H.ユ博士はそこで説教に戻り、困難にもめげず、ゆっくり信者たちを一緒に引き出しつつあり、人々がお互いに和解するようにとキリストを内に宿す土台に立つことを勧めたのであった。しかし前進は痛ましいほどに遅々たるものだった。もっと何かが必要とされているようだった。
(『Against the tide』P.175~177より。英文を示した前半部は意味が不明瞭なところ、後半部はウオッチマンの決心を味わっていただきたいために併記した。)
主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(旧約聖書 申命記32:10)