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幼子らをわたしのところに ウーデ 画 |
冬の暗い嵐の夜であった。空には、不気味な黒雲が一面に広がっていた。雨は、すさまじい勢いで、地面をたたいていた。道を歩くこともできな
い。旅の途上にある者のことが気がかりになるような夜であった。日もとっぷり暮れて、どの家の炉辺にも、桜のたきぎが、パチパチ音をたてて燃えていた。
森の中に、一軒の小さな家が立っていた。だが、その軒をくぐって宿を求める旅人は、ほとんど、ひとりもいなかった。ところが、その夜、ひとりの旅人が戸をたたいて、一夜の宿を乞うたのであった。その家の人々は、彼をやさしく迎えいれ、たき火の近く、一番暖かい椅子に座らせて、雨にぬれた服を乾かしてやっ
た。そして、質素な食卓をともにかこむようにとすすめた。食事の席で、旅人は、家族の者たちに、急に暗やみが迫ったとき森の中で道に迷ったことや、親切な人の家に導いてくださいと神に祈ったことや、祈りおえたとたんに、嵐とやみの深いとばりをとおして、この家の窓からもれる光を、かすかにとらえることができたことを告げたのだった。
食事が終わったとき、旅人は、何事かを期待するかのように、あたりを見まわしていた。そこで、主人は、寝床につくように彼をうながして、客のためのこじんまりとした寝室のドアを開いた。子供たちは、それぞれ床につく支度をはじめていた。
「寝るのですか」客は驚いたように叫んだ。「そのまえに、何かすることを、忘れていらっしゃるのではありませんか」。
「いえ、別に、何もありません」。主人は、腑に落ちない表情で答えた。「わたしたちは、一日の仕事を終えたのです。夕食もすましたので、もう寝るばかりです」と。
「では、わたしは今までの皆さんのご厚意を感謝して、またすぐに旅をつづけることにしましょう。道は暗く、嵐もまだおさまってはいないけれど」。客は、いそいで言葉をつづけた。「わたしは、一日の終わりに、すべてを神の御手にゆだねて、神の御加護と御恵みを祈らない家族のかたとは、一つ屋根の下に、どうしても眠ることができないのです。夜半に、屋根が落ちはしまいかと心配になるものですから」。
「わたしたちは、そんな事は、一度も考えたことはなかったのに」。妻の細い、ふるえる声がきこえた。
「天の神は、考えておられたでしょう」。客は、荷物を取りあげながら答えて言うのであった。「もし神が忍耐強いおかたでなかったら、この屋根は、ずっと前に落ちていたでしょう。なぜなら、祈りのきこえない家は、いわば、砂の上に立っている家のようなものです。すみませんが、わたしの用意を、手伝ってくださいませんか。もう出かけなければなりません。わたしには、この家にとどまる勇気がありません」。
「今夜、どうぞ、ここに泊まってください」。貧しいこの家の主人は、客にすがるようにしてたのみはじめた。「そして、わたしたちが、どのようにして一日を終わったらよいのか教えてください。わたしたちと一緒に祈ってください。わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、まだ一度も家庭礼拝を守ったことがないので、どうしたらよいか、わからないのです」。
客は、すぐに急いで小さな聖書をポケットから取り出し、短い聖句を読み、椅子の横にひざまずいて、熱心に祈りをささげた。自分自身のため、また、人里離れた森の中に、神からも遠のいて住んでいる家族のために。彼は、この人々が、いっさいの思い煩いを、天の父に告げる者となるように、また、すべてのよいたまものは、神から授けられていることを悟るように祈った。彼らが、限りなく貴いたまものであるところの、
キリストによるゆるしの恵みを、乞い求める者となるよう、また、彼らの心の中に、聖霊がゆたかにそそがれるようにと祈った。彼は、最後に、家族の者と、自分自身をあわれみ深い神の御腕にゆだね、ひと夜のみまもりを願って、真心のこもった「アーメン」で、祈りを閉じた。嵐の夜、奥深い森の一軒屋で、ささげられた祈りは、決して無駄ではなかった。イエスの名によって祈る祈りはきかれる、とのみことばどおりに、その祈りは、神のみ座にまでとどいて、神に聞きあげ
られたのであった。神に対して、何年も閉ざしていた家族の者の心を、神は、祈りのゆえに開きたもうた。その祈りは、心の扉を開く鍵となったのである。昔のルデヤのように、彼らは、「みことばを、喜んで受けた」のだ。
客が寝室に案内されたときには、すでに夜はふけていた。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」との聞きあきた陳腐な問いのかわりに、今や、「救われるためには、何をしたらよいだろうか」という、最も大切な問いが、家族の者の心に生まれたのだった。スカルの井戸べで、主が教えたもうたように、旅に疲れたこの客も、「彼をつかわされたかたのわざ」を行なうためには、喜んで、自分の睡眠を犠牲にした。彼にとっては、主のわざを行なうことは、睡眠よりも益になる尊いことであった。
夜が明けた頃には、雨もやみ、嵐も去って、雲のきれ目から太陽が笑っていた。客は、家族の者と朝の礼拝を守った後、旅をつづけるために、別れを告げた。彼らは、その旅人を再び見ることはできなかった。しかし、その日以来、かの森の家では、新しい生活がはじめられていた。イエスが、その家の主人となり、両親と子供たちは、喜んで主に仕えた。新しい生活にはいった彼らにとっては、祈りは呼吸の役目を果たすものとなった。彼らは自然に祈り、絶えず祈った。祈りのうちに、心
の静けさや、平和や、みちたりた思いを見いだすことができた。新しい人は、天国の清潔な空気を呼吸しなければ、生きることはできない。
家族の者たちは、あの寒い嵐の夜に訪れた人の名前を、ついに尋ねずに別れたのであるが、日々の祈りには、彼のことを、必ずかかさずに祈った。大いなる主の日、隠されていたことが、すべてあきらかにされるその日には、この家族の者と、無名の旅人とは、再び顔を合わせるであろう。そして、互いにそれと知って、
神のくすしいみわざを賛美するであろう。
愛する友よ。あなたの家庭は、どのような状況にあるであろうか。まっすぐな支えがなく
て、ガラガラと崩れかけはしまいか、と気にかかっているのではあるまいか。そのような家の中で寝起きするのは、危険である。祈りのない家は、喜びのない家である。見はなされた家、キリストのおりたまわない家である。もし家庭礼拝を守っていないなら、今晩、家族の者を集めて、神の前に、あなたの心のうちにあることをそそぎ出し、家族の者のため、また、あなた自身のために祈りなさい。そうすれば、あなたは、神の永遠の愛のみつばさの下に憩うことができるであろう。今が、そのときである。明日を待てば、あなたには、その機会はないかも知れない。
(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文舎 1961年刊行524〜528頁より引用。)
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。(新約聖書 マタイ21:13)