2012年3月23日金曜日

宣教における人間関係の実際

チャリティーはいつも出席し、もの静かで控え目で人々の群れからは少し離れているのを好んだが、夫がなすことを全面的に支持していた。彼女の姉のフェイス(バオ夫人)は他の女性の働き人のように、もっと積極的に個人的な相談に応じた。ウオッチマンの二番目の姉クェイ・チェン(リン夫人)もそうだった。彼女は町の別の責任から抜け出ることができる時は裏方にまわって姉妹たちの必要を手助けした。そして大柄で、元気のいい頼りがいのあるピース・ウワング、小柄で鳥のように素早く、賢く大変思いやりのあるルツ・リーもまたいつも出しゃばらないでいた。

 1940年の春にウオッチマンは集会で「神様のご自分の民に対するお取り扱い」という題でアブラハム・イサク・ヤコブに関する一連の実践的な学びをした。それは後の部門で特別話するものとなった。ヨーロッパから戻り、彼はまた教会に関する説教に、もっと「霊的」なあるいは奥義的な注釈を与えた。「教会、勝利者、そして神の永遠の目的」は彼の最初の修養会での演目であったが、これらは続いて信者や仲間の同労者にとっての「教会、からだ、そして奥義」に関する拡大した学びのコースとなった。ウイットネス・リーはこれらに出席して、霊的に盛況なチーフーの集会に戻り大変強められた。ウオッチマンは修養会を継続するために合衆国での聖書訓練のための魅力ある招待をきっぱり断った。

 この霊的な強調は、ニーの完全な特徴ではなかったが、無意識のうちに献身している婦人宣教師たちの間の好みを満たした。彼女らは西欧からやってきて彼と再び結びつきを持ち、今や上海の様々なつながりのある他の人々とともに外国人の共鳴者という大きくなっていく(教会の)からだの一員となった。何人かの者はもうすでに宣教団をやめ、ニーの働きに献身した。婦人宣教師の間では無言のうちに他の人々も彼らのあとに続くようにという期待があった。

 1938年にもどれば、ロンドンでW.H.アルディスはニーに表明していた。それは 「あなたが上海に戻れば、あなたやあなたと一緒である人々とC.I.Mとの間で、奉仕においてもっと多くのまたもっと緊密な交わりが可能かもしれないという真摯な希望」の表明であった。この希望は特定の地方の場合に実現されたかもしれないが、規模が大きくなれば、失望させられることになったというのはほとんど驚くに当らない。C.I.Mの現場の理事たちや他の宣教団体はニーの働きを注意をもって見続けていた。とは言え、この働きに対する主な見方は、依然として主の働きの場における、改宗者の羊どろぼうとして、ニーがイメージされていたことに恐らくあったのであろう。

 宣教師の中で、ソーントン・スターン博士はのちに教会の長老として中国人教会に参加するためにすでに招かれていたが、彼を除けば不幸なことにウェン・ テー・リ(Wen Teh Li)と関係する一人の外国人もいなかった。これは重大な欠陥であった。というのは、数人の婦人たちはニーを神の人のように優れた人だとおべっかを使うことに夢中になっていたのが疑いなかったからである。彼女らにとってはハードン・ロード(Hardoon Road)の教会が上海のキリストのからだの最高の現われであるというだけではなかった。彼女らが神の御心は彼にあるとした中国のただ一人の人が「私たちの兄弟」(引用者註:ウオッチマン・ニーのことであろう)であったのだ。

 彼女らは神の子どもたちを支配するという神の永遠の目的の「新しい教え」に夢中になり、未信者の救いだけを考えるのはこの目的から逸脱することだと考えて万事を判断した。奉仕と証、祈りと静思の時はこういう言い回しの中では容易に「生まれながらの人間の訓練」にすぎないとされる可能性があった。この素晴らしいキリストのからだの啓示が求めたものは長い試みによってその生まれながらの人間が破産することであった。そう、「静かに座せ、そして神にすべてをまかせよ。」だ。

 このような行き過ぎが、数人の人々が宣教団を離れ、何もしないでハードン・ロードに留まっているという疑いを支持するのに役立った。このうちにある真理の要素がたとえどんなものであっても、与えられる印象は、無気力になり、動かず、「御霊から離れて」行動しないようにしようとする恐れだった。キリストに対する目に見える活動は、より高度なものと考えられるものの支持のため、軽蔑され放棄されるようだった。

 そのような証言に基づいて、ニーの外国人に対する影響は役立たなかったという見方が表明されて来たが、そのことはむしろ求められたことであったのかもしれない。こういうことの幾つかの結果がウオッチマンに関する疑問を明らかにすることでなかっただろうか。確かに西欧の人々が入って来て直面した一つの点で、ウオッチマンはスターン家の人々に彼がこういう宣教団体の「脱退者」の中の数人を恐れていることを打ち明け、ソーントンと彼らのために分離した集会を持つことについて議論さえした。

 そして1941年に二人の理想主義者ではあるが、大事なことを知らない若い宣教師たち、彼らはウオッチマンの働きに向こう見ずにもしがみつくために不十分な根拠に立ち、がんばっていたのだが、ウオッチマンの次の助言は心理的にみてふさわしいものだった。「あなたがたはかなり不安な時を経験して来た。良い休暇が必要だ。浜に出かけて、子供たちを見つけて、取っ組み合いをしてごらんなさいよ」ーそれは時宜にかなった上でも、また急激な治療という点においても、どちらにあっても明らかな処方箋となった。

 こういうものの中の一つの慎重な結論は恐らく正しいものであろう。つまり、ハードン・ロードが中国に対して代表していたものは外国のひもつきでないキリスト教であったので、いくつかの注目すべき例外を備える外国人たちが、こういう事情(引用者註:外国のひもつきにならないと言う宣教)にはふさわしくないとするのは議論の余地があったということであ る。しばしば宣教地で「地方教会」の証を評価していたこれらの宣教師たちは、主の働きをし、自らもっとも素晴らしい奉仕をした。それは彼ら自身が宣教地にとどまるのは、たとえ増し加わる苦痛があったとしても、それを乗り越えてささげる祈りと同時に身を低くすることによるのであった。

(『Against the tide』by Angus Kinnear161~163頁より。今日の箇所はかなり翻訳の難しいところであった。当時の事情はわからず、Angus Kinnear というイギリスの宣教師がウオッチマンをどう見ていたかとも関係するところである。 Angus Kinnear はオースティン・スパークスの娘婿であるはずだから、ウオッチマン・ニーが信頼していたオースティン・スパークスからの話も聞いていたことであろう。小石とも言うべき単語伝いに全貌がひとつづつ明らかにされるのが翻訳の妙味であるが、私自身の理解が不十分なところがあるのでとんでもない誤訳になっている恐れは多分にある。諒とされたい。)

まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(旧約聖書 詩篇119:24、99〜100)

0 件のコメント:

コメントを投稿